ニーチェ(373),ウィトゲンシュタイン(307),三島由紀夫(237),シュペングラー(200),ゲーテ(178),ドストエフスキー(112),聖書(99),カント(97),カフカ(95),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(40),その他(355)
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偉大な芸術家も偉大な行為者もない。あるのはたださもしい愚衆のための空虚な偶像だけである。時がそれらを一括して滅ぼしてしまう。成功は我々にとって重大なことではない。真に偉大であることが重要なことであって、偉大らしく見えることは問題ではない。
(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』)
偉大な芸術家も偉大な行為者もない。あるのはたださもしい愚衆のための空虚な偶像だけである。時がそれらを一括して滅ぼしてしまう。成功は我々にとって重大なことではない。真に偉大であることが重要なことであって、偉大らしく見えることは問題ではない。
(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』)
後期の知的文学である。ドストエフスキーが原始キリスト教の使徒の仲間だということは別として、なんの仲間にも属していない。「悪霊」はロシアのインテリゲンチャにおいては保守的として非難された。しかしドストエフスキーはこの種の争いを全然理解しない。彼から見れば保守的と革命的との間になんの
後期の知的文学である。ドストエフスキーが原始キリスト教の使徒の仲間だということは別として、なんの仲間にも属していない。「悪霊」はロシアのインテリゲンチャにおいては保守的として非難された。しかしドストエフスキーはこの種の争いを全然理解しない。彼から見れば保守的と革命的との間になんの
世界中いたるところで人間のクズどもがのさばる。クズどもは待ってましたとばかりに例外的人物の十分に熟考した言説をいじくり回して、せっせと自己流に改悪する。
だからあるテーマを研究しようとしたら、学問はたえず進歩しており、最新の本には過去の知見が反映されているという誤った前提のもとに
世界中いたるところで人間のクズどもがのさばる。クズどもは待ってましたとばかりに例外的人物の十分に熟考した言説をいじくり回して、せっせと自己流に改悪する。
だからあるテーマを研究しようとしたら、学問はたえず進歩しており、最新の本には過去の知見が反映されているという誤った前提のもとに
したがって私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。
したがって私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。
どんな不幸にあっても気落ちせずにくずおれないこと、そこにこそ人生があり、人生の目的がある。こう僕はさとったのです。この考えは僕の血肉となりました。ええ、そうですよ! ほんとうです!……
(ドストエフスキー ミハイル宛ての手紙 1849.12.22)
どんな不幸にあっても気落ちせずにくずおれないこと、そこにこそ人生があり、人生の目的がある。こう僕はさとったのです。この考えは僕の血肉となりました。ええ、そうですよ! ほんとうです!……
(ドストエフスキー ミハイル宛ての手紙 1849.12.22)
だから問題そのものは、依然として未解決のまま残っているわけです。或る特定の場合に或る解釈が成り立つように思われるとしても、その解釈はほかの十の場合にはもう応用ができない。
だから問題そのものは、依然として未解決のまま残っているわけです。或る特定の場合に或る解釈が成り立つように思われるとしても、その解釈はほかの十の場合にはもう応用ができない。
権力への意志としてあらわれるデカダンスの本能。その手段の体系を一覧に供すること、すなわち、その手段の絶対的非道徳性。
(ニーチェ『権力への意志』401)
哲学者たちは、①昔から形容矛盾への驚くべき能力をもっており、②感官を無条件に信用しなかったと同様に、概念を無条件に信用した。彼らは、概念や言葉は、頭脳がきわめて蒙昧で寡欲であった時代から私たちがうけついだ遺産であるということに、考えおよばなかった。
(ニーチェ『権力への意志』409)
権力への意志としてあらわれるデカダンスの本能。その手段の体系を一覧に供すること、すなわち、その手段の絶対的非道徳性。
(ニーチェ『権力への意志』401)
哲学者たちは、①昔から形容矛盾への驚くべき能力をもっており、②感官を無条件に信用しなかったと同様に、概念を無条件に信用した。彼らは、概念や言葉は、頭脳がきわめて蒙昧で寡欲であった時代から私たちがうけついだ遺産であるということに、考えおよばなかった。
(ニーチェ『権力への意志』409)
素材すなわち「何について考えたのか」はじつにさまざまで、また本にじつにさまざまな利点、美点をもたらす。あらゆる経験的素材、つまり史実や
自然界の事実、それらを広義にとらえたものがそうだ。その独自性は客体、モノにあるので、著者がだれであっても、本自体が重要なものになる。
これに対して表現形式、すなわち「どう考えたのか」の場合には、独自性は主体、ヒトにある。思索の対象は、だれもが親しめる、よく知られた事柄でもよい。
