明日 雨
@hinemosunotako720.bsky.social
100 followers 28 following 2.5K posts
燗酒好き。ドラマ好き。アイコンは神田まつやの鍋焼きうどんです。ここのアカウントには、主に朝ドラと読んだ本のことについて投稿してます。フォローもフォロー解除もお気軽に、です。
Posts Media Videos Starter Packs
hinemosunotako720.bsky.social
これ観に行きたい。来年2月までなのでどこかで絶対行く!

www.takashimaya.co.jp/shiryokan/to...
www.takashimaya.co.jp
hinemosunotako720.bsky.social
録画してた #NHKスペシャル 「大阪激流伝」観た。良かった。

大阪の町工場と戦後史。「シミひとつない人間やないと、戦争に反対したらあかんのかいな」という言葉が響く。
hinemosunotako720.bsky.social
noteもフォローさせて頂いた…

作者と絵師と版元の細かい関係性や、作品ひとつひとつの詳細な解説があるの、ほんとに有り難い🙏きちんと一回分が文章化されているのも有り難い。細切れの投稿だと、見えないものもたくさんあるので。
hinemosunotako720.bsky.social
細やかな解説と鑑賞…ドラマの理解が深まりました。改めて、「原点に戻る」(ドラマのスタートに戻る様々な要素)回だったのだなぁと実感。
素晴らしい文章を、ありがとうございました!
neokontora.bsky.social
#大河べらぼう 第38回 #地本問屋仲間事之始
「原点に戻る」をキーワードに、蔦重と出版業界の一致団結、蔦重と京伝との対立と和解について、これまでの数々の人の縁を振り返りながら、noteにて考察しました。歌麿ときよについても割いています。見方の一つとして、皆さまの楽しみの一助となれば嬉しいです。
note.com/tender_bee49...
#べらぼう
hinemosunotako720.bsky.social
先週の冒頭シーンで、おきよさんが蔦重をポカポカ殴ったことを再び思い出す。もはや「社会的権力」となった蔦重、という、意味を重ねて見てしまう。

大河べらぼう
hinemosunotako720.bsky.social
おきよさんの孤独へも、歌麿は共鳴したのではないかとも思う。絵師という職業、絵を売るということ、商売、経済…蔦重の側から離れ、自分の内側を見つめ直し、上記のような「複合」の賑やかさ/猥雑さ から距離を置いた歌麿が、社会の隅で静かに生きるおきよさんに出会う意味を思う。→
hinemosunotako720.bsky.social
一方、聴覚障害のあるおきよさんは、本書における「身分的周縁」にあると思うけれど、同じ境遇の人々で共同組織を作るということはあったのだろうか。(視覚障害のある人々の当道座(女性は瞽女の組織)は、思い浮かぶけれど)

識字率について頭を巡らせると、聞こえない・喋れない、コミュニケーションを取りづらい、というのはとてつもなく大変なことであると思われる。
歌麿がおきよさんを紹介するときに、「親と死に別れて」と言っていたと思う。助け合う組織もなく、たった一人で生きてゆくことは本当に困難なことであったであろう。
hinemosunotako720.bsky.social
おきよさんの孤独へも、歌麿は共鳴したのではないかとも思う。絵師という職業、絵を売るということ、商売、経済…蔦重の側から離れ、自分の内側を見つめ直し、上記のような「複合」の賑やかさ/猥雑さ から距離を置いた歌麿が、社会の隅で静かに生きるおきよさんに出会う意味を思う。→
hinemosunotako720.bsky.social
一方、聴覚障害のあるおきよさんは、本書における「身分的周縁」にあると思うけれど、同じ境遇の人々で共同組織を作るということはあったのだろうか。(視覚障害のある人々の当道座(女性は瞽女の組織)は、思い浮かぶけれど)

