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思想もしくは力によって勝った人々を私は英雄とは呼ばない。私が英雄と呼ぶのは心に拠って偉大であった人々だけである。彼らの中の最大な一人、その生涯を今ここに我々が物語るところのその人がいったとおりに「私は善以外には卓越の証拠を認めない。」人格が偉大でないところに偉人は無い。
偉大な芸術家も偉大な行為者もない。あるのはたださもしい愚衆のための空虚な偶像だけである。時がそれらを一括して滅ぼしてしまう。成功は我々にとって重大なことではない。真に偉大であることが重要なことであって、偉大らしく見えることは問題ではない。
(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』)
December 12, 2025 at 7:00 PM
トルストイの所有に対する憎悪は経済的なものであり、社会に対する憎悪は社会倫理的なものであり、彼の国家に対する憎悪は政治的理論である。西洋に対して大きな影響を及ぼしたのは正しくこの理由による。彼はなんらかの点においてマルクス、イプセン及びゾラの一味徒党である。彼の著作は福音書でなく
後期の知的文学である。ドストエフスキーが原始キリスト教の使徒の仲間だということは別として、なんの仲間にも属していない。「悪霊」はロシアのインテリゲンチャにおいては保守的として非難された。しかしドストエフスキーはこの種の争いを全然理解しない。彼から見れば保守的と革命的との間になんの
December 12, 2025 at 5:00 PM
いちばん最近語られた言葉はつねに正しく、後から書かれたものはみな、以前書かれたものを改良したものであり、いかなる変更も進歩であると信じることほど、大きな過ちはない。真の思索家タイプや正しい判断の持ち主、 正しい判断の持ち主、あるテーマに真剣に取り組む人々はみな例外にすぎず、
世界中いたるところで人間のクズどもがのさばる。クズどもは待ってましたとばかりに例外的人物の十分に熟考した言説をいじくり回して、せっせと自己流に改悪する。
だからあるテーマを研究しようとしたら、学問はたえず進歩しており、最新の本には過去の知見が反映されているという誤った前提のもとに
December 12, 2025 at 3:01 PM
大衆文学の読者は、おそろしく凡庸な脳みその持ち主が書き散らした最新刊を、常に読んでいなければならないと思い込み、自分をがんじがらめにしている。この手の作家は、いつの時代もはいて捨てるほどいるというのに。その代わり、時代と国を越えた稀有な卓越した人物の作品は、その題名しか知らない。
したがって私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。
December 12, 2025 at 1:00 PM
にいさん! 僕はくよくよもしていなければ落胆もしていません。どこにいようと、生活は生活です。生活は自分たち自身のなかにあり、外にあるのではない。これからも僕のそばに人々はいるでしょうし、人々のあいだにあって人間であること、いつまでも人間でありつづけること、
どんな不幸にあっても気落ちせずにくずおれないこと、そこにこそ人生があり、人生の目的がある。こう僕はさとったのです。この考えは僕の血肉となりました。ええ、そうですよ! ほんとうです!……
(ドストエフスキー ミハイル宛ての手紙 1849.12.22)
December 12, 2025 at 11:00 AM
今までに、恋について言われた争いがたい真理はたったひとつしかありませんよ。《こは偉大なる神秘なり》というのがそれです。これ以外に、ひとが恋について言ったり書いたりしてきたことは、どれもこれも、問題を解決したのではなくて、単に提起したにすぎない。
だから問題そのものは、依然として未解決のまま残っているわけです。或る特定の場合に或る解釈が成り立つように思われるとしても、その解釈はほかの十の場合にはもう応用ができない。
December 12, 2025 at 9:00 AM
歴史学的立証。すなわち、哲学者たちはつねにデカダンであり、つねにニヒリズム的宗教に奉仕している。
権力への意志としてあらわれるデカダンスの本能。その手段の体系を一覧に供すること、すなわち、その手段の絶対的非道徳性。
(ニーチェ『権力への意志』401)

哲学者たちは、①昔から形容矛盾への驚くべき能力をもっており、②感官を無条件に信用しなかったと同様に、概念を無条件に信用した。彼らは、概念や言葉は、頭脳がきわめて蒙昧で寡欲であった時代から私たちがうけついだ遺産であるということに、考えおよばなかった。
(ニーチェ『権力への意志』409)
December 12, 2025 at 7:00 AM
思想の価値を決めるのは、素材か、表現形式だ。素材とは「何について考えたのか」であり、表現形式とはどう素材に手を加えたのか、「どう考えたのか」だ。
素材すなわち「何について考えたのか」はじつにさまざまで、また本にじつにさまざまな利点、美点をもたらす。あらゆる経験的素材、つまり史実や
自然界の事実、それらを広義にとらえたものがそうだ。その独自性は客体、モノにあるので、著者がだれであっても、本自体が重要なものになる。
これに対して表現形式、すなわち「どう考えたのか」の場合には、独自性は主体、ヒトにある。思索の対象は、だれもが親しめる、よく知られた事柄でもよい。
December 12, 2025 at 5:00 AM
