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ぼくのかんがえたさいきょうのbot ニーチェ(379),ウィトゲンシュタイン(327),三島由紀夫(241),シュペングラー(205),ゲーテ(180),ドストエフスキー(115),カフカ(102),聖書(99),カント(99),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(37),その他(356) 2時間毎に投稿します 4.5ヶ月くらいで1周します
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その努力は生来のものだ、という主張であり、人間は時間の強要する順応性に束縛されずに自分なりの時間の綜合を生み出す能力があるのだ、という主張なのです。
(『グレン・グールド発言集』バッハの普遍性(1961年))
JSバッハの音楽の偉大さは、芸術のあらゆるドグマティックな執着や、様式や嗜好や語法に関するあらゆる疑問や、軽薄で活力のないあらゆる美学的なこだわりを超越する論を呈示し、かつそれを実証する点にあります。バッハの音楽が私たちに示しているのは、自分の時代に属することなく時代を豊かにし、
あらゆる世代の人間であると同時にどこの世代の人間でもないことによってあらゆる世代について語る人物の見本なのです。これは個性に関する究極的な主張です。つまり、個人が努力をするとき、それが意志に依るものであれ、運命づけられていたものであれ、それが論理的であれ、神秘的であれ、
プラトン、アリストテレス、その他がギリシャ・ローマの各種の憲法を定義し、これを混合して最も賢明で最も美しいものを得ようとしたとき、全世界は傾聴した。そのプラトンこそシュラクサと観念的な処方によって改造しようとして、この都市を滅亡させた。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第4章17)
『社会契約論』や『共産党宣言』のような文書は、強制力ある人間、政党生活内にのしあがってきて支配された大衆の確信を作り出し、これを利用し得る人間の手中にあっては、第一の権力手段となる。しかしながらこれら抽象的な理想の有する力は、二世紀──政党政治の世紀──以上には達しない。
これらの理想はついに論駁されないで退屈となる。ルソーはすでにそうなっているし、マルクスは近いうちにそうなるであろう。最後にこの理論とかあの理論とかが放棄されるのでなく、理論一般の信仰が、したがって不快な事実を概念の適用によって改善し得るという十八世紀の熱狂的な楽観論が放棄される。
恐らくこの著者も実感を喪失することが恐ろしく、そういう時代に生きたのが恐ろしかったから、その恐怖で書いたんだろうと思います。だからそこに非常に共感しますね。
(三島由紀夫「『葉隠』の魅力」)
私はインドに去年(昭和四十二年)行きまして、べナレスで、癩病の乞食がいっぱい並んでいるところを見て、なるほど弱法師というのは、ここから出たんだと思ったのです。そして芸術の根源というのは、ああいうところにあって、ああいう恐ろしい実感、あのファクトを一生懸命洗練したり、磨き上げたり、
抽象化するから芸術が起こるのであって、現代みたいにファクトがないところで、どうやって芸術をやっていくのかという危機感は、私どももっているわけです。「葉隠」を読むと、なにかホッとするのは、ここにだけ実感というものがあるからでしょう。
答えは人間でさえも与えることはできない。人間にできることは、ただ自分の答えの正しさを"信ずるだけ"である。そしてこの点ではアリストテレスも、つまらぬ野蛮人も何の違いはない。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第1章3)
ニーチェの最も大きな功績の一つは、真理、知識、科学の"価値に関する"問題を提起したことである。──これはすべての生まれながらの思考家と学者との眼には、下らない悪口だと見える。かれらはニーチェの全存在の意味を疑わしいものと見る。デカルトはすべてを疑おうと欲したが、
しかも確かに自分の疑問の価値は疑おうとはしなかったのであろう。
しかし問題の提起は一つの事柄であり、その解決を信ずることは別の事柄である。植物は生きているが、その生きていることを知らない。動物は生きていて、これを知っている。人間は自己の生活に驚き、そして疑問を発する。
