@vipassanabudo.bsky.social
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本当はどうあっても良いのだ。
自分さえそれを認めていれば。
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良い事、悪い事。
それはそれでしかないんだよ。
それを裁き、誉めそやしたり責め立てたりする心が恐れを生んでいるだけ。

全てはただあるだけ。
裁く心とは、常に法廷に立つ被告であり告訴人のようだ。
その間にも赦す心は自由の世界にくつろいでいる。
手放してごらん。それがあなたの心を恐れから解放する。
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太陽は何ひとつ退けず、天をまかり通る。
ひとつの不平も無く、ただ己の熱を与え続ける。

風は広い草原を覆い、狭い岩山を走る。
望まれるままに、相応しい振る舞いで。

雲は何ひとつ拒絶せずに受け容れ、大空に広がる。
水を、熱を、ただひたすらに引き受ける。その時が来るまで。

水は眼を閉じる。
空からただ落ち、なすがままに山を地面をくぐり抜け、川から海へと注ぐために。

海はわらう。海は荒れる。
ただ、ただ、おもうさま。

不自由なものは何ひとつ無い。
足りないものは何ひとつ無い。

皆あるがまま。
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批判はどこにも存在しない虚無から生まれる。
個が増大し、積み上がり、膨らみ、飽和することで薄まる個の存在感が生み出す負の力だ。

ゆえに批判もまた自然に生じる力。
だから批判を否定し抑圧するのは、更に負の力を加え、苦しみを大きくする。

批判は、わたしたち人類が個として歩み出した時に背負った宿命であり原罪なのだ。寂しさなのだ。一人ひとりの苦しみなんだ…。
それは個という人間ではなく、わたしたち人類が受け入れてゆくべき、大いなる悲しみなのだ。

悲しみを歓びとしよう。
分かち合うことがその道となる。必ず。
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ただの意見の食い違いも、正しさを奪い合えば憎しみという暗い穴が空いてしまう。
譲り合い、与え合えばそこから温かい光が湧き出す泉となる。

全てはただあるもの。
そこから何かを奪う事が失う事である。
だから与えよう。与える事は無限なのだ…
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人は何かを批判しているとき、自分を見失っている。
自分以外の役柄について、監督のように振る舞ってしまう時がある。

つい夢中になり過ぎてしまうからね。
そんなときがあってもいい。気づいた時に、舞台へと戻ろう。
わたしたちは、この世で「自分」という役柄を演じる役者だから。

よそ見をせずに、粛々と「自分」を演じて行けば、実はわたしたちが演じるのは自由で軽やかで、好奇心と冒険心、愛と友情に溢れたドラマチックな物語なんだと分かるよ。
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誰と対話をしているのか?
誰としようと何としようと、全ては自己との対話に他ならない。
それが人でも昆虫でも石ころでも海でも宇宙でも、どんな言葉、感情、風景、感覚で交流しようと、心の入り口に解釈という門番が居る以上、全てが自己との対話である。

何を見、何を聴き、何を知るのか?
実る稲穂を見ても、風の音を聴いても、空を見上げても、常に何かを学ぶ。
それは自然との対話。言葉を超えた存在との対話。

さあ、魂の会話をしよう。
内なるものの声を聴こう。
沈黙を聴き、静寂の中の揺らぎを聴こう。
自己との対話を終え、解釈を超えた存在との対話を始めよう。
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ゆっくりと待つといい。
変容はすぐには起こらず、それには必要な時間、必要な速度がある。

時間が無い?
それもいい。もしも時間切れで去る事になったなら、それはそれで受け容れてしまえばいい。

思い通りに行かないという事を超えて、それそのものが全て予定通りだったと知ってしまえば、それもいい。

全ての結果が、全てあるべき場所に収まる。ただそれだけだ。
「焦り」という一人相撲から自己を解放してあげるといい。
全ての人々が安らぎと落ち着きの中にあって、自由で伸びやかに生きて行ける。必ず。
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真の敵は何処にも存在しない。
全てはあるがままで、あるがままという事は全てがひとつの調和を示しているという事。

調和は全てのものが役割を果たし、均衡しているから起こる。
動くものが動き、動かざるものが動かない。
意識するしないではなく、自然にピースが嵌まるだけ。
反発さえも正しい場所へと導く過程でしか無い。

ゆえに、全ては互いに自由であり、それがそのまま味方であり、敵であり、それぞれが役割を果たし、分け合い協力している間柄だという事だよ。

真の敵は何処にもいない。全ては幻だよ。
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足りないからと求めるよりも、好きなものを問うてみよう。
好きだからこそ求めてみよう。
いつの間にか足りないものも消えているよ。
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自分を定義して何かの枠に当て嵌めてゆくよりも、自分でありながら自分を超えたものになろう。

それは過去の自分と勝負したり上回ったりする事ではなく、過去も未来も呑み込み、好きな自分も嫌いな自分も全てを包含する「大きな自分」になる事。長い時間の中にバラバラに分断された小さな自己を大きなひとつに再びまとめ上げる事なんだ。

