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だいたい酔ってる。
タエの「武家は決して雇われる側にならない」という考えから三之丞は社長=雇用者にしてほしいと言って回るのだが、トキはそれをあっさり捨て去り、女中=雇われ者になることによってタエや三之丞を救おうとする。江戸期であれば例えば御家人株のように武家の家格は売買の対象物になりえた。つまり値が付いた。でも明治に入ると武家の価値は0円になる。そこにヘブンが現れ、武家(雇用者)の女中(被雇用者)という本来はあり得ない(矛盾する)存在に20円の価値をつける。逆に言えば、タエの「武家の家格はプライスレス」という態度がヘブンに高値を付けさせる。この価値の転倒がこのドラマの面白さであるとは以前も書いた。
#ばけばけ
武家にしがみつく家庭なのに、まるで現代風ホームドラマのような展開
普通なら寿ぐべき祝言を怖いと言い、誰もが近づきたがらない怪談をおもしろがる主人公

たぶんこのドラマのおもしろさはこのちぐはぐさ(価値の転倒)にあると思うのだが、それを受け入れられるかどうかは人による。前作あんぱんはひっくり返らない正義を求めたが、今作はむしろ価値の転倒(ひっくり返っているさま)を楽しめと言っているようである。無理に言えば、2つの真逆なドラマを楽しめるかどうか、度量が試されていると言えなくもない。
#ばけばけ
November 14, 2025 at 1:52 AM
猪目=猪突猛進だから仕方がないんだけど、勘右衛門は刀を抜きすぎるんだよね。前にも書いたけど、武士が刀を抜けば斬るか斬られるかの世界しか待っていない。そして勘右衛門が武家であることに重きを置くのなら、その刃はヘブンではなく家格を汚したトキに向かうはずなのだが、なぜかペリー(ヘブン)に向かう。勘右衛門の滑稽さは風車に突っ込むドン・キホーテのようである。
そもそも松野家の借金は司乃介の事業失敗が原因なのだが、それを勘右衛門に認めさせたのはトキであり、家の方針に幼いトキが口を出すことは本来ありえないのだが、勘右衛門も「おじょが言うなら」と認めてしまう。松野家は共犯なのである。
#ばけばけ
November 13, 2025 at 2:10 AM
フミは楷書を読めるんだな、というのはさておき。銭太郎は乱暴者だが、トキの稼ぎ方を心配する。彼の父は借金の肩にトキを売り飛ばそうとまでした。銭太郎には借金取りとして肝心な部分(非情さ)が欠けている。タエに肝心な話ができない三之丞もトキを尾行する司乃介も生きていくうえで肝心な何かが欠落している。とすると、彼らはまるで落語の熊さん、八っぁんである。落語の世界で彼らが愛されたのは、自分たちも彼らと同じく肝心な何かが欠落しているが、それでも生きているという共感である。ちなみに以前、銀二郎が給料が入ったら一緒に行こうとトキを誘った牡丹灯籠も落語である。
#ばけばけ
November 12, 2025 at 1:47 AM
「これは完全に勇み足なのだが」とか「無理して言えば」とか「のかもしれないという妄想」とか、いらないね。そんなのわかりきってることだから。なにを言い訳してるんだ。
これは完全に勇み足なのだが、ヘブンが古事記を読んで日本に来たとすれば、ヘブンの愛する人はすでに死んでいるのではなかろうか。
古事記ではイザナギがイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に行く。黄泉の国の入口は出雲だと言われる。無理して言えば、ヘブンは死んでしまった愛する女を生き返らせるために島根に来たのかもしれない。が、イザナギはイザナミの死の姿を見てしまう。イザナギは死んでいくものを振り返ってはいけないと悟る。
でも、時代の流れによって死にゆく日本古来の精神性は振り返ることができる。それがヘブンの救い(慰め)になる、のかもしれないという妄想。
#ばけばけ
今はトキの目線を中心に描かれているので、蛇と蛙(視聴者代表のような役割)の下世話な展開しか見えない人もいるだろうけど、ヘブンの目的は日本滞在記を書き、愛する人(写真の中だけに存在する=生死不明)のいるアメリカに帰ることであり、そのためにヘブンは女中が士族であることにこだわっているはずで、ヘブンがもはや絶滅危惧種である士族の中に日本の古来の精神性を見つけたいのだとすれば、トキはシェヘラザード的な位置におかれてるんだよね。このへんは錦織がヘブンについて「ずば抜けて風変り」と言ったことも布石になってる。極東に来た異人が誰しも女を慰み者にするだけではないのだと。