一般的なものを無視し、そこから離れることを要求する。「たんなる観察者にとってはいくつかの真理が存在することだろう。生活にとっては真理などというものがあるのではなく、事実があるだけなのだ」。「事実は真理より重要である」。
(コクターネク『シュペングラー ドイツ精神の光と闇』第4章2)
学問も倫理も、人生に、世界を我がものとすることに役立つ洞察でなければならない。「私の仕事の本来の目標は、人が活動するに際しての世界像であり、世界体系を作ってその中で思いに沈んだりすることではなかった」。彼はきわめて厳しい言い方で次のように言っている。「というのは私は告白するが、
『哲学そのもののための哲学』を私はつねに根本から軽蔑してきた。私にとっては、純粋論理学、学としての心理学、一般倫理学および美学ほど退屈なものはない。……活動的生に役立つために書かれたのではないいかなる文字も私には余計なものに思われる」
このことは、すべての抽象的なもの、
シェイクスピア、バッハ、カント、ゲーテ等のバロックの偉大な巨匠の倫理的熱情、すなわち、自己の下に低くあると信ずる自然的事物を"内的に"支配しようとする男性的意志と、それら事物が自己と同一平面上にあるために──配慮、人道、世界平和、大多数の幸福の形をとって──"外的に"除去しようとする
ヨーロッパ的近代性の意志とのあいだに、この同一関係が存している。この外的除去もまた、不可避的なものに忍従するギリシャ・ローマ的意志と反対の、権力意志である。
偉大な人間の"行為"というファウスト的な世界感情は、浅薄化して"労働"の哲学となる。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第5章14)
自分は"悲劇的道徳"と"賤民道徳"を区別する。一文化の悲劇的道徳は、存在の重圧を知り、これを理解する。しかしその重圧からこれに耐えるという誇りの感情を引き出してくる。こう感じた者は、アイスキュロス、シェイクスピアおよび波羅門哲学の思想家であり、ダンテとゲルマン的カトリック教であった。
エピクロスとストア、仏陀時代の諸宗派、十九世紀等の賤民道徳は、運命を回避するために戦闘計画を建てる。アイスキュロスが偉大になしたことを、ストア派は小さく行なった。これはもはや生命の充実ではなく、その貧困、冷却と空虚である。ローマ人は、この知的な冷却と空虚をたんに大規模に誇張した。
問題となるのである。この問題は、集合論からの演繹によって初めて解決されるのであるが、しかも多くの点において、まだ成功していない。──このことは、プラトンとその時代とにとっては確かに狂気の沙汰と見えたであろうし、また数学的才能が完全に欠乏している証拠にもなったであろう。
ある程度まで幾何学は代数学的に、代数学は幾何学的に取り扱うことができる。つまり目を除外するか、あるいは目に支配させるかである。前者はわれわれの行なったところのものであり、後者はギリシャ人の行なったところのものである。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第1章12)
ギリシャ・ローマの精神にとっては、排他的に近いものと小さいものとを考察することが、当然のことであるように、われわれの精神にとっては無限的なもの、視界を超えてものを考察することが当然なのである。あらゆる数学的観念は、西洋が自分で発見したものにしろ、あるいは他から借用したものにしろ、
ひとりでに微積分という形態語に支配された。そしてそれは実際の微分学が発見されるよりもずっと以前からそうである。アラビアの代数学、インドの三角法、ギリシャ・ローマの力学はそのまま解析に合併された。2×2=4というような初歩的計算の「最も明白な」式でさえも、解析的立場から見ると
そのための勉強は艱難辛苦
道半ばに至る前にも
あわれ私どもの寿命はおしまいでございます。
ファウスト:古ぼけた羊皮紙があの聖なる泉だとでも言うのか
そこの水を飲んだものは永遠に渇くことがないという?
渇きを癒すものはただ
自分の魂からのみ湧き出るのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第1部 夜)
ファウスト:真っ正直な成功だけを求めるのだ!
空っさわぎの阿呆になるな!
理性と真直ぐな心があれば
技巧など拙くとも言葉は出る
言うべきことが真剣ならば
何で言葉の先をひねる必要がある?