識字率について頭を巡らせると、聞こえない・喋れない、コミュニケーションを取りづらい、というのはとてつもなく大変なことであると思われる。
歌麿がおきよさんを紹介するときに、「親と死に別れて」と言っていたと思う。助け合う組織もなく、たった一人で生きてゆくことは本当に困難なことであったであろう。
hinemosunotako720.bsky.social
一方、聴覚障害のあるおきよさんは、本書における「身分的周縁」にあると思うけれど、同じ境遇の人々で共同組織を作るということはあったのだろうか。(視覚障害のある人々の当道座(女性は瞽女の組織)は、思い浮かぶけれど)

識字率について頭を巡らせると、聞こえない・喋れない、コミュニケーションを取りづらい、というのはとてつもなく大変なことであると思われる。
歌麿がおきよさんを紹介するときに、「親と死に別れて」と言っていたと思う。助け合う組織もなく、たった一人で生きてゆくことは本当に困難なことであったであろう。
hinemosunotako720.bsky.social
最近「おんな城主直虎」観たのですが、蔦重という人物、直虎における方久のように描かれたらよりわかりやすそう…とも思ったりした。

しかし、べらぼうの蔦重は、上記のような「複合」(活発で自由な経済活動)の社会が作る文化の大肯定者、として在るのだろう。

定信の説く道徳を、「重層」(近世以来の村や町)のガッシリした秩序に戻るべし、という面で捉えると、よりわかりやすい二項対立になるような気もする。
hinemosunotako720.bsky.social
→「重層」を担う、近世以来の「村や町」は、それこそ身分、とも言えそうなガッチリとしたものに思われる。

「複合」を担う、商業的な共同組織は、社会が安定し成熟したこと、重商主義的政策に展開してゆく流れのなかで活発化してゆく。本書の中には、豪商・三井越後屋が次々と「町」の中の屋敷を買い上げてゆく様が書かれているが、蔦重が日本橋の丸屋の屋敷と株を買って耕書堂を立ち上げる流れも、まさに同じことだ。
(三井が受けた嫌がらせについても、本書には言及されていた)
hinemosunotako720.bsky.social
→「重層」を担う、近世以来の「村や町」は、それこそ身分、とも言えそうなガッチリとしたものに思われる。

「複合」を担う、商業的な共同組織は、社会が安定し成熟したこと、重商主義的政策に展開してゆく流れのなかで活発化してゆく。本書の中には、豪商・三井越後屋が次々と「町」の中の屋敷を買い上げてゆく様が書かれているが、蔦重が日本橋の丸屋の屋敷と株を買って耕書堂を立ち上げる流れも、まさに同じことだ。
(三井が受けた嫌がらせについても、本書には言及されていた)
hinemosunotako720.bsky.social
#大河べらぼう
この「重層と複合」(村や町という縦、仲間といった共同組織の横)の意識をしっかりと持ちつつ観る必要があるのではないかなぁ、と本書を読んで改めて思う。

蔦重にとっては、吉原という「町」から始まり日本橋通油町という「町」、そして、地本問屋仲間という「共同組織」である。→
hinemosunotako720.bsky.social
読了。

「十八世紀の民間社会は、近世初頭以来の村や町を基礎としながらも、都市や在地社会に及ぶ多様な小経営の共同組織をともなって形成されてゆく。十八世紀の全過程は、こうした共同組織が、村や町を基礎に「重層と複合」の構造を作り上げていった時期として位置づけられることができ、これが「成熟」の基本的な内容をなすのである。」

しかしその中には「民間社会の中にあって、小経営とは異質な大規模な経営体とな」っていった「社会的権力」と

「小経営の基盤となる民衆的な所有から疎外され」「異質な所有対象をもつ状態に置かれた」「身分的周縁」の人々との問題が同時にある。(括弧内は「成熟する江戸」より引用)
hinemosunotako720.bsky.social
読了。

「十八世紀の民間社会は、近世初頭以来の村や町を基礎としながらも、都市や在地社会に及ぶ多様な小経営の共同組織をともなって形成されてゆく。十八世紀の全過程は、こうした共同組織が、村や町を基礎に「重層と複合」の構造を作り上げていった時期として位置づけられることができ、これが「成熟」の基本的な内容をなすのである。」