#ばけばけ
November 11, 2025 at 2:34 PM
これは完全に勇み足なのだが、ヘブンが古事記を読んで日本に来たとすれば、ヘブンの愛する人はすでに死んでいるのではなかろうか。
古事記ではイザナギがイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に行く。黄泉の国の入口は出雲だと言われる。無理して言えば、ヘブンは死んでしまった愛する女を生き返らせるために島根に来たのかもしれない。が、イザナギはイザナミの死の姿を見てしまう。イザナギは死んでいくものを振り返ってはいけないと悟る。
でも、時代の流れによって死にゆく日本古来の精神性は振り返ることができる。それがヘブンの救い(慰め)になる、のかもしれないという妄想。
#ばけばけ
今はトキの目線を中心に描かれているので、蛇と蛙(視聴者代表のような役割)の下世話な展開しか見えない人もいるだろうけど、ヘブンの目的は日本滞在記を書き、愛する人(写真の中だけに存在する=生死不明)のいるアメリカに帰ることであり、そのためにヘブンは女中が士族であることにこだわっているはずで、ヘブンがもはや絶滅危惧種である士族の中に日本の古来の精神性を見つけたいのだとすれば、トキはシェヘラザード的な位置におかれてるんだよね。このへんは錦織がヘブンについて「ずば抜けて風変り」と言ったことも布石になってる。極東に来た異人が誰しも女を慰み者にするだけではないのだと。
#ばけばけ
November 11, 2025 at 1:52 PM
今はトキの目線を中心に描かれているので、蛇と蛙(視聴者代表のような役割)の下世話な展開しか見えない人もいるだろうけど、ヘブンの目的は日本滞在記を書き、愛する人(写真の中だけに存在する=生死不明)のいるアメリカに帰ることであり、そのためにヘブンは女中が士族であることにこだわっているはずで、ヘブンがもはや絶滅危惧種である士族の中に日本の古来の精神性を見つけたいのだとすれば、トキはシェヘラザード的な位置におかれてるんだよね。このへんは錦織がヘブンについて「ずば抜けて風変り」と言ったことも布石になってる。極東に来た異人が誰しも女を慰み者にするだけではないのだと。
#ばけばけ
November 11, 2025 at 1:07 AM
今日は「嘘」しかでてこなかった。
ヘブンには士族であると嘘をつくな(だますな)と言われ、フミには花田旅館で働くと嘘を言い、三之丞には傳のお金だと嘘を言う。トキがお札をくしゃくしゃにしたのは傳からもらったお札であることを装う嘘であり、トキの嘘は用意周到である。嘘も方便という言葉もあるとおり、嘘は負の効用ばかりではなく、嘘をついたと許しを請い、許されることもあるだろうが、ひとつだけけどうやっても元に戻せない嘘がある。それは自分自身に対する嘘である。トキは女中(ラシャメン)になぞなりたくないのである。
#ばけばけ
November 10, 2025 at 1:15 AM
武家の家格というのは江戸期にはお金に換算できたんだよな。例えば御家人株とか(らんまんのすえちゃんの推しである馬琴先生も晩年に家格を買い戻している)。武家の家格は希少性から高額だったんだけど、それらは名誉や誇りに言い換えうる(再解釈)。ところが明治に入ると本当に0円になってしまう。あんぱんの八木は「失いそうになって初めて気が付くことがある」言っていたけど、タエらは売れなくなった武家の家格をお金では買えない誇りや名誉に再解釈している、というのは言い過ぎだとしても勘右衛門は鎧や刀をお金に換えてしまう。武家自身がだれでも買えるものにしてるんだよね。
#ばけばけ
November 9, 2025 at 2:11 AM
傳から「嫁に行かないか」と言われた時も、銀二郎から「2人で東京で暮らさないか」と言われた時も、錦織に「女中になってくれないか」と言われた時もトキはすべて自分ひとりで決めている。誰に指図されたわけでもなく、社会や家族に押し付けられたわけでもない。しかも選択した結果どうなるかをすべて知ったうえで決めている。