素材すなわち「何について考えたのか」はじつにさまざまで、また本にじつにさまざまな利点、美点をもたらす。あらゆる経験的素材、つまり史実や
自然界の事実、それらを広義にとらえたものがそうだ。その独自性は客体、モノにあるので、著者がだれであっても、本自体が重要なものになる。
これに対して表現形式、すなわち「どう考えたのか」の場合には、独自性は主体、ヒトにある。思索の対象は、だれもが親しめる、よく知られた事柄でもよい。
言うなれば、形而上学、神学、心理学、認識論がそれである。さもなければ、論理学および数学というあの応用論理学のように、形式科学、記号論である。こうしたもののうちでは現実性は全然あらわれでてこない、問題としてすらあらわれでてこない。
言うなれば、形而上学、神学、心理学、認識論がそれである。さもなければ、論理学および数学というあの応用論理学のように、形式科学、記号論である。こうしたもののうちでは現実性は全然あらわれでてこない、問題としてすらあらわれでてこない。
それ自身においては無意識である。なんとなれば、意識は知能によって決定されるものであるが、この知能というものは、われわれの本質のたんなる偶然事にすぎないからである。すなわち知能は脳髄の一つの機能なのである。この脳髄というものはこれに付随する神経と脊髄とともに、ただの果実にすぎず、
それ自身においては無意識である。なんとなれば、意識は知能によって決定されるものであるが、この知能というものは、われわれの本質のたんなる偶然事にすぎないからである。すなわち知能は脳髄の一つの機能なのである。この脳髄というものはこれに付随する神経と脊髄とともに、ただの果実にすぎず、
少くとも怪我の原因を盲目のせいではなく電信柱のせいにする力をもっている。一つ一つの行為にのこらず事後の理論がつけられると、理論は体系となり、彼、行為の主体はありとあらゆる行為の蓋然性にすぎなくなる。彼は思想を持った。彼が紙屑を街路に投げた。
少くとも怪我の原因を盲目のせいではなく電信柱のせいにする力をもっている。一つ一つの行為にのこらず事後の理論がつけられると、理論は体系となり、彼、行為の主体はありとあらゆる行為の蓋然性にすぎなくなる。彼は思想を持った。彼が紙屑を街路に投げた。
ひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないが、それにもかかわらず、相手が誰であれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、
ひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないが、それにもかかわらず、相手が誰であれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、
まさにこの点にこそ、哲学がじつに陥りやすい教条主義があるのである。
さて、そのときシュペングラー風の考察と私の考察との関係はどういうものなのだろうか。
まさにこの点にこそ、哲学がじつに陥りやすい教条主義があるのである。
さて、そのときシュペングラー風の考察と私の考察との関係はどういうものなのだろうか。
新しい体系が提示された際に、その全体を概観することのできるほど熟達した精神の持ち主は少ないものである。そもそもこうした精神の持ち主は、およそ革新というものを考察するには不向きな人々であって、そうしたことに興味を示す人はさらに少ないものである。
新しい体系が提示された際に、その全体を概観することのできるほど熟達した精神の持ち主は少ないものである。そもそもこうした精神の持ち主は、およそ革新というものを考察するには不向きな人々であって、そうしたことに興味を示す人はさらに少ないものである。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
(夏目漱石『草枕』)
小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです。
(夏目漱石『草枕』)
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」
(夏目漱石『草枕』)
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
(夏目漱石『草枕』)
小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです。
(夏目漱石『草枕』)
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」
(夏目漱石『草枕』)
その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
(マタイ福音書 5:23-26)
その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
(マタイ福音書 5:23-26)
第二のタイプはお金が要るので、お金のために書く。書くために考える。できるかぎり長々と考えをつむぎだし、裏づけのない、
ピントはずれの、わざとらしい、ふらふら不安定な考えをくだくだしく書き、またたいてい、ありもしないものをあるように見せかけるために、ぼかしを好み、文章にきっぱりした明快さが欠けることから、それがわかる。ただ紙を埋めるために書いているのが、すぐばれる。それに気づいたら、
