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Ми ся любит Карпатьска Русь. Єден русинофіл.
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スターリン主義みたいな一党制システムだと、政権与党のほかにブロック政党が存在を許されている場合があり、ポーランド統一農民党や東ドイツのキリスト教民主同盟などが政権与党を輔弼するためのみに存在していたわけですが、僕は最近某国で連立から抜けた政党についても似たような感想を抱いており、政権与党が何をやっても従うだけの案山子だとばかり思っていたものですから、ジェスチャーにしては大掛かりなことをするものだと驚きました。
ニェーメツ語wikiだと東ドイツの例については「反ファシスト民主ブロック」の名目だったとしている。スターリン式選挙と同じくらい「そんな面倒な演出をする必要があるのか?」と思うやつです。
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ヘドルンド先生の‘Russia Reverts to Muscovy’で、この辺の、ロシア連邦が正式には行政的にソヴェト同盟の一部に過ぎなかったにもかかわらず、ソヴェト同盟全体の別名として「ロシア」を用いる人々が一定数いた(い続けた?)という現象について触れられていないか期待していたがそういえば触れられてはいなかった。
自分はソヴェト同盟が事実上ロシア帝国の後継国家であったと考えており、ロシアを「ソ連」と呼び表す行為にはその「逆」よりも違和感があるが、ゴルバチョーフが最後に、第一次大戦中の在外ロシア人資産家の出資金をソヴェト同盟が返済したという事件がどのように位置づけられているのか知らない。
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英語で「チェコ共和国」という呼び方があっても「チェコ」だけの通称はチェコスロヴァキア解体まで存在しなかったというのは知らなかった。
チェコ語で「ボヘミア」にあたるČechy自体の語源はčlověkという、ウクライナ語やカルパチア山麓部のчоловікやポーランド語のczłowiekと同じ語らしく、「人間」がある種の「集団名詞」になった点では「アイヌ」と同じだ。
それにしてもチェコ人はチェコスロヴァキア解体に至るまで「チェコ」と「チェコスロヴァキア」をあまり区別していなかったというのは、「ロシア」とソヴェト同盟とをあまり区別していないロシヤ人が一定数いたという話を思わせる。
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国家連合の形を取っている国家では、スイス誓約者団がロシヤ語などで国家連合と訳されるようですが、竹中亨先生の『ヴィルヘルム2世』によると、どうもビスマルクなどは言葉遣いなどからドイツ帝国を諸侯国からなる一種の国家連合とみなしていたのではないかとも思えるらしく、とはいえ、当人たちが「お飾り」とみなしていたはずの議会が、いつの間にか民意という重要ながら取り扱いに注意を要する要素を政治に持ち込むようになり、連邦国家というか均一な国民国家に近づいていった経緯が説明されており興味深く読みました。
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先日、読書メーターで僕と相互の人が松里公孝先生の『ウクライナ動乱』の感想で「我々はソ連に復讐されているのだろうか?」と書き出しているのが美しくて「俺も真似してえな」と思いましたがどうも僕は単純な脳をしているらしく書く機会がありません。
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ソヴェト同盟という枠組みが人工的ではあったものの、「定着」という重大な「非人工的」ともいうべき自然発生的な効果を残した点としては、塩川先生の講義で、かつてはトルキスタン自治共和国という大きな枠組みにまとめられていた中央アジア諸国が、ソヴェト同盟の解体後においても、その枠組みには決して戻っていないという点が僕の頭の中に永遠に残りました。
考えてみれば東西ドイツを統一せねばならない理由はモルドバとルーマニアが合同しないことと同程度には確定的ではなく、地理的区分や民族的区分とは異なる行政的な要素が非人工的な何かを生じさせることもある例として焼きつけられたように思います。
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塩川先生がHPで公開されている書評だと、和田春樹先生の『スターリン批判』の書評の後半部の、ソヴェト社会主義諸共和国同盟をどう訳すべきかというくだりがすごく好きでして、ボリシェヴィキの作る新しい国体が、国家連合の形をとるか連邦国家の形をとるか議論があったという点は先生の『多民族国家ソ連の興亡Ⅱ 国家の構築と解体』でも触れられているんですが、最後の最後になってコンフェデレーションともフェデレーションともいえない、廃れた訳語である「同盟」が適当に感ぜられるような状況が生じたのが「一種の歴史の皮肉である」というのがあまりにも美しくて何回も読み返してしまいます。
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結局のところチェコスロヴァキア第一共和国がチェコ人を中心に据えた構造を最後まで調整できず、スロヴァキア人やドイツ人、そしてルシーン人を真に統合できなかった点は、「前身ハプスブルク帝国のそれと同じく荏苒であったように見える」(P. R. Magocsi, “With their backs to the mountains”, 2015, CEU Press, p. 194)。
その期限はチェコ側の動向とは無関係に訪れることになり、「すべてはソヴェト同盟とその全能の指導者イオシフ・スターリン次第になった」(“With their backs to the mountains”, p. 293)。