朝ドラは自己決定の物語であるとよく言われる。しばしば語られる「あなたの好きなことをしなさい」とか「あなたの思うままにやりなさい」も自己決定ではあるのだが、自己決定の核心はトキのように利益も不利益も知りながらあえて選択する覚悟にあるんだよね。
#ばけばけ
November 7, 2025 at 6:51 AM
「私は家族が好きです。だけん家族のためにお断りしますけん」

昨日の謎は一つ解けたような気がする。タエらが松江に戻って来たのはそこに自分たちの家(家族の思い出)があったからなんだろう。三之丞は何度も雨清水家であることを強調する。家の再興、それができなければせめて雨清水家のあった土地で死にたい。それに呼応するようにトキもわざわざ「家族のために」と言う。そこに保守的で旧弊な家族像をみつけて、束縛しあう家族を否定する(錦織が「怪談は古い」と言ったように)のは簡単なのだが、ここからどうやって「家族のために」を反転させるのか、が見どころですね。
#ばけばけ
November 6, 2025 at 1:45 AM
前にも書いたけど、狂気って度が過ぎると滑稽になるんですよ。逆に滑稽が過ぎると狂気に見える(今日のなみのように)。例えば怪談は相手を驚かせようとして抑揚をつけるとかえってしらけるみたいなことがあって、むしろ淡々と同じトーンで話す方が怖くなる。ばけばけは喜劇をベースにしているからこそ、今日のような悲劇性が浮き立つんじゃないでしょうか。なので「おしん以来のシビアな物語なのに令和コメディだから見てられる」ではなくて逆なんだと思いますね。
November 5, 2025 at 9:21 AM
いろいろ謎な回。
・タエは松江を離れたのではなかったのか?(松江に知人もあるだろうに、なぜ帰ってきた)
・なぜタエは物乞いをしているのか?(武家の誇りがあるなら死を選ぶのではなかろうか)
・士族の娘が欲しいのなら、まず松野家の当主に筋をとおすのではなかろうか?(いきなりトキに頼むのか)
そのうち種明かしがあるのだろうと思いつつ、握手という身体的接触にさまざまな意味を持たせているのは上手だなとは思った(銀二郎が2人で東京に行こうとトキの手を握るのと、最初にヘブンとトキが握手したのと、女中にならないかと言われて握手をするのはそれぞれ違う)。
#ばけばけ
November 5, 2025 at 1:32 AM
トキは家族のために人柱になることも厭わない保守的な娘なんだよね。そして借金返済のためにワークライフバランスを無視して働く。前に書いたようにラシャメンはかなりの侮蔑を含んだ言葉である。日本の保守的な女性初の総理大臣を「現地妻」と表現した女がいたのは記憶に新しい。ラシャメンも現地妻も同じ意味を持つ。なみが言ったとおり「異人の妾は人間ではなく、悪口を言っても石を投げても唾をひっかけても身ぐるみはいで木に縛り付けても」かまわない存在であると言っているに等しい。他者を気軽に侮蔑する人間は今も変わらず存在する。
#ばけばけ
November 4, 2025 at 1:44 AM
毎度思っているのだが、武士が刀を抜けば殺すか殺されるかの後戻りできない世界が待ってるわけで、勘右衛門の沸点の低さは笑い事ではないのだが、そもそも明治維新も数々の暗殺(テロ)の上に成り立っており、戦前の日本人は花見の場でも酔っ払い同士が包丁を振り回し刃傷沙汰が当たり前の風景だったという話も耳にするので、勘右衛門は血の気の多い日本人の原型だよなと思ったりする。と同時にウメの目の病に鷹揚な平太らは花見で刃傷沙汰を起こすような危険人物、あるいは勘右衛門にも寛容なんだろうなと思ったりもする。血の気の多い日本人を支えていたのは日本人の寛容さだったんじゃなかろうか(謎の日本人論)。
#ばけばけ
November 3, 2025 at 2:42 AM
・トキだけでなく直後に江藤もヘブンと握手している
・島根の命運を新聞記者に握らせようとする
・ヘブンが何者であるか錦織に知らせない

これらは江藤の知事としての無能を示すものだが、それをトキだけがヘブンの本当を知っているという朝ドラヒロインしぐさに変換してるんだよね。
