ここしばらく環境の変化があり、以前のような書を専門とする界隈から離れ、普段まったく書に触れない若者や、ご高齢の方と接する機会が多くなった。
文字を書く、というのは結構な認知能力と知性、感性が必要とされる技能であり、文字が崩れたり線が震える若者や高齢の方と接すると、乱暴な言い方になってしまうが、文字を美しく書ける人と、書こうとしても出来ない人の間には知的能力、認知機能に差があるのではないかと肌で感じている。
ここでは、書かれた文章が美しい、高度なものを書かれる人は対象外として、毎日の日記などの些細な文章で書かれた文字を対象としている。
ここしばらく環境の変化があり、以前のような書を専門とする界隈から離れ、普段まったく書に触れない若者や、ご高齢の方と接する機会が多くなった。
文字を書く、というのは結構な認知能力と知性、感性が必要とされる技能であり、文字が崩れたり線が震える若者や高齢の方と接すると、乱暴な言い方になってしまうが、文字を美しく書ける人と、書こうとしても出来ない人の間には知的能力、認知機能に差があるのではないかと肌で感じている。
ここでは、書かれた文章が美しい、高度なものを書かれる人は対象外として、毎日の日記などの些細な文章で書かれた文字を対象としている。
日本では、半紙に4文字や6文字で臨書を行う。
この際、古典を数倍まで拡大して紙面に収めるので、一本の線はどうしても原典より長くなる。
長くなった線で、原典のようなキレを出そうとすると、運筆は速くなりがちになる。
紙の質も、日本で使う紙は滲み、墨が取られやすいため高速な運筆を助長させる。
中国の古典は碑であれば石に直接書丹したものもあるし、今日確認できる顔真卿、米芾といった名家の書に、近代の紙でみられるような滲みはない。
これは超人的なスピードで運筆したわけではなく、基本的に滲まないものを使って、筆と墨で書き切るのが書の本来の姿と捉えるべきである。
日本では、半紙に4文字や6文字で臨書を行う。
この際、古典を数倍まで拡大して紙面に収めるので、一本の線はどうしても原典より長くなる。
長くなった線で、原典のようなキレを出そうとすると、運筆は速くなりがちになる。
紙の質も、日本で使う紙は滲み、墨が取られやすいため高速な運筆を助長させる。
中国の古典は碑であれば石に直接書丹したものもあるし、今日確認できる顔真卿、米芾といった名家の書に、近代の紙でみられるような滲みはない。
これは超人的なスピードで運筆したわけではなく、基本的に滲まないものを使って、筆と墨で書き切るのが書の本来の姿と捉えるべきである。
書画に精通した米芾の墨色が、一つの指標になると考えていましたが、蘇軾も黒の指標をもっていたようです。
世人論墨,多貴其黑,而不取其光。光而不黑,固為棄物。
若黑而不光,索然無神采,亦復無用。
要使其光清而不浮,湛湛如小兒目睛,乃為佳也。
懷民遺僕二枚,其陽云「清煙煤法墨」,其陰云「道卿既黑而光」,殆如前所雲者,書以報之。
書画に精通した米芾の墨色が、一つの指標になると考えていましたが、蘇軾も黒の指標をもっていたようです。
世人論墨,多貴其黑,而不取其光。光而不黑,固為棄物。
若黑而不光,索然無神采,亦復無用。
要使其光清而不浮,湛湛如小兒目睛,乃為佳也。
懷民遺僕二枚,其陽云「清煙煤法墨」,其陰云「道卿既黑而光」,殆如前所雲者,書以報之。
世人論墨,多貴其黑,而不取其光。光而不黑,固為棄物。
若黑而不光,索然無神采,亦復無用。
要使其光清而不浮,湛湛如小兒目睛,乃為佳也。
懷民遺僕二枚,其陽云「清煙煤法墨」,其陰云「道卿既黑而光」,殆如前所雲者,書以報之。