しかしその中には「民間社会の中にあって、小経営とは異質な大規模な経営体とな」っていった「社会的権力」と

「小経営の基盤となる民衆的な所有から疎外され」「異質な所有対象をもつ状態に置かれた」「身分的周縁」の人々との問題が同時にある。(括弧内は「成熟する江戸」より引用)
hinemosunotako720.bsky.social
「すべて真夜中の恋人たち」映画化かぁ。新刊で読んだので、詳細忘れるほどもう遠い昔だけど(大学生の頃…)、すごくきれいな小説だな。と、とても好きだった記憶がある。また読み返してみようかな。
hinemosunotako720.bsky.social
逆に、雨清水に子供ができなかったから男子を養子に出した、というのもあるのかな?ともふと思ったけど、三人も子供がいるしそれは違うか。
hinemosunotako720.bsky.social
ところで、トキは雨清水の家の子供(タエさんの子供)なのだろうか。「無類の親戚好き」の件から、松野の家に養子に出されたのかな、とふと思ったのだけどどうだろうか…(遠い親戚、の遠さもわからないし、よくわからないけど)
hinemosunotako720.bsky.social
苦しくて閉塞しているところにやって来る「笑い」
大それた意味のある何かに転化させる力ではなくて、すこし空気を抜くだけの力だと思う。ばけばけを覆うのはそういうもの。
hinemosunotako720.bsky.social
苦しくて閉塞しているところに、笑いが来る。ひと昔まえは、「家族のあたたかさ」的な人情の美談として収斂されていたものなのかもしれない。
hinemosunotako720.bsky.social
すこし回り道してしまったけど、ばけばけの「笑い」って、生きてゆくために松野家の隣にあったもの、であるような気がする。
なんだか暗いことをケラケラ笑って話すのを、トキが強いとか立派だとかに収斂できないし、あの暮らしで笑い合っている松野家は幸せなわけでは決してない。収斂できないものが、「笑い」にジワリと表出しているように思う。
hinemosunotako720.bsky.social
「笑い」って、何なのだろうなぁ。ということを改めて考えている最近。

それは、深刻さ/苦難/絶望/恐ろしさ、ネガティブなものが極まった、その隣にふとあったりする。
そして、それらが裏返って笑いになる、というような、単純な構造のものでもなくて。
改めて考えているのは、それはそんなに単純な構造のものではないな、と直感的に感じるようになったから…というか、構造の外にあるようなものなのだろうな、と思うから、だろう。

#ばけばけ の「笑い」にも、そういうものを感じる。→
hinemosunotako720.bsky.social
「ひとりで幸せになる」も、「髷を落とす」も、自分にとっての何らかを諦めた先にしか、家族の幸せの道は無いというのは、当たり前につらいよなぁ…と思っていたところに、お相手の笑いがあって、救いだなぁと感じた。この緩急よ。

#ばけばけ
hinemosunotako720.bsky.social
「松風」という謡曲は、世阿弥作の、須磨の海女と在原業平の話なのですね。名前の縁と、怨念の深さに同調して、清光院の松風も立ち現れるということか。

-

このリンク先の記事での発見は、こういった「特定の謡を吟ずると障りのある伝承の地」の他の例として、普門院前の「小豆磨ぎ橋」で「牡若」をうたうと不幸になる、というのがあげられていたこと。(小泉八雲の作品にある、と)
昨日の小豆あらいの話、ここに繋がるのかー。と。
hinemosunotako720.bsky.social
#ばけばけ

「松風」の怪談を調べてみた。まさに、松江大橋のあちらとこちら、を舞台にした話なのだな。
(松風は、和多見町の芸者、とのことなので、ドラマの天国町のエリアに住んでいた、ということだと思う)

