えむぐりあ
@emgrie1.bsky.social
35 followers 53 following 390 posts
洋画沼に潜むもの。常に何かを編んでいる。責任能力のある成人が、自ら愚かさに足を踏み入れていく表現が好き。
Posts Media Videos Starter Packs
肌寒い時に首に巻く小さいスカーフを編みたいので編み図を探しているのですが、YouTubeでたくさんのニッターがSophieというスカーフを編んでいて、なるほど無料の編み図を解説している? と思って調べてみたところ、普通に有償の編み図で驚愕している。無法地帯だな、おい。

↑は主に英語圏の話なのですが、Sophieの名を出さずに解説している日本語ユーザーのニッターもいる。

英文レシピ買って編むか! 一応日本語版もあるし!(でもたぶん編み図ではない)と思っていたんですが、これ、見る人が見たら、「YouTubeの解説動画のフリーライダーだ」と思われるわけ?
e7のラストでリプリーがベネツィアに到着する場面、ショスタコーヴィチの『ジャズ組曲 第二番 第二ワルツ』がかかるところは大変美しく印象的なのですが、あそこでハムスターホイールが壊れてリプリーが解き放たれた、ということなのかもしれない。しかしなぜ解き放たれたのかはよくわからない。ベネツィアすごい、ということなのか。ではなぜローマではそれが起こらなかったのか。
リプリーの造型も、同性愛者というよりはAroAceに寄せてあるように感じられて、ちょっとよかった。このひといいな、と感じた相手に対して、恋愛的惹かれや性的惹かれではなく、その人に成り代わりたい、その人のエッセンスを汲みつくしたい、みたいな欲望を感じるところがAroAceっぽい。

その欲望を向けた相手が、それを恋愛的惹かれや性的惹かれだと感じて反応すると、その反応に対して激昂したりパニックになったりするところもリアルだった。リプリーがセックスとロマンスに対して抱くうっすらとした嫌悪、みたいなのも感じられてとてもよかった。
作中、リプリーは殺害対象である富豪の息子から教えられたカラヴァッジョに取り憑かれたようになるのですが、最終話のヴェネツィアの場面は要所要所でカラヴァッジョレスクを意識した画面作りをしていて、とにかく最終話を撮りたかっただけなのでは? という気がしてならない。

最終話のアンドリュー・スコットは本当によかったが、本当によいアンドリュー・スコットはアメリカ人には見えない問題はあるかも。とはいえ、e1〜7までのアンドリュー・スコットがアメリカ人に見えたかというと微妙なところではある。
そんなことができるなら、最初からそうやっていればよかったのではないか。
リプリーこんなに間抜けだったか? いや、25、6で暴力に慣れていない青年のやることはこんな感じか、「リプリー」というキャラクターに対して幻想を抱いていたのかもしれない、しかし、アンドリュー・スコットにこんな杜撰なキャラクターをやらせる意味はあったのか? 途方に暮れた顔でハムスターホイールを廻すハムスターのようなアンドリュー・スコットを期待していたわけではない、確かにかわいいと言えなくはないかもしれないけど……と思っていると、最終話、ベネツィアでいきなりいつもの賢く優雅で冷酷なアンドリュー・スコットになって、抑制のきいた行動で事態を打開するので、いったいe7とe8の間で何が起こったんだろう。
Netflixの『リプリー』を最後まで観ました。アンドリュー・スコットのリプリーは、基本的に衝動的で辛抱が足りず、場当たり的に杜撰な行動を重ねていきます。
ただ、アンドリュー・スコットの『リプリー』はカラヴァッジョを重要なモティーフとしているので、たぶん、最終的に追っ手につかまって破滅するのは最初からわかっていた、ということになりそう。

まだ全部観ていない。いま、リプリーが富豪の息子を殺してローマに逃げたところ。
リプリーの動機は同性愛と解釈できるのもわかりますが、アンドリュー・スコットが不気味すぎてなんかそういう生きものとしか思えないので、同性愛解釈はちょっと違う気もする。あれは気に入った相手を見つけると、殺害して成り代わる習性を持った生きものであって、そこに愛とか性欲とかはなさそう。

あと、リプリーのなりすまし方法は大概杜撰なので、失敗が目に見えていてつらい。マット・デイモンが主役の『リプリー』について、哲也先生が「モロッコにでも逃げるべきだった」とおっしゃっていたけど、それは本当にそう。
Netflixのアンドリュー・スコットの『リプリー』、楽しくイタリアで暮らしていたらアンドリュー・スコットがやってきて、「君の両親からアメリカに連れ帰るよう説得しろと頼まれた」と言い、なんか気づいたら同じ家に住んでいて、挙動が自分と似てくるし、勝手にこちらの服を着たりもする……って怖すぎるだろ! なぜさっさと追い出さない!! と思いました。アンドリュー・スコットの目がじっとこちらを見つめている様子を想像するだに怖い。
今日は副菜にナスのフライを作ったのですが、メインにならないおかずで揚げものをすると、酔狂メーターが振り切れてよい。表面サクカリ、中はジュワトロでおいしく仕上がりました。

ちなみに、メインはこないだ作ったコテージパイを温めなおしたものでした。個人的にはコテージパイは白米が進むおかずなのですが、イギリスの人に怒られそうだな……とは思っている。
あの素晴らしい『時の面影』のサイモン・ストーン監督の新作、『第10客室の女』が10月10日からNetflixで配信されるよ! サイコサスペンスらしいので、微妙に好みから外れるのだけれども、とりあえずは楽しみ。せめて10月10日までは生きなきゃ。

書いていて思ったんだけど、『第”10”客室の女』だから”10”月“10”日配信なの?