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„Já nemám rád prázdné mluvení o slovanství, jako nemám rád vlastenčení... A nač to mluvení: normální člověk nevytrubuje do světa, že miluje své rodiče, svou ženu, své děti; to se rozumí samo sebou.“
(„Hovory s T. G. Masarykem“)
「チェコスロヴァキア主義」はチェコ語でČechoslovakismusだがスロヴァキア語では語尾が-zmusとзの音になり、ロシヤ語に似ている。
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「私は、愛国者ぶることが好きでないのと同様に、スラヴについての空虚なおしゃべりは好きではありません。我が国のスラヴ主義者のうち、一体どれだけの者が、せめてロシア語、ポーランド語、セルビア語を読めるでしょうか? 我々はフスの民族なのだと唱えてばかりいる人々とて、同様です。彼らのうち誰が、フスをせめて少しでも読んだでしょう、……同胞団の宗教改革のせめて一冊の本を読んだでしょうか? ……普通の人は、自分の両親や妻や子供を愛しているということを、世界に向けてかまびすしく喧伝したりはしません。それは当然のことだからです」
(チャペック『マサリクとの対話』石川達夫訳、成文社、pp. 94-5)
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戦後オーストリアの大連合も55年体制も「共産化を防ぐ」とそれから「現状維持」を大いに志向していたのであり、大倭豊秋津洲のそれについては新大陸からの潤沢な資金援助が地盤を支えているという特殊な要素があったことをアメリカの日本史学者の人でさえ指摘しており、政治の世界に「現状維持」よりも緊張感が戻ってくるということ自体は必ずしも悪いことではないと思いますが、多元主義と意見のスペクトルが制度的に認められている場ではこういった事態も起こりうることは今の状況を招いた人々もよくご存じだったものと思いますので、まあお手並み拝見と行くか。
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少なくとも選挙制度がある国体においては政治家には常に地位を失いうるという緊張感がないと駄目になるらしいというのも事実ではあります。
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まあオーストリアも戦後に「一党優勢を防ぐ」という名目で社民党と国民党(だったっけ)の連立政権がずっと続いていたら各地で癒着や腐敗が始まり案の定その中にはナチの残党が紛れ込んでいたりして我がオーストリア文化史の先生なんかは「日本人に気質が近いのはドイツよりこっちじゃないかと思うこともある」と評されておられたわけですが先生が何年か前にお亡くなりになられたのが残念だ。
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独立直後のポーランドで、特に自由業の就業者で「ユダヤ人が極端に多くを占めている」ことから南アメリカなどへの移民を推進していたとかには、戦後にマルクス・レーニン主義という「異質」な教義が蟠踞しても根絶しえなかった根強い土俗的な感情が確認できる。
チェコとかでユダヤ人の生存者が帰って来たら自分の家に近所の人が移り住んでいて「どうして今さら帰って来た?」という温かい言葉をかけてくれたという話は嘘ではなさそうだ。
僕が気になっているのは国粋社会党の掲げていた偏見がどの程度ヨーロッパにおいて普遍的で、どの程度基準を逸脱していたのかということです。
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『1944年から1956年のポーランドの反共主義地下パルチザンの精神性』
『1918年から1939年の植民地世界秩序におけるポーランド、調整と大望』
買いたい洋書の名前を書くだけなら自由だ。
我がウクライナ史の先生によれば、ウクライナ方面の反共パルチザンの残党にもフルシチョーフが投降を呼びかけるビラを戦後にばら撒いており、少なくとも1950年代後半まで刷られていたらしく、ソヴェト同盟と周辺諸国で部分的に共通していたのではないか。
戦後ルーマニアの当局も、逮捕した人に標石を抱かせて池に沈めたり、冬場に水を浴びせてコンクリート張りの部屋に放置したりなど、被疑者の人道的な処遇に気を配っていたようだ。
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『ドイツ植民地研究』、我が第二の指導教官が述べられていた「ドイツ領アフリカのどこかでは現地人にマルクスとかを読まれて『平等』などという厄介なことを言い出されないようドイツ語でなく英語を連絡用言語として教えていた」という話が触れられているだろうか。先生にメールを出せばいいんですが一応書籍で手元に置いておきたい。「植民地経営というのは色々と考えることがあって大変だな」と他人事のように思ったお話でした。
戦後にスターリンがバルト地域の「森の兄弟」とかを力ずくで破砕しようとしても成功しなかったがフルシチョーフが「武器を置いて出てくるなら恩赦を与える」と布告を出したら壊滅したというのが印象的な話です。
