旗代@C105月曜日東5マ-01b
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近世ヨーロッパ軍事史好き。騎兵合同誌で近世ヨーロッパの騎兵戦術の変容を寄稿。「私家版近世欧州軍事史備忘録」シリーズを刊行中。BANZAIまがじん様にも寄稿中。最新はVol.15号の「ワーテルロー会戦における騎兵」。サロン・ダルメ所属。
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冬コミC105、当選しました。
「旗代屋」 月曜日、東5ホール、マ-01b
新刊は『イタリア戦争の戦争術』の翻訳完結編。
5章 砲兵、6章 戦術、7章 攻城術・築城術、8章 軍事著作家となる予定。
これを機会にヨーロッパにおける中世と近世の軍事的転換点となったイタリア戦争を学んでみませんか? #C105
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あの頃の馬術は、軽速歩とかがフランス軍の騎兵学校でで正式採用されるのも、普仏戦争後だし、今と色々と違うのが面白いなぁと思います。競馬でさえ、いわゆる天神乗りでしたからね。
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こういう本の方が、参考になるのかもしれないのですなぁ。
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マーケットの支持は爆高みたいで、どうすんだろコレ感あるですね。儲かりましたけど。。。。
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あっと言う間にコリャ駄目だとなるかもしらんけどね。
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まぁ、色々と言いたいことは沢山ありますが、個人的な恨み辛みもないので、取りあえず、良い意味でも悪い意味でも、自民党の幅広さに制限されながら、結果として右に寄りすぎず左に寄りすぎず、上手い具合に、行政や税制に対する不満のガスを抜いていただき、安定をもたらして欲しいなぁと思います。
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あの辺りは豪邸もあれば、普通なところもあり、足を伸ばせば等々力渓谷や、農園なんかもあり、野菜の無人販売所も残ってたりしたんですけど、今はどうなっているのかなと懐かしくなりました。小学生の頃に自転車で駆け回っていたので。自由が丘駅の周りには本屋がそこそこあったんですよ。https://x.com/Hatashirorz/status/1882392580983538056
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これで石破路線の完全なる否定という方向に舵を切ったわけだ。おそらくこれで初の女性総理誕生なので、その点だけは良いことなのだと思いたい。。。。
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涼しくなってきて、過ごしやすくなってきたぞ! 特に夜はもうバッチリですね。どれ位続くかな~
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当選したら冬コミに出すための本の製作を開始した。まぁ続きの翻訳なんですけどね笑
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ぜひぜひ、3巻まで膨らませて、大長編に!!!!
凄く楽しみです。
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速水螺旋人先生の『ロージナ年代記』手に入れましたー!
続きは10年後!?ウソでしょーー泣。
近世編の本番がここから始まるのにー
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こうした事情を、実際の道路の事情から見ると、非常にイメージが付きやすい。
実際、舗装路と未舗装の軟弱な路面の道路だと、当時の感覚では2倍の運送効率の差があったようである。
当時の4頭立て荷馬車の軍用契約では、未舗装路では1500ポンド(680kg)、舗装路では3000ポンド(1360kg)の重量を牽引できるものとするという文言が確認できる。

これを考えるとほとんどが未舗装路であるはずの中世ヨーロッパや初期近世の荷馬車の実運用の実態は、推して知るべしというところなのだろう。
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また舗装路を前提にすれば、馬車も大型かつ、重量輸送に使えるようになる。
ナポレオンが大遠征に備えて準備した1811年式荷馬車は4~8頭立てで車体重量1230kg、最大積載量3000kgであるが、これは明らかに、このような舗装路を前提にした馬車である。

しかしロシアへの道がこんなに整っているはずがなかった。4頭および8頭立ての重荷馬車は、ポーランドとリトアニアの横断中に、ほぼ半分が損傷したとされ、ヴィルナから先には進めなかった。
軽量なコントワーズ式の荷馬車しか役に立たなかったとの評価は、至極当然で、ロシアの現地で徴発した荷馬車も、おそらく同様の素朴なタイプだったのだろう。
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そして、これはフランスだけではなかったようである。
例えばワーテルロー戦役を回想したナポレオンは「「シャルルロワの道は非常に広く、軍の退却には十分であった。ジュナップの橋も同じ幅であり、5、6列の馬車が並んで通過できる」と書いている。

こういった西ヨーロッパの事情の進展が、コントワーズ式からドイツ式とフランスでは呼ばれた馬の2頭並列立てのやり方への切り替えにつながったのだろう。舗装路で運用するなら、深い轍に足を取られる欠点は抑えられるからである。