第二のタイプはお金が要るので、お金のために書く。書くために考える。できるかぎり長々と考えをつむぎだし、裏づけのない、
ピントはずれの、わざとらしい、ふらふら不安定な考えをくだくだしく書き、またたいてい、ありもしないものをあるように見せかけるために、ぼかしを好み、文章にきっぱりした明快さが欠けることから、それがわかる。ただ紙を埋めるために書いているのが、すぐばれる。それに気づいたら、
多くの著作家たちはすでに吐きけをもよおしてきた。つまり彼らは人間の知性を過信していたのであり、したがって自分たちの錯覚に気づいた時、彼らは沈黙することを心に固く誓ったのである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部246)
多くの著作家たちはすでに吐きけをもよおしてきた。つまり彼らは人間の知性を過信していたのであり、したがって自分たちの錯覚に気づいた時、彼らは沈黙することを心に固く誓ったのである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部246)
あるいはまったくこれを看過するのである。最悪のものはかの唯物史観であって、これは観相学的天分の欠乏といえば、それで余すところなく定義することのできるものである。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第1章7)
あるいはまったくこれを看過するのである。最悪のものはかの唯物史観であって、これは観相学的天分の欠乏といえば、それで余すところなく定義することのできるものである。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第1章7)
また節度ある自制的感情への本能としばしば結びつく。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部196)
また節度ある自制的感情への本能としばしば結びつく。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部196)
"独居を可能ならしめる"もののうちにある。)
"結論"。すなわち、独居的類型を群居的類型にしたがって評価してはなら"ない"、また群居的類型を独居的類型にしたがって評価してはなら"ない"。
高所から観察すれば、両者とも必然的であり、同じく両者の敵対関係も必然的である、──そして、この両者から
"独居を可能ならしめる"もののうちにある。)
"結論"。すなわち、独居的類型を群居的類型にしたがって評価してはなら"ない"、また群居的類型を独居的類型にしたがって評価してはなら"ない"。
高所から観察すれば、両者とも必然的であり、同じく両者の敵対関係も必然的である、──そして、この両者から
ぼうだいなストックを持っているが、そんなものは、彼らの職務の限られた範囲では何の役にも立たないから。無用なこととして再び忘れられてしまうにきまっている。その反対に、彼らが何よりも必要としたものは喪失しているのだ。彼らには必要な精神的・肉体的なエネルギーが欠けており、
ぼうだいなストックを持っているが、そんなものは、彼らの職務の限られた範囲では何の役にも立たないから。無用なこととして再び忘れられてしまうにきまっている。その反対に、彼らが何よりも必要としたものは喪失しているのだ。彼らには必要な精神的・肉体的なエネルギーが欠けており、
ひとりで座っていることが多いので、話すことにかまけて〈聞くこと〉を忘れ、問いにかまけて〈答え〉を忘れ、我にかまけて〈汝〉を忘れている。かれらは、「言語」を語るが、演説、講演、論文のことを考えている。言語の起源についてのかれらの見解は〈モノローグ的〉であり、それゆえに誤っている。
ひとりで座っていることが多いので、話すことにかまけて〈聞くこと〉を忘れ、問いにかまけて〈答え〉を忘れ、我にかまけて〈汝〉を忘れている。かれらは、「言語」を語るが、演説、講演、論文のことを考えている。言語の起源についてのかれらの見解は〈モノローグ的〉であり、それゆえに誤っている。
ここで述べている素材と表現形式のちがいは、
会話においても通用する。会話の才には、まず理解力・判断力・生き生きとした機知が必要で、そうした特性が会話に妙味をそえる。それから会話の素材、つまり相手と何について語るか、その人の知識が問題になる。知識が乏しいと、前述の特性が並はずれているときだけ、会話に価値を与えることができる。
ここで述べている素材と表現形式のちがいは、
会話においても通用する。会話の才には、まず理解力・判断力・生き生きとした機知が必要で、そうした特性が会話に妙味をそえる。それから会話の素材、つまり相手と何について語るか、その人の知識が問題になる。知識が乏しいと、前述の特性が並はずれているときだけ、会話に価値を与えることができる。
これにたいして素描を彩るさまざまな色彩は魅力に含まれる。こうしたものはたしかに感覚にたいして対象そのものを活気づけるが、その対象を観照に値する美しいものにすることはない。
これにたいして素描を彩るさまざまな色彩は魅力に含まれる。こうしたものはたしかに感覚にたいして対象そのものを活気づけるが、その対象を観照に値する美しいものにすることはない。