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チェコスロヴァキア第一共和国によるポトカルパツカー・ルス領有について、マサリクは「将来の民主的なウクライナもしくはロシアとの地理的接点」となると強調し、ソヴェト・ポーランド戦争でガリツィアなどがポーランド領になったことで結局その想定はなくなったわけですが、1938年のミュンヒェン協定で、チェコ領の町チェシンがポーランドに割譲され、戦後の国境線の修正においてポーランド人地区と「チェコ人の(Český)」チェシンとに分割されるという出来事があり、現在チェコ側では町の中でチェコ語とポーランド語の二言語表記が採用され、そこは今でも一言語表記のポーランド側とやや色合いが違っているようです。
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イヴァン・ステパーノヴィチ・コーネフ元帥の写真がシュヴァンクマイエルの「スターリン主義の死」に映るのは知っていたが、実際にプラハに像が(複数?)あるらしく、そのうち「国際旅団広場(Náměstí Interbrigády)」に建っていたものは、反共主義のデモンストレーションのたびに赤いペンキで汚損されたりした結果2020年に撤去された。
その際にはコーニェフがハンガリー動乱の鎮圧にも参加したことなどが問題になったらしいが、複数の論者によれば、当時チェコ政府もソヴェト同盟に「ハンガリー占領への協力(チェコ軍の派遣)」を提案しており、これまた「社会主義」とは関係のない根深い土着の感情が垣間見える。
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「プラトンが生きたのは民主制のポリス社会であり、彼の思索は古典期ギリシアの政治・社会・文化に深く根ざしていた。ローマ帝政期の新プラトン主義者にその背景や関心が共有されなかったのは当然である。……〔プラトンは〕積極的な政治関与を模索していた。このような実践的な関心や提案は後世の読者には理解困難なものであり、プラトンにとって現実的で切実な考察は抽象的な理論として受容されざるをえなかった」
(納富信留「プラトン哲学の徹底と逸脱」。『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年、pp. 19-20)
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結局のところ競争相手が世論を味方につける努力をして来なかったからで嫌なら勝てばよいのだということについてはまあ反論しようとは思いません。
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マサリクの観点では、「何の説得もせず」、カルパチア・ルーシの代表者に「ハンガリーか、ポーランドか、我々かに加わることができます、ご自分で選んでください」と訊ねたところ、「我々を選びました」としているが、しかし、ルシーン人の出自を持つアメリカの弁護士で、チェコ政府の招聘でポトカルパツカー・ルスの知事となったグレゴリー・ジャトコヴィッチが、ポトカルパツカー・ルスの自治を巡ってプラハ政府と争いになり、結局「民主制の未成熟」を理由にアメリカへと帰国してしまった件についても触れられてはいない。
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『マサリクとの対話』の和訳だと「カルパチアのウクライナ人」と訳されている箇所があり(p. 157)、しかし原文ではRusínyと、「ルシーン人」とはっきり述べている。しかしながら、その少し上の「ザカルパチエのロシア人」と訳されている箇所は、原文ではpodkarpatské Rusi〔カルパチア山麓部のロシヤ人たち〕と書いてあり、マサリクもカルパチア・ルーシについては意識をあまり向けていなかったのだろうか?
チェコがカルパチア山麓部を領有する意義については、マサリクは「全く新しい案」だが「民主的なロシアあるいはウクライナにつながる領土上の橋を確保する」と述べており、マゴチの指摘と一致している。
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『マサリクとの対話』は率直に言って、チェコスロヴァキア第一共和国の政治が共産党を除く五つの主要政党が非公式会合で合意を形成するPětka〔五人組〕体制を敷き、さらに「建国の父」マサリクを中心とするhrad〔城〕という非公式グループが影響力を発揮するhrad〔城〕という状況が罷り通っていたという、チェコスロヴァキアもまた東欧地域に生じた権威主義体制の一翼を担っていたのではないかと思わせる点には当然ながら触れておらず、残念ながら和訳ではpodkarpatský〔カルパチア山麓部〕を遡及的に「ザカルパチエの」と訳してしまっている箇所(p. 157)がありますが僕は今でも好きな本です。
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「そして彼〔トルストイ〕が、我々は生活を簡素化しなければならない、我々は農民のように生きなければならないと説き始めた時、私は彼にこう言いました。──じゃあ、あなたの屋敷とサロンは何ですか? あの肘掛け椅子とソファーは? そして、あなたの農民たちのあの貧しい暮らしは? あれが簡素化というものなのですか? あなたは確かに酒はお飲みにならないが、煙草は何本でもお吸いになる。禁欲主義というなら、一貫したものでなければなりません。農民が貧しい暮らしをしているのは貧乏だからであって、禁欲主義者だからではありません」
(カレル・チャペック『マサリクとの対話』 石川達夫訳、2004年、成文社、p. 93)
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共同研究のために上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』を読んでいるんだが、50ページに1ページの頻度で同性愛嫌悪的な記述が登場して、一般書&時代の制約を割り引いても読み続けるのがしんどくなっている。
普通にレズビアン嫌悪的な語りもあるし、本当に上野のホモフォビアは(『女ぎらい』で述懐したように)ホモセクシュアルとホモソーシャルを区別できていなかったことだけに起因するだろうか。