念願の6基目の尊氏供養塔に手を合わせることができて感無量!これまで訪れた尊氏供養塔のなかで、辿り着くまでにもっとも難易度が高いのでは…!?事前に地方自治体の担当部署に由来を確認してみたけど、よくわからないとのことで残念…
尊氏の木像も拝みたかったけど、非公開とのことで拝めずじまい。数十年に一度くらいの頻度で公開するかも…?とのこと。長生きしなきゃ…
念願の6基目の尊氏供養塔に手を合わせることができて感無量!これまで訪れた尊氏供養塔のなかで、辿り着くまでにもっとも難易度が高いのでは…!?事前に地方自治体の担当部署に由来を確認してみたけど、よくわからないとのことで残念…
尊氏の木像も拝みたかったけど、非公開とのことで拝めずじまい。数十年に一度くらいの頻度で公開するかも…?とのこと。長生きしなきゃ…
◯九州に敗走した時の話
◯tkujの例の夢のネタ
◯CP要素ごくごく薄め
◯尊直度★★☆☆☆
◯兄弟愛度★★★☆☆
◯無自覚の極悪度★☆☆☆☆
◯九州に敗走した時の話
◯tkujの例の夢のネタ
◯CP要素ごくごく薄め
◯尊直度★★☆☆☆
◯兄弟愛度★★★☆☆
◯無自覚の極悪度★☆☆☆☆
【館林市・大泉町・太田市】
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【桐生市・吉岡町・渋川市】
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【足利市】
Ⅰ足利市中部
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Ⅱ足利市北部~東部
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Ⅲ足利市西部
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満足度★★★☆☆
傾斜度★☆☆☆☆
混雑度★☆☆☆☆
楠木正成の首塚の跡地に建てられたという逸話がある。地元の口伝によると、戦死した正成の首級は偽物とすり替えられ、密かに首桶に塩漬けにされ、巡礼姿となった五人の家臣によって南朝方の北畠顕信(親房次男)のいる奥州へと運ばれることになった。一年以上を経て当時「羽附村」(はねつくむら)と呼ばれていたこの地まで辿り着いたさい、五人の夢枕に正成が立ち、首をここへ埋めてくれと言った。だが翌朝、家臣たちが当初の予定どおり奥州へ向かうため首桶を背負おうとしたところ、昨日までとは打って変わって、桶は根が生えたように重く微動だにしなかった
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Ⅱ足利市北部~東部
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Ⅲ足利市西部
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①長松寺
満足度★★★★☆
傾斜度★★☆☆☆
混雑度★★☆☆☆
4代足利泰氏の供養塔と伝えられる宝篋印塔がある。「孝子敬白」「観応2年(1351)11月21日」の銘が見えるが、文永7年(1270)5月31日が命日と伝えられる泰氏とは全く異なる。泰氏の父・3代義氏の命日が建長6年(1255)11月21日であるが、なんらかの関係があるのだろうか。また、孝子とは親孝行の子供の意であり、この宝篋印塔は子が親の追善供養のために建てたものと考えられる。ちなみに「観応2年(1351)11月21日」は、直義を討つため、尊氏が京を出立して東進しているころである。被供養者はいったい誰なのだろうか
①長松寺
満足度★★★★☆
傾斜度★★☆☆☆
混雑度★★☆☆☆
4代足利泰氏の供養塔と伝えられる宝篋印塔がある。「孝子敬白」「観応2年(1351)11月21日」の銘が見えるが、文永7年(1270)5月31日が命日と伝えられる泰氏とは全く異なる。泰氏の父・3代義氏の命日が建長6年(1255)11月21日であるが、なんらかの関係があるのだろうか。また、孝子とは親孝行の子供の意であり、この宝篋印塔は子が親の追善供養のために建てたものと考えられる。ちなみに「観応2年(1351)11月21日」は、直義を討つため、尊氏が京を出立して東進しているころである。被供養者はいったい誰なのだろうか
①金蔵院
満足度★★★★☆
傾斜度★☆☆☆☆
混雑度★★☆☆☆
足利尊氏の重臣であった南宗継の孫である、宗氏の五輪塔がある。同寺は宗継の居館の跡という。南氏は高氏の一族であり、宗継は高師直の又従兄弟にあたる。墓地の拡大によりほとんど消滅してしまったが、境内西側にわずかに土塁の痕跡がある
多々良浜の戦いのさい、直義は自害を覚悟する尊氏を「兵力差はあれど自軍の者たちはずっとつき従ってきたのだから『一人当千ノ勇士』である」と説得した。このつき従ってきた者のなかに宗継の名がみえる。Ⅱ②清源寺は宗継の開基で、宗継含む南氏墓所も同寺にある。また、Ⅱ③光得寺にも宗継の五輪塔がある
①金蔵院
満足度★★★★☆
傾斜度★☆☆☆☆
混雑度★★☆☆☆
足利尊氏の重臣であった南宗継の孫である、宗氏の五輪塔がある。同寺は宗継の居館の跡という。南氏は高氏の一族であり、宗継は高師直の又従兄弟にあたる。墓地の拡大によりほとんど消滅してしまったが、境内西側にわずかに土塁の痕跡がある
多々良浜の戦いのさい、直義は自害を覚悟する尊氏を「兵力差はあれど自軍の者たちはずっとつき従ってきたのだから『一人当千ノ勇士』である」と説得した。このつき従ってきた者のなかに宗継の名がみえる。Ⅱ②清源寺は宗継の開基で、宗継含む南氏墓所も同寺にある。また、Ⅱ③光得寺にも宗継の五輪塔がある
①勧農城跡・乳房地蔵尊
満足度★★★☆☆
傾斜度★★★☆☆
混雑度★☆☆☆☆
鎌倉時代、足利氏の当主は鎌倉に在住しているのが常態で、足利荘現地には管理事務所としての公文所を置き、代官を通じた支配をしていたと考えられている。その公文所の有力候補地が、勧農城跡の附近である。室町幕府以後は、幕府御料所となった足利荘の現地政所がこの勧農郷に置かれた。15世紀中葉に、関東管領山内上杉氏の家臣・長尾景人が入部するまで、幕府政所から代官が派遣され、支配にあたっていた
①勧農城跡・乳房地蔵尊
満足度★★★☆☆
傾斜度★★★☆☆
混雑度★☆☆☆☆
鎌倉時代、足利氏の当主は鎌倉に在住しているのが常態で、足利荘現地には管理事務所としての公文所を置き、代官を通じた支配をしていたと考えられている。その公文所の有力候補地が、勧農城跡の附近である。室町幕府以後は、幕府御料所となった足利荘の現地政所がこの勧農郷に置かれた。15世紀中葉に、関東管領山内上杉氏の家臣・長尾景人が入部するまで、幕府政所から代官が派遣され、支配にあたっていた