思い込みや、観念、定義から解放されて自由になった自分。
心の闇を差別したり恐れることがなかった頃の自分。

そう、遠い過去に置き忘れてきた、本当の自分だよ。
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変化は部分ではなく全体で起こっている。
些細な変化は、見えざる大きなうねりの波打ち際に起こる。
その渚の泡を追っても、消えてはまた生じるだけ。
無数の泡を追うのに忙しくて、くたびれてしまうよ。

もっと全体を観るのがいい。
もっと大らかに観るといい。
そのために「感じる」能力が備わっているのだから。

力を抜いて。素直な好奇心があればいい。
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人と言葉

出逢いはタイミング。
響いたり、輝いたり、気にも留めなかったり、苦しみになる時もある。

出逢いは一期一会。
どんなに素晴らしい出逢いも、次も素晴らしい邂逅だとは限らない。
苦しい出逢いがあっても、次は救いかも知れない。

出逢いは羅針盤。
心は人生という海原にある灯台の光。その光がぐるぐると彷徨っているなら、出逢いは照らすべき方向を教えてくれるだろう。時には確認するだけで終わる事もあるし、邪魔だと感じる事もある。

出逢いとは自分との出逢い。
それはまさに自己と向き合う時間。そこに何を観るのかは自分次第。
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何もできないことは無駄では無いよ。
「何もしたくない」は怠惰ではなく選択。それは努力、それは精進。
そこに気づいていれば、自分を否定する事がない。

何もしないときは何もしない。
それは心が「何もしない」という選択をしているからで、もし心が全会一致で「するべき時だ」と判断したら「何もしない」や「何もしたくない」という選択自体が浮かんで来ないのだから。

「何もしない」は無ではなく「選択」だよ。

全ては心が選ぶまま。だから疑わず、裁かず、罰せず、恐れずに委ねよう。
大丈夫、この地上の全ての生物がそうやって見事に自分を生きている。
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正しさに力が入り過ぎているなら、間違うことにも精を出してみる。

好きばっかりじゃ味がしなくなるから、時々嫌いなものも食べてみる。

そうしているうちに力が抜けて、心は本来の輝きを取り戻し、繊細で伸びやか、豊かで大らかに育ってゆく。

自由に生きるといいよ。
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力を抜くって、それはどうにもならない事をどうにかしようとしない事だよ。
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言葉や態度に温度は無いんだな。
それでもぬくもりがあるんだな。

それは言葉の奥から湧いて来るんだな。
それは態度の背後から差す光なんだな。

それをある人は慈悲と呼ぶ。
それをわたしは存在と呼ぶ。

わたしたちのほんとうのすがた。
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日陰はひんやりと心地よく、日なたはまだまだジリジリと暑い。
強い風。吹き抜ける草の匂い。秋の深まりを感じる香り。
静けさ。空高く踏切の音。何もかもが遠い。

くっきりとした陰影。光と影。雲ひとつない空。半袖では寒く、コートでは暑い。

今が潮の変わり目なんだね。
秋に感じる哀愁は、去ってゆくものに対する感謝と、迎えるものに対する期待。
まだ残る温もりを惜しむ心と、ワクワクする心。
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人は酔うために飲む。人は話すために話す。
飲み過ぎた。話し過ぎた。後悔するかい?
それもいいじゃない。自由にできた瞬間があった事、それが尊い。
もっと自由にやるのがいい。この世は自由な「遊び場」なのだから。
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常に当事者でありなさい。

ただ傍観者でありなさい。
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「わたし」も「あなた」も、憎しみも怒りも、喪失の悲しみも苦しみも、全てがありのままに、あるように輝き、あるべき場所に収まり、あるがままになる。
それらは全てが感謝と歓びとなる。安心となる。自分と、世界の全てがそれそのものに変容する。

全ては受容によって変容する。
そしてどれだけ変容しても、わたしたちはひとつ。本質は何ひとつ変わらない。それを体験した時、何もかもが消える。
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自然の理の中で生きてゆく。
遠くの空でカラスの鳴き声。日陰の涼しさ。
自然に溶け込む一体感。自分の個性もわがままも、この地球の中に風化して埋没してゆくことに歓びを感じて。

何もかも許そう。受け入れよう。
わたしたちは変わってゆく。
時にはなりたくないものにもなる時がある。
でも大丈夫、それが自然。あるがまま。
なりたくないものの中にこそ、答えが隠されているという声の無い導き。
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風になろう。チリになろう。
吹けば飛び、飛べば散る。そんなものになろう。
大丈夫だよ、散っても消えるわけじゃない。
形は無くなるけれど、どこにでも在るものになるだけだよ。
軽く、自由になろう。心配ないよ。
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それでもああ、苦しみは起こる。
仕方がないよね。
そういう時は、もう諦めて大地に横たわる。
全てを天に委ね、明け渡し、煮るなり焼くなり、好きにしてもらう。
それがいい。
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結果は追うものではないよ、ついてくるものだよ。

結果は尊いものだけど、自己否定の材料じゃないよ。

結果は部分。あなたの一部。全ては無垢。