youtu.be/mXkN6HZ_gnc?...
『第10客室の女』予告編 - Netflix
YouTube video by Netflix Japan
youtu.be
『パトリック・メルローズ』、近所のTSUTAYAに在庫があるみたいなのでレンタルしてみる。主人公が超絶エモい状況で絶望に打ちひしがれるラストだったら、たぶんエドワード・ベルガーはそういうのがとても好きなので、観客はそういうものとして受け取らなければならない、ということになるのだと思う。
なので、エドワード・ベルガーへの正しい期待としては、今度はどの俳優を超絶エモい状況で絶望に打ちひしがらせるの? なのかもしれない。次の作品の主役はコリン・ファレルらしいですが。
でも、その場面を撮影したのはエドワード・ベルガーではないとはいえ、極北の地で孤独で悲しみに打ちひしがれるジャレッド・ハリスもよかった。もちろん、信仰の危機にありながら可能な限り正しい選択をしようとするレイフ・ファインズもよかった。

『西部戦線異常なし』のフェリックス・カマラーは若すぎて気の毒すぎて、可哀想さが先立ってしまってね。
エドワード・ベルガー、基本的に手堅く上手い監督だし、大袈裟で大仰なバロック絵画みたいな画面づくりや、家父長制に対する批判的視座も好ましいのだけれども、作品の最後を超絶エモい状況で絶望に打ちひしがれる男性の姿で締めくくるのだけはやめてほしいかな。

超絶エモい状況に持っていく手際もすごく上手いっちゃ上手いんだけど、3回観て3回ともそういうラストだと反応に困る。これ単純に監督の好みなんだろうけど、そういう好みにいちいち反応していいの? みたいな気持ちになるというか。
ただ、『教皇選挙』と『ザ・テラー』について考えると、既存の権力、とりわけ家父長制について批判的視座を加えるのはエドワード・ベルガーの作家性なのではないか、という気もするので、もしかしたらあのろくでもない将軍のエピソードは、物語的な盛り上がりのためではなく、純粋に好みで据えられたのかもしれない。

『パトリック・メルローズ』観るべきなのかも。家父長性に批判的な監督の描くプレイボーイものはちょっと興味がある。
『1918』の個人的な見どころは、倒れた主人公の鼻先に、それはそれは美しい革のブーツを履いた脚が現れ、何と美しい脛だろう、これはもしかしてマーク・ストロングの脛ではないか? と思っていると、本当にマーク・ストロングの脛だった瞬間です。
サム・メンデスの『1918』、主人公がイギリスの名優スタンプラリーをするのをワンカットで撮った映画、という印象が強く、観ながら、「私はいったい何につきあわされているんだ?」とひいてしまったのですが、あの映画はそういうスタイルを選ぶことで、いわゆるお話し的な盛り上がりを
設定せずにすませたので、そこは評価するべきなのかもしれません。休戦協定後の無意味な突撃、とか、最後にチャーチルの演説を持ってきて盛り上げておしまい、とかよりは、(もしかしたら)製作側は映像の力を信じていたのかも。

それでやることがスタンプラリーか!? とはやっぱり思うけども。
1930年版では人間らしく死んでいった主人公を、いったい本作ではどのような形で死なせるのか、というのがおそらくは終盤の見どころとして設定されています。2023年版では最高に無意味かつ無惨なものとして呈示されました。ただ、そもそも戦場での死は無意味かつ無惨なものなので、最高に無意味かつ無惨な、要するに特別な死を主人公に与えるのは、結局、1930年版とあまり変わらないのでは、という疑いを抱かざるをえません。
本作では1930年版にはなかった(Wikipediaの記述によると原作にもないとのこと)お話的な盛り上がりが設定されていて、確かに観ている間はドキドキハラハラするのですが、こんなことでドキドキハラハラしていいのか? と感じてしまいました。
冒頭、戦死した兵士を裸に剥いて棺桶に詰め込んで埋葬、剥ぎ取った軍服は集めて貨車で運び、洗濯してほころびを直してから新兵に配る、という一連の流れだけで100億点が加算されたのですが、ああいう話だけを延々とやってほしかった。

……というような話を友人としましたが、結局、
「いや、でも、そういう感じに近い『ジャーヘッド』は興行的にはダメだったよね」
「ダメだったね」
「ああいうのやりたいんです、って言っても、もうやらせてもらえないのかな」
「やらせてもらえないね」
……というような結論になりました。
2023年版『西部戦線異常なし』を観ました。主人公が死んだ後、前線から本部へ「西部戦線異常なし」という報告が送られるのがミソだと思うのですが、2023年版だとその報告を送るのが事実上不可能になってしまっているので、『西部戦線異常なし』じゃないじゃん! という感想を抱きました。

第一次大戦のドイツ側視点の映画を撮りたいが、それだと予算がつかないので『西部戦線異常なし』のリメイクにしました、というにおいがぷんぷんします。もし第一次大戦のドイツ側視点の映画にがんがん予算がつく世界線だったら、どんなものが観られたのかと考えると残念でならない。
少し確認することがあって、Xのトランスヘイターのアカウントのホームに行ったのですが、男性は劣った性で女性は優れた性、みたいな話題で盛り上がっていて、ミラーリングのつもりなのかもしれないが、そういう二元論的な本質主義が行き着く先は碌でもない場所だぞ、と思うなどした。

ぜんぜん私よりお若い方みたいなんだけど、何があっても本質主義に傾くべからず、みたい感覚ってそんなに身につかないものなのか。
↑これ、「私も使い方がわからなかったら聞いちゃおうと思ってたんで、ぜんぜん気にしてないですよ」と言えばよかったのでは。