絶望は私達が音をあげるのを今か今かと待っている。絶対音を上げたりしない。
絶望は私達が音をあげるのを今か今かと待っている。絶対音を上げたりしない。
留学生を含む学生たちのスピーチは本当に痛切で胸を打たれるものがありました。わたしも経験がありますが、自国の大学では学べないことをどうしても学びたくて本当に強い覚悟で無理をして日本に留学してきた学生たちも多いですし、その学生たちにとって、ただでさえ数少ない経済支援が断ち切られるのは、教育研究の断念を意味します。排外主義の不当を改めて強く感じました。
どうか他大学でも反対の声が高まってほしいし、大学関係者以外にも問題が伝わってほしいと思っています。
ガス室から始まったのではなく はるか以前に
#ヘイトスピーチ から始まったのです」
-@AdviserAdaDieng 元国連ジェノサイド防止担当特別顧問(現 スーダン人権専門家、2021- )
ヘイトスピーチは、宗教、民族、人種、肌の色、出自、ジェンダーなどのアイデンティティーへの攻撃です。
「言葉は人を殺すことを、
私たちは心に留めておかなければなりません」
#ヘイトにNO #NoToHate
x.com/unic_tokyo/s...
テクノロジーはいま、主に人々がSNSで互いに傷つけ合いAIでフェイク情報を作り民主主義を機能不全にするために使われているように、人々からは見えている。
しかしテクノロジーと社会は正しく協調するべきだし、できるはずだ。そのための原則が人権。このことをくり返し唱えたい。
社会とテックはこのままでは敵対関係になってしまう。私は危機感を持っている。
2018年頃のケンブリッジ・アナリティカ事件がターニングポイントだった。あるドキュメンタリーで、こんなセリフがある。「それまで、ソフトウェアエンジニアはパーカを着た善人だと思っていた。今は違う」
2025年現在、イーロン・マスクのおかげでテック界隈の評判は地に落ちている。
その風潮を変えようとしたのが、オードリー・タンとグレン・ワイルの共著「Plurality」だった。これは「民主主義とテクノロジーが敵対せずに済む道」を探る本である。(つまり、放っておけば敵対するというのだ)
(続く
自分含めて70−80年代生まれくらいがその尖峰を担ってしまっていると感じる。私たちは若い頃、大人たちに苛立っていた。彼ら彼女らがマクロな権力しか理解せず、スクールカースト問題や差別、ハラスメントに鈍感に見えたからだ。だが、この世代は、権力のてっぺんから権利や自由のあり方を書き換えようとする動きにはかなり鈍感な気がする。
youtu.be/jSInRUmZUHM
youtu.be/jSInRUmZUHM
脚本家だから何かを制限される筋合いはないし、私は脚本家の前に人として話しています。
この手の意見は業界内でも根強くあります。言う言わないは個人の自由。でも誰かに口を塞がれそうになっている人がいるなら、こういうことを言う人に従わなくていいし、好かれても意味ないよとは言いたいです。
作品の題材やテーマにしておいて、現実では何も触れず、声をあげた人に難癖つける奴の方がよっぽど信用できないだろう。