また、確かにヘブンは天狗でも河童でもないのだが、子どもでもない。自ら行動し、選択し、助けを求めることができる。それを錦織の「私がいます(I'll be there)」というケアに変換している。
そこに作り手の作為を透かして見てしまうか、素敵に騙してくれたと素直に感傷に浸れるか。
#ばけばけ
October 31, 2025 at 1:48 AM
「なして逃げるかね」

トキの疑問は、なぜ錦織=教師の仕事から逃げるのか?と思うが、ヘブンは最初から滞在記を書き終えたらすぐアメリカに戻るつもりでいる。ヘブンは一刻も早く愛する人の元に帰りたい。愛する人の元を離れたトキとは正反対である。今のヘブンには、なぜトキが銀二郎と別れたのか理解できないだろう。
昨日も書いたとおり、日本の朝の風景がどれほど素晴らしくとも、ヘブンは日本の表面しかなぞっていない。ヘブンが松江(日本)に定着するには深化して日本に触れる必要がある。そのカギがトキであり、自分とは正反対の選択をする、いわゆる「他者」になるのではなかろうか。
#ばけばけ
October 30, 2025 at 1:09 AM
「神々の国の首都だ」

「怪談は古い」と言う錦織は進歩主義者である。錦織が東京で出会った西洋人が錦織の求める答え(日本は遅れている)しか出さないならヘブンは「ずばぬけて風変わり」になる。
ヘブンは東京ではなく松江が日本の中心(首都)だという。古き日本の暮らしの中にある音(人参売りや朝日に向かって柏手を打つ音や鐘の音)に神秘を見つける。でもヘブンは日本の表面しか見ていない。その神秘な音に紛れてシジミ売りの娘が指を切り、へたり込む姿を見ていない。
そういえばこのころ内村鑑三の不敬事件があった。錦織の危険が何かはわからないが、日本のそこかしこに危険はあった。
#ばけばけ
October 29, 2025 at 1:32 AM
怪談好きのトキが「変わり者」なら、わざわざ遠路はるばる極東(しかもそのはずれにある松江)にやってくるヘブンも「変わり者」である。その変わり者2人が時代の変化によって消えていく運命にある怪談やサムライに心躍らせる。まるでそれらが変わってほしくないと願わんばかりである。2人の握手は同志としてのそれでもある。
#ばけばけ
October 28, 2025 at 1:38 AM
ラシャメンってかなりの侮蔑が含まれているのだが、なみは「ラシャメンになりたい」とあっけらかんと言う。梶谷のような新聞記者は「羽織ごろ」と呼ばれ、銀二郎のような車夫は「雲助」と呼ばれた時代があった。トキのように国籍に関係なく異人であれば「天狗」と呼ぶ人もいた。それをおおらかと言う人もいるかもしれない。サワは教師になると言っていたが、かつて教師は「聖職者」と呼ばれた。今では別の言葉に変わってしまった。トキが生きていた時代と比べ世の中は変わったが、宿屋のおやじがトキのような怪談好きを「変わり者」と呼ぶ日常は今でもある。自分の理解を超える趣味を持つ人間はいつでも「変わり者」である。
#ばけばけ
October 27, 2025 at 1:52 AM
#ばけばけ のトキは #おかえりモネ の亮と同じくヤングケアラー的立場にあるんだよね。頭を使わなければ「でも時代が違うから」と言えるんだけど、共通しているのは2人とも葛藤の中で成長する。言い切ってしまえば他者をケアする中で成長するんだよね。本質として違うのは松野家がトキの帰還を祝福したのに対し、新次は亮の船に乗ることを拒絶したってこと。もし新次が勘右衛門の立場だったら鎧や刀を売った金でトキに「これで東京で銀二郎と2人で暮らしなさい」と言っただろうね(あくまでifを考えれば)。
October 25, 2025 at 1:08 AM
まあ、引用の展開だと朝ドラではやりすぎよねwというのはさておき。思うところは2つ。
松野家への養子縁組はトキの意思を無視してなされたが、銀二郎に別れを告げるトキは自らの意思によって松野家に戻る。松野家か銀二郎かの選択は赤ん坊のトキが松野家か雨清水家かの選択の再現になる。もし赤ん坊のトキに意思があったらトキは松野家を選ぶであろう。