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フランス式という別名もあるし、辞典によるとグリヴォーバル式まではこのやり方が主流だったとのこと。19世紀の再現画。
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実際の所、鉄道以前には、主要街道は、交易と住民の生活において大きな役割を果たしていたので、しっかりとその当たりを踏まえるべきだろう。

27.3mという道幅は大半で計画倒れに終わったようであるが、幅6.5mの多くの場合は砕石や小石で舗装された車道は、それなりに整備され、馬車がすれ違えるようになっていた。
また、別の論文を読むと、道の左右の土地も交通に利用しやすい状態だったようだ。
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そして主要幹線が何故重要かと言えば、道の大きさと出来映えが大きく異なったからである。今回の北側の主要幹線で言えば、シャンパーニュの区間では14.6m、他の区間では19.5mだったようである。この街道沿いに大軍が動くのは、至極当然といえるだろう。

それにしても、大陸の主要街道の道幅が広いのには驚くばかりだ。島国の日本にいると、この辺のイメージがかなり貧弱になる。
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また、こちらのブログで「小パリ街道」「大パリ街道」とされていた二つの街道も、この論文では確認できる。名称は出てこないが、セザンヌ経由がドイツ新道(Nouvelle route d'Allemagne)であり、ドイツへの道との言及から、その類いの名称であろうことが推測できる。

南側の街道は1789年の地図によるとシャロン手前で破線になっていることから、完璧ではなかったようである。郵便路線図を見ても北側の街道が路線になっていることから、北側が主要幹線であることは明白である。
ウォーゲームで歴史に思いを馳せる 1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?
ボードウォーゲームの日記的紹介、関連する歴史、動画の紹介などが主です。
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一方で、その荒野を縦断する道によって州都シャロンが中心地としての大交差点になっていたこと。

などである。
おそらく中央の意向はともかくとして、地方としてはシャロンを経由しない道に資金を投じるのは嫌だったのだろう。

そして速度という点でも、この時までにシャロンやヴィトリーからパリまで駅馬車で1.5日圏内に入っていたことも、この論文から分かる。1765年では駅馬車が使えずに、最速4日は必要だったことを考えると、十分な改善状況だったのだろう。

それにしても郵便馬車制度も整うと、移動速度が倍になるというのは凄い。
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で、この論文を読むと、色々と分かる。

この道が「ドイツ新道(Nouvelle route d'Allemagne)」と呼ばれていたこと。
当時、実質的にセザンヌで止まっていたこと。
その先は、幾つかの区間を除いて、ヴィトリー=ル=フランソワまで「未完成 (ébauchée)」であったこと。
その一方で、東方への最速の経路とするという王国政府の決定があったこと。
ヴィトリー市も努力を惜しまなかったこと。
1788年には全ての橋がすでに建設済みであったこと。
しかし州当局が、彼らが「荒野(désert:人の住んでいない地域の意味だろう)」と見なす場所を横断する道路に費用をを渋ったこと。
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その論文がコチラ。
『18世紀半ばにおけるフランスにおける道路の大変革』
非常に面白い論文で、道路の構造から、経路、郵便馬車制度の整備による移動速度の増加までを知ることができる。近世期を舞台にした小説を書く際の、旅や移動日数を考えるときにも非常に有用だと思う。

www.persee.fr/doc/ahess_03...
La grande mutation des routes de France au XVIIIe siècle - Persée
www.persee.fr
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以前に、twitterで少し話題にのぼった「1814年戦役で、セザンヌを経由する街道はなぜほとんど使用されなかったのか?」というお話について、論文に解答が載っていた話。Twitterで挙げていたので、こちらにも。

簡単に言えば、未完成だったから。

1789年の道路網の再現地図を見ると、破線表記で、その意味は開通および未完成(ouvertes et ébauchées)の表記になっている。
論文の方を読むと、詳しい解説が載っている。

x.com/DSSSM00/stat...
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全然違うことを調べてたら、少し前にTwitterで話題にしてた18世紀末から19世紀初頭のヴィトリー=セザンヌ間の街道について、解答が載っていて笑ってしまった。あとで纏めるか。
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フランス式という別名もあるし、辞典によるとグリヴォーバル式まではこのやり方が主流だったとのこと。19世紀の再現画。
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コントワーズ式の馬車ってどんなのか、色々と調べたけど、結局のところ、馬の繋ぎ方なんだな。馬を横ではなく、縦に(タンデムに)繋ぐやり方。なので轅も両側に2本突き出る形。下の画像みたいに1頭立ての馬車では良く見られるタイプか。
重量物を多頭立てで運ぶのには欠点しかないけど、深い轍があるような悪路で、牽き馬が並列立ての場合、轍に足を取られるけど、縦並びなら関係ないという利点があると。