光彩陸離と輝く雄弁の言葉などは
人類をいかな美辞麗句で飾り立てようとも
秋の枯葉をいたずらに鳴らす湿った風に似て
ひとの心を甦らす力を持たぬ。
ヴァーグナー:ああ! 学術は長く
われらが人生は短しと申します。
厳密なる学びの道に身をささげておりますと
何やら頭も胸も不安に重くなって参ります。
原典にまでさかのぼろうと努めましても
ダーウィン主義、それと同じ根から出てきてあらゆる有機的なものと運命的なものを殺すところの唯物史観の本来の傾向であり、最も深い傾向である。因果的なものの形態学的な要素は"原理"であるが、運命のそれは"理念"である。この理念は「認識」されず、叙述されず、定義されず、ただ感ぜられ、内的に
体験されるだけである。これは決して知的に理解されないものであるか、そうでなければ(初期の人間のように、また後期の人間の間では、信仰家、愛する者、芸術家、詩人のような、あらゆる真に意味ある人々のように)、十分に確信されるところのものである。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第2章9)
純粋な学問の内で無意味中の無意味と言っていい"目的論"という謬見は、次のような企てに他ならない。すなわちあらゆる自然的な認識の"生きている"内容──というのは認識する者もまた認識することの一部であり、そしてこの思考の"内容"が「自然」だとしても、その思考という"行為"は歴史だから──を、
そしてそれとともに生命自身を、逆さにした因果関係という機械的原理によって同化しようという企てである。目的論は運命理念の戯画である。ダンテが"使命"と感ずるものを学者は生活の"目的"にしてしまう。これはあらゆる文明で最も抽象的な文明のうちに生ずる大都市的・理知的な世界把握であるところの
エネルギーの本質に関して少しも言うところがないという事実(これはしばしば看遁がされている事実である)の証するところである。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第6章12)

すべての問題"提起"は既にその解決を含んでいる。一つの科学の方法はその科学自身である。自然"法則"の概念のなかに、ロジャー・ベーコン以後生じた実験科学としての物理学の概念のなかに、この特殊な必然が既に含まれているということは怪しむにたりない。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第6章6)
「力」とは神話的な量であって、これは科学的実験から来たものではなく、反対にその実験の構造をあらかじめ規定するものである。ファウスト的人間の自然理解にのみあるものは、磁石でなくして一片の鉄をその力の場のなかに持つ磁力であり、輝く物体でなくして輻射するエネルギーであり、そしてさらに
「電気」「温度」「放射性能」等のような擬人化である。
この力あるいはエネルギーが事実において、概念として固結したヌーメンであって、決して科学的実験の成果ではないということは、力学的熱理論の有名な第一主法則である動力学の根本原理が、
その手続きの主要な要素を、折に触れて想起するのに役立つだけである。
ただしその場合にもある種の理想を考慮に入れなければならないが、芸術は作品を完成する際にこうした理想を完全に実現することは望めないとしても、それを明確に念頭においていなければならない。
(カント『判断力批判』399)
あらゆる芸術における学問的なものは、客体の描出における"真理"を目指すものであるが、こうした学問的なものは、たしかに美しい芸術における不可欠な条件ではあっても、美しい芸術そのものではない。だから美しい芸術にとっては"手法"いうものはあるが、"教授法"というものはない。
師匠は弟子にたいして、何をどのようにして作るべきかを手本によって示さなければならない。あるいは師匠は、自分の手続きを最終的にまとめあげた普遍的な規則のようなものを作るかもしれない。しかしそうしたものは弟子にとっては、準則として役立つのではなく、
貨幣が知性を破壊し去ったのちに、デモクラシーは貨幣によってみずから破壊される。しかし現実がいつかはゼノンとかマルクスとかの思想によって改善されるという夢想が消え去ったが"ゆえに"、また、現実界においては一つの権力意志を顛覆し得るものは"ただもう一つの"権力意志にすぎないということ──
これは戦国時代の大きな経験である──が知られたが"ゆえに"、最後に目覚めるのが、なお古い高貴な伝統に生きるすべての者に対する深い憧憬である。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第4章18)
「おおよそ、作家の文体というものは、その内面を忠実に表わす。明晰な文章を書こうと思うなら、その前に、彼の魂の中が明晰でなければだめだし、スケールの大きい文章を書こうとするなら、スケールの大きい性格を持たなければならない。」
(エッカーマン『ゲーテとの対話』1824.4.14)

"思想を改善する"。──文体を改善するということ──これは思想を改善するということであって、およそそれ以上のものではない! ──これをすぐに承認しない者には、またいかにしてもそれを納得させることができない。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部131)
ウィトゲンシュタインは、霊魂不滅というものは、人が自分には死ぬことによっても免かれえない義務があると感じることによって、意味のある言葉になるのだ、という風なことを言ったことがある。ウィトゲンシュタイン自身、強い義務感を持っている人だった。
(マルコム『回想のウィトゲンシュタイン』)