錦織らは「怪談は古い」と言う。最近でも日本はガラパゴスと揶揄されるが、トキは海の向こうの先進性ではなく、日本の古さ(松野家や怪談)の中に良さを見出す。しかもそれを一緒に再発見するのは西洋人(小泉八雲)である。いわゆるオリエンタリズム。
#ばけばけ
傳が死んだとき、勘右衛門は「立派な侍ほど早く逝ってしまう」と言った。その傳は銀二郎を「優しい男」と言った。前作あんぱんで屋村は「(戦場では)優しいやつから死んでいく」と言った。我々は小泉八雲の妻セツの物語だと知っているので、トキと銀二郎はいずれ別れることになると下品な先読みをしてしまう。と考えると、今の銀二郎に死相が浮かんで見える。清光院でランデブーしたのは傳と銀二郎だけである。作り手はトキとランデブーした男は必ず死ぬという怪談風の展開"も"考えただろうね。それをやりすぎと思うか、ドラマチックと思うか。
#ばけばけ
October 24, 2025 at 12:58 AM
傳が死んだとき、勘右衛門は「立派な侍ほど早く逝ってしまう」と言った。その傳は銀二郎を「優しい男」と言った。前作あんぱんで屋村は「(戦場では)優しいやつから死んでいく」と言った。我々は小泉八雲の妻セツの物語だと知っているので、トキと銀二郎はいずれ別れることになると下品な先読みをしてしまう。と考えると、今の銀二郎に死相が浮かんで見える。清光院でランデブーしたのは傳と銀二郎だけである。作り手はトキとランデブーした男は必ず死ぬという怪談風の展開"も"考えただろうね。それをやりすぎと思うか、ドラマチックと思うか。
#ばけばけ
October 23, 2025 at 1:33 AM
小さな社の前でトキと銀次郎は2メートルほど離れて話し合う。これは2人の心の距離でもある。以前、湖のほとりで「格が下がるから離れて」と言った距離と同じである。縁によって夫婦になろうが、血によって家族になろうが、ひとりひとり別々のことを考えており、それぞれに違う。例えば、養子をもらうしかないという勘右衛門の望みは「跡継ぎ」であり、トキを連れ戻すという司乃介の望みは「我が子」である。銀二郎は好き同士なら一緒に暮らせると思っているが、トキは松野家の願いをかなえるために東京に来ている。家族とはまったく形の違うものを同じ器の中に入れるようなものである。それができなければ簡単に崩壊する。
#ばけばけ
October 22, 2025 at 1:51 AM
「話しかけてみたら山陰の言葉だったんで」

三波春夫の「チャンチキおけさ」という曲があって、飲み屋(路地裏の屋台)で知らぬ同士が小皿叩いて故郷を思いながら一緒におけさ節を歌うという歌詞なのだが、今では考えられないかもしれないが、昔の日本では田舎から出てきた人たちは同郷であるだけで仲良くなれた(パトリオチズムの源泉)。ちなみに銀二郎は鳥取県因幡の出身なのだが、錦織はトキに「出雲の人間か?」と尋ねる。たぶん銀二郎は松江から来たとしか言ってないんだな。
#ばけばけ
October 21, 2025 at 2:46 AM
「ずっと一緒だと思って甘えちょった」

先週、傳から「おまえはこれからもずっと松野家の子だ」と言われ、トキは「そのこと"も"知っちょります」と答えてる。トキにとって縁によって家族になったらずっとに離れないという感覚は当たり前すぎて銀二郎も同じだと思い込んでいたのだろう。
前に「トキは松野家の中で唯一武士のようにふるまう」と書いたが、そんなトキが銀二郎を連れ戻すことに迷いがないのも当然である(司乃介が出奔したときには放っておいた)。
ちなみにナレーションで「松江を出て1週間と2日」と言っていたが、7日を1週間とする暮らしが日本に根付いたのは明治以降である。
#ばけばけ
「だってつまらんですから」

傳が「さみしい」と言った怪談も、借金を返すだけの暮らしが「豊かではない」という話も、トキにとっては正反対になる。
松野家はトキを中心に回っている。それには理由があって「あの話」に直結するのだが、そのために武家にアイデンティティを求めるはずの司乃介や勘右衛門が小市民的にふるまってしまい、一方でトキは人柱になって家を守ろうとする松野家の中で唯一武士のようにふるまう。このねじれた関係が松野家を特徴づける。世間ではさみしいとされる怪談も豊かではないとされる暮らしもトキにとっては幸いなのである。
#ばけばけ
October 20, 2025 at 4:11 AM