私たちが今日科学を所有しているのは、私たちが感官の証言を受けいれようと決心してきたちょうどその限度、──私たちが感官をさらにいっそう鋭くし、武装させ、徹底的に思考しぬくことを学んだちょうどその限度においてである。その残余は畸形児であり、まだ科学とはなっていないものである。
言うなれば、形而上学、神学、心理学、認識論がそれである。さもなければ、論理学および数学というあの応用論理学のように、形式科学、記号論である。こうしたもののうちでは現実性は全然あらわれでてこない、問題としてすらあらわれでてこない。
December 12, 2025 at 3:00 AM
ショーペンハウエルにおいて完成されたものは、悲劇的哲学が哲学的な賤民主義に変化したことである。これを証するには一句を引用するだけで足りる。『意志と表象としての世界』(第二巻、第十九章)において「意志は物自体として、人間の内的な、破壊し得られない真の本質を構成する。しかも意志は
それ自身においては無意識である。なんとなれば、意識は知能によって決定されるものであるが、この知能というものは、われわれの本質のたんなる偶然事にすぎないからである。すなわち知能は脳髄の一つの機能なのである。この脳髄というものはこれに付随する神経と脊髄とともに、ただの果実にすぎず、
December 12, 2025 at 1:00 AM
われわれが思想と呼んでいるものは、事前に生れるのではなく、事後に生れるのである。まずそれは偶然と衝動によって犯した一つの行為の、弁護人として登場する。弁護人はその行為に意味と理論を与え、偶然を必然に、衝動を意志に置きかえる。思想は電信柱にぶつかった盲人の怪我を治しはしないが、
少くとも怪我の原因を盲目のせいではなく電信柱のせいにする力をもっている。一つ一つの行為にのこらず事後の理論がつけられると、理論は体系となり、彼、行為の主体はありとあらゆる行為の蓋然性にすぎなくなる。彼は思想を持った。彼が紙屑を街路に投げた。
December 11, 2025 at 11:00 PM
「もう年配の、文句なしに頭のいい人でしたがの。あなたと同じくらい率直に話してくれましたよ。もっとも、冗談めかしてはいたものの、悲しい冗談でしたな。その人はこう言うんです。自分は人類を愛しているけど、我ながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、
ひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないが、それにもかかわらず、相手が誰であれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、
December 11, 2025 at 9:00 PM
われわれの主張が公平を欠いたり、空転しないようにするには、われわれの考察においては、理想を、あるがままの現実として、すなわち比較の対象として、──いわば物差しとして──差し出すしかないのである。つまり理想といっても、あらゆるものが合致しなくてはならないような先入観ではないのだ。
まさにこの点にこそ、哲学がじつに陥りやすい教条主義があるのである。
さて、そのときシュペングラー風の考察と私の考察との関係はどういうものなのだろうか。
December 11, 2025 at 7:00 PM
そもそも哲学の論文であれば、細部にはつねに批判の余地があるものだ(哲学の論文は数学の論文のように完全に武装して発表することはできないからだ)。しかし本書[純粋理性批判]の体系の構造そのものを統一のとれたものとして考察するならば、この体系の構造はいかなる危険にも直面するものではない。
新しい体系が提示された際に、その全体を概観することのできるほど熟達した精神の持ち主は少ないものである。そもそもこうした精神の持ち主は、およそ革新というものを考察するには不向きな人々であって、そうしたことに興味を示す人はさらに少ないものである。
December 11, 2025 at 5:01 PM
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
(夏目漱石『草枕』)

小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです。
(夏目漱石『草枕』)

「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」
(夏目漱石『草枕』)
December 11, 2025 at 3:00 PM
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、
その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
(マタイ福音書 5:23-26)
December 11, 2025 at 1:00 PM
まず物書きには二種類ある。テーマがあるから書くタイプと、書くために書くタイプだ。第一のタイプは思想や経験があり、それらは伝えるに値するものだと考えている。
第二のタイプはお金が要るので、お金のために書く。書くために考える。できるかぎり長々と考えをつむぎだし、裏づけのない、
ピントはずれの、わざとらしい、ふらふら不安定な考えをくだくだしく書き、またたいてい、ありもしないものをあるように見せかけるために、ぼかしを好み、文章にきっぱりした明快さが欠けることから、それがわかる。ただ紙を埋めるために書いているのが、すぐばれる。それに気づいたら、
