哲学・文学・宗教bot
banner
hys3go.bsky.social
哲学・文学・宗教bot
@hys3go.bsky.social
100 followers 1 following 13K posts
ぼくのかんがえたさいきょうのbot ニーチェ(379),ウィトゲンシュタイン(327),三島由紀夫(241),シュペングラー(205),ゲーテ(180),ドストエフスキー(115),カフカ(102),聖書(99),カント(99),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(37),その他(356) 2時間毎に投稿します 4.5ヶ月くらいで1周します
Posts Media Videos Starter Packs
Pinned
ウィトゲンシュタインは、霊魂不滅というものは、人が自分には死ぬことによっても免かれえない義務があると感じることによって、意味のある言葉になるのだ、という風なことを言ったことがある。ウィトゲンシュタイン自身、強い義務感を持っている人だった。
(マルコム『回想のウィトゲンシュタイン』)
ウィトゲンシュタインは、神という考えは、人が自分自身の罪を自覚するときに、その人の心に存在する、という場合にかぎって、自分も分かるような気がすると、言ったことがある。そのとき、世界の創造者としての神という考えは理解できない、ともつけ加えて言った。神の審判・赦し・贖罪という考えは、
彼の心の中にあった自己嫌悪の気持や純粋さに対する強い憧れ、人間世界をよりよいものにしようとしながら、それを果たしえない無力感、といったものに繋がるものがある点では、彼にも相当に理解可能だったのではないかと思う。だが、世界を創造する存在という考えは、彼にはまったく理解できなかった。
アリストテレスとカントは成ったことの哲学を代表する。ここに直観と分析とが対立している。
次の言葉において、自分は一語をも変えることができない。すなわち「神性は生きた物のなかにあっては活動しているが、死んだ物のなかにあってはそうでない。神性は成る物と変ずる物のうちにあるが、
成った物と固定した物とのうちにはない。そこで理性もまた、神なるものへ向かう傾向においてただ成る物、生きた物のみと関係があり、悟性はその利用する成った物、固定した物と関係がある」(エッカーマン宛)。この文句は自分の哲学全体を含んでいる。
(シュペングラー『西洋の没落』緒論16注)
本書の哲学は、今日まだほとんど知られていないも同然なゲーテの哲学のおかげを受けている。これに比べると少しではあるが、ニーチェの哲学のおかげもある。西欧形而上学におけるゲーテの位置は、まだ全然理解されていない。哲学を論ずるに当たってゲーテの名が挙げられたこともない。不幸なことには、
ゲーテはその思想を一つの固定した体系にさせなかった。そこで体系学者は彼を見逃すのである。だがゲーテは哲学者であった。彼のカントに対する位置は、プラトンのアリストテレスに対する位置と同じである。プラトンを体系化しようとすることも危険である。プラトンとゲーテは成ることの哲学を代表し、
彼の誇っていた明瞭さには、常にくだらないものと見られがちな危険がある。しかしこの点において、深奥さと排他性の雰囲気を拡げる法式を有したまま、文明化した世界観が世人の所有し得られるところとなった。ショーペンハウエルの体系は先んじたダーウイン主義であって、カントやインド哲学の諸概念は
飾りに役立っていたにすぎない。ショーペンハウエルの『自然における意志について』のなかにはすでに自然における自己保存のための闘争、その闘争における最も有効な武器としての人間の知能、生物学的利害に基づく無意識的淘汰としての性愛が認められる。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第5章18)
ショーペンハウエルが、ルソーがそうであったようにイギリス感覚論者の説を学んだことは無益ではなかった。そこにおいてショーペンハウエルは、功利性に向けられた大都市的近代性の精神をもってカントを誤解することを学んだ。生きんとする意志の道具としての知能、生存競争における武器としての知能、
このショーペンハウエルの世界観こそ、ダーウィンの主著の出現とともにショーペンハウエルをして一躍して流行哲学者にさせたものである。ショーペンハウエルは、シェリング、ヘーゲル、フィヒテとは異なって、知的中流階級のきわめて容易に取りつき得る形而上学的法式を有する、唯一の哲学者であった。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
(マルコ福音書 2:16-17)
そうして、建築と造形美術におけると同様に、"仮説形成という一種の工芸美術"に席を譲ったのだという確信を得るにいたるであろう。ただこの世紀に相当しているところの実験技術の非常な熟練だけが、象徴的意義を崩壊し得るのである。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第6章13)
ラザフォードとボーアの原子観念は従来、熟知されていた原子群という観念に反して、観察の数的結果が突然原子の内部のなかに遊星の世界を描く像を具するにいたったことを意味するわけになる。ところで人はこのことを明らかにするとき、今日仮説の全系列から成る空中楼閣がどんなに素早く建てられるかに
注意を払い、したがってどんな矛盾も新しいこと、にわか仕立ての仮説によっておおわれていることに注意を払うとき、これらの彫像の群が相互に矛盾し、またバロック動力学の厳密な影像とも矛盾する事実にほとんど留意する者がないことを考慮するとき──人は最後に"表象の大様式が終わりを告げ"、
何よりも彼の思考様式の色豊かな、こってりとしたパトス、(そして)彼の立体的なすばらしい文体。彼にはイデアが見えるのであって、計算したりする必要はない」。
(コクターネク『シュペングラー ドイツ精神の光と闇』第1章5)
ヘラクレイトスの思考の様式、あるいはその表現様式、つまり文体は、「まぎれもなく皇帝のスタイル」である。彼が好むのは、「総括的な方法」であり、「いわゆる学問的な実証的なやり方にあからさまな敵意をいだいている……ひろい視野と理解もなくただデータだけを集めるのは、
彼のもっとも忌み嫌うところだ」。それはただの"物知り"ということなのである。「学としての哲学が、このような態度では決して生れ得ない」ことはシュペングラーも認めるけれども、そのかわり、ヘラクレイトスは、「ソクラテス以前の哲学者の中では、もっとも重要な思想家である。
わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
(マタイ福音書 16:21-26)
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことが
あるはずはございません」と言った。イエスは振り向いてペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」それからイエスは弟子たちに言われた、「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、
それにもとづいて私たちは世界を、原因の世界として、意志の世界として、幽霊の世界として"つくりあげて"きた。最も古く最も長つづきのした心理学がここで働いていた。この心理学はそれ以外のことを何ひとつとしてやってはこなかった。
(ニーチェ『偶像の黄昏』四つの大誤謬 3)
意志はもはや何ものをも動かさず、したがってまたもはや何ものをも説明しない──意志はたんに諸事象に随伴するにすぎず、なくともよいものである。
そのうえ"自我"にいたっては! これは、寓話と、虚構と、言葉の遊戯となっている。すなわち、この自我は、思考し、感情し、
意欲することをまったくやめてしまっている! ……このことから何が結果するのか? 精神的原因など全然ありはしない! そうした原因を証明するためのいわゆる経験は全部ありもしないものであった! "これこそが"その結果である!──だが、私たちはあの「経験」をひどく濫用してきた、
音楽もアメリカやソ連ではそうなりつつある。アメリカもソ連に非常に似た傾向がある。演奏技術など非常に高度に達している。技術社会の人間というのは技術を喜んで、ほかのものをべつに喜ばない。
(三島由紀夫「対談・人間と文学」)
もし技術社会のなかにおける文学の機能ないし技術ということを考えれば、いまのテレビなどに毒されている大衆が要求し、その大衆が人生の慰めあるいは疲れ休めとして要求する技術的によくできたおもしろい小説で十分じゃないか。それ以上に現代読者ないし現代社会は何も要求していないと思う。
一部の気ちがいじみた青年は文学に哲学を求めたり文学に思想を求めたりするかもしれないが、社会はそんなものを全然要求していない。ですからプロレタリア文学時代よりいまの時代のほうが文学が社会から要求されてないという意識は強かるべきだと思う。
(三島由紀夫「対談・人間と文学」)
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
(マタイ福音書 6:9-14)
瞬間から瞬間に「存在」させるばかりでなく、絶えることなき流れをなして、我々の周囲にまた我々とともに「成ら」させるところの、自然の像における勢力は、一つの覚醒している生物と"その"世界とが同種のものであるということの証印である。この勢力は運動と"称せられ"、"像としての"自然と矛盾する。
物理学は時間をたんに長さとしてしか知らない。しかし「物理学者」はこの自然の"歴史"の真只なかに"生きている"。そこで運動をもって数学的に確定され得べき量と考え、実験によって得られ、法式に書き下された純粋な数の名称と考えざるを得なくなっている。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第6章4)
時間と運動という語は、これを本能的に使用する者から見れば、生命自体──体験されたものから分けることのできない"全体の"生命──の最も深い深さに触れるものであるが、物理学、すなわち観察する悟性は、これを分離"しなければならない"。思考によって観察者の生きた行為から分離され、対象となり、
死に、無機的となり、固結した、体験されたもの「自体」──これが今や「自然」であり、数学的に究め得べきものである。この意味において自然認識は、"計測するところの"活動である。しかし我々は観察しているときでさえ生きている。それゆえ観察されたものも"我々とともに"生きている。自然をしてただ
有徳な主人公は弁証家でなければならず、今や徳と知、信仰と道徳との間に必然的な可能的な紐帯がなければならず、今やアイスキュロスにおける先験的な正義の大団円は、あの月並な機械仕掛の神を伴った「詩的正義」という、平板にして厚顔な原理に転落せしめられるからだ。
(ニーチェ『悲劇の誕生』14)
弁証法の本質の中に"楽天主義的"要素のあることを見のがすものがあるであろうか。一つの結論がでるたびにそれを祝い、かつ冷たい明るさと意識との中でしか呼吸できない、といった楽天主義。この楽天主義的要素は、ひとたび悲劇の内部に侵入すれば、そのディオニュソス的領域をしだいに蚕食し、
必然的に悲劇を自滅に──市民劇への決死の飛躍にまでも──駆り立てざるを得ないのである。あのソクラテスの命題の帰結を考えさえすればいい。「徳は知なり。罪はただ無知よりのみ起こる。徳あるものは幸あるものなり」と。これら楽天主義のこの三根本形式の中に、悲劇の死がある。なぜならば、今や
その含んでいるものはすべて純然たる理論である。この立憲王政の本質に存する矛盾はなくすことができない。ここでは現実的なものと考えられたものと、仕事と批評とが互いに真正面から対立している。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第4章12)
ミラボオはたった一人で、しかもその甲斐もなく、「政治と小説とを取り違えていた」議会に対して戦った。時代の三つの最も空理的な憲法、すなわち一七九一年のフランス憲法、一八四八年と一九一九年のドイツ憲法ばかりでなく、ほとんどすべてといっていい憲法は事実界の大きな運命を見ようとしない。
そうしてこれによってこの運命を否定したと信じている。予見されなかったものにかわり、強大な人格と境遇との偶然にかわって支配するものは、因果律である。無時間的に正しく、いつでも同じ原因と結果との理解的関係である。貨幣を政治的な量と認める憲法正文のないことは意味あることである。
このことは神への愛とか祖国への愛とかにもあてはまる。すなわち、確乎としてみずからにたのむところがなければならない。("自我に"化することとしての利己主義、"他人に"化することとしての利他主義)。
(ニーチェ『権力への意志』296)