恋仲になる相撲取りは橋の向こう側(北)の住人。横恋慕する侍。松風が逃げてきた清光院もまた橋の北側にある。

japanmystery.com/simane/seiko...
清光院 - 伝承怪談奇談・歴史秘話の現場を紹介|日本伝承大鑑
【せいこういん】 創建は天文11年(1542年)。高橋式部大輔清光(詳細不明。石見から安芸北部にかけて勢力を持
japanmystery.com
hinemosunotako720.bsky.social
近頃、もはやSNSは大嫌いなのだけど(そう思っている癖にやめられない自分自身を含め)、中秋の名月のときのTLだけは大好きだ。デジタルの文字の過ぎゆくこの中に、名月が表出するような、そんな気持ちがする。今日はXを見ていて、久しぶりにそんな気持ちになった。
hinemosunotako720.bsky.social
明治の新しい「家」。
雨清水のタエさんもまた、そこから取り残されている人なのではないか。少なくとも外で、「家長」を「傳」と呼び捨てにできる時代なのかな、というのは思う。
開化、欧米化、良妻賢母、の圧が、タエさんの周りには渦巻いているであろうし、周りの圧力は、着物で三味線を弾く社長婦人を、「封建的」と見做しているのではないか。
hinemosunotako720.bsky.social
そういえばもう10月なのだった。出雲は神在月。この物語がこの時期に始まるのは、必然なのだなぁ。(といまさら思った。)

#ばけばけ
hinemosunotako720.bsky.social
→こういうことも考えてゆくと、「士族のあずきあらい」という笑いに表出するものの複雑さが凄いな。とも思う。

有名無実化した「士族」と、それを否定はしない他の家族たちと、それぞれのしんどさと。それぞれがそれぞれであることを、摩擦に思い苦慮する余裕がないから、この家族は笑い合うのだ。
「家」をひとつに統率するのは、家長の権威ではない、実際的な金の問題だ、というのは、家父長制への物凄い皮肉にも見えてくるなぁと。(最後の一文はちょっと書き過ぎかもしれないけども)
hinemosunotako720.bsky.social
すこし回り道してしまったけど、ばけばけの「笑い」って、生きてゆくために松野家の隣にあったもの、であるような気がする。
なんだか暗いことをケラケラ笑って話すのを、トキが強いとか立派だとかに収斂できないし、あの暮らしで笑い合っている松野家は幸せなわけでは決してない。収斂できないものが、「笑い」にジワリと表出しているように思う。
hinemosunotako720.bsky.social
「笑い」って、何なのだろうなぁ。ということを改めて考えている最近。

それは、深刻さ/苦難/絶望/恐ろしさ、ネガティブなものが極まった、その隣にふとあったりする。
そして、それらが裏返って笑いになる、というような、単純な構造のものでもなくて。
改めて考えているのは、それはそんなに単純な構造のものではないな、と直感的に感じるようになったから…というか、構造の外にあるようなものなのだろうな、と思うから、だろう。

#ばけばけ の「笑い」にも、そういうものを感じる。→
hinemosunotako720.bsky.social
ばけばけ。
この時代に、松野「家」の「家長」はその権威を空洞化してしまっているのが興味深い。

司之助の、父という役割からの外れ方もそうだけど
勘右衛門の語る「武士」「士族」も、名存実亡化しているというか。

生きてゆくために必死であるという状況が、(維新後の民法的「家」よりも、松野の家にとっては)武士的な「家」の伝統をも崩してゆく。というようにも見える。

…松野家のあの様子は、憲法が制定する明治の新しい「家」を、(言わば)インストールする余裕が無いがゆえ、と考えると個人的には色々と納得がゆく。古くなり動かなくなった「武士の家」のまま、(言わば)アップデートされていないというか。
hinemosunotako720.bsky.social
「橋をかけようとする」コミュニケーションをしたいなぁ。現実は、どこかで諦めて妥協してしまうこと多々。時間がないな、とか、相手の興味が尽きてるかな、とか、なんだかそんなことで。私は、やり取りに結論をつけたがっちゃうところがある気がする、と自分を振り返ったりする。