December 11, 2025 at 11:04 AM
"あいそづかしの沈黙"。──誰かが思索家として、また人間として深く痛切な変化をとげたとする、そしてそのあとでそれを公に言明したとする。それでも聴き手は少しもその変化に気づかない! そしてあいかわらず彼を全然旧態のままの人間と思いこんでいるのだ! ──こういうよくある経験のおかげで、
多くの著作家たちはすでに吐きけをもよおしてきた。つまり彼らは人間の知性を過信していたのであり、したがって自分たちの錯覚に気づいた時、彼らは沈黙することを心に固く誓ったのである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部246)
December 11, 2025 at 11:00 AM
深奥な人間知識は、その見解がこれを持つ人の色彩に全然染まっていることを除外しないばかりでなく、かえってそれを要求するのである。人間知識と人生経験との欠乏は、ただ概括化にふけっていて、歴史の最も重大な事実、すなわち歴史がただ一度限りのものだという事実を歪曲し、
あるいはまったくこれを看過するのである。最悪のものはかの唯物史観であって、これは観相学的天分の欠乏といえば、それで余すところなく定義することのできるものである。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第1章7)
December 11, 2025 at 9:00 AM
"二頭立て"。──不明晰な思索と耽溺的な感情は、あらゆる手段を賭してのしあがり、自分ひとりだけ重きをなそうとするがむしゃらな意志としばしば結びついているが、これとまったく同様に、〔他人に対する〕助力、恩恵、好意への断固たる意志は、明るい透徹した思索への、
また節度ある自制的感情への本能としばしば結びつく。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部196)
December 11, 2025 at 7:00 AM
"階序"に関する"第一の問い"、すなわち、そのひとはどれほど"独居的"であるのか、ないしは"群居的"であるのかの問題。(後者の場合にはそのひとの価値は、その畜群の、その類型の存立を安全にする諸固有性のうちにあり、前者の場合には、そのひとを際立たせ、孤立化し、弁護し、
"独居を可能ならしめる"もののうちにある。)
"結論"。すなわち、独居的類型を群居的類型にしたがって評価してはなら"ない"、また群居的類型を独居的類型にしたがって評価してはなら"ない"。
高所から観察すれば、両者とも必然的であり、同じく両者の敵対関係も必然的である、──そして、この両者から
December 11, 2025 at 5:00 AM
「だからたとえば、将来、公務にたずさわろうという学生に、過剰な理論的学間的知識を要求することには、賛成できないな。そのために、若い人たちは、早くから精神的にも肉体的にもだめになってしまう。そこで彼らが実務にたずさわるようになれば、なるほど、哲学的なことや学問的なことについては、
ぼうだいなストックを持っているが、そんなものは、彼らの職務の限られた範囲では何の役にも立たないから。無用なこととして再び忘れられてしまうにきまっている。その反対に、彼らが何よりも必要としたものは喪失しているのだ。彼らには必要な精神的・肉体的なエネルギーが欠けており、
December 11, 2025 at 1:00 AM
合理主義者たちは、つねに、文は〈判断〉や〈思想〉を表現するものであるという見解に従って進んでいく。かれらは、書物であふれた机の前に座って、己れ自身の考えや著述についてあれこれ思案する。それで、かれらには、「思想」が話すことの〈目的〉であるようにみえる。なぜなら、かれらは、
ひとりで座っていることが多いので、話すことにかまけて〈聞くこと〉を忘れ、問いにかまけて〈答え〉を忘れ、我にかまけて〈汝〉を忘れている。かれらは、「言語」を語るが、演説、講演、論文のことを考えている。言語の起源についてのかれらの見解は〈モノローグ的〉であり、それゆえに誤っている。
December 10, 2025 at 11:00 PM
素材によって効果をねらう悪しき傾向に拍車をかける企ては、作品価値を表現形式で問うべき領域、すなわち文学の領域では、どうあっても排すべきだ。にもかかわらず、素材によって劇場を満員にしようと努める悪しき劇作家があとをたたない。
ここで述べている素材と表現形式のちがいは、
会話においても通用する。会話の才には、まず理解力・判断力・生き生きとした機知が必要で、そうした特性が会話に妙味をそえる。それから会話の素材、つまり相手と何について語るか、その人の知識が問題になる。知識が乏しいと、前述の特性が並はずれているときだけ、会話に価値を与えることができる。
December 10, 2025 at 9:00 PM
絵画や彫刻においては、さらにあらゆる造形芸術、すなわち美しい芸術である限りの建築術や造園術においては"素描"こそが本質的なものである。素描というものは感覚を満足させるものではなく、たんにその形式によって好まれるものが、趣味を作り出す一切の素質の基礎を形成するのである。
これにたいして素描を彩るさまざまな色彩は魅力に含まれる。こうしたものはたしかに感覚にたいして対象そのものを活気づけるが、その対象を観照に値する美しいものにすることはない。
December 10, 2025 at 7:00 PM