青沼ペトロ
@petroaonuma.bsky.social
740 followers 1.5K following 2K posts
[Dodidn*]Dry Shack(乾いた家)主宰。Writer & Novelist。文藝ブログ[Petro Notes]執筆。1972年生。現代思想や社会学、セクシュアリティ教育に関心あり。プロの小説家志望。ウェブ小説サイト[架空の演劇の物語]、ウェブサイト[カゼヒカル やましい大人の性のテクスト]公開中。 https://dodidn.com
Posts Media Videos Starter Packs
☞私こと青沼ペトロが執筆している文藝ブログ[Petro Notes]。読み応えたっぷりの面白いエッセイを満載。
▼サブカルや文学、映画や音楽、それからその他ちょっとここではいえないような内容も…。
petronotes.dodidn.com
#PetroNotes #ブログ
Petro Notes
青沼ペトロの私的な、文学的な、サブカルと芸術に関する記録ノート。
petronotes.dodidn.com
おはようございます。日曜日の朝。今朝は曇っています。小学生の頃、まだビデオというものがほとんど普及していない時代、学校の理科の授業でスライドを見たり、8mmフィルムを映写したりして、その真っ暗にしておいた教室で明るい光がスクリーンにだけ照らし出されている光景を懐かしく思います。映画というものがなぜヒトを惹きつけたり、惑わしたりするのか。闇の中の光に鋭敏になるのは、動物的な本能なのか。秋になって日が落ちるのが早くなり、ヒトの生活もその自然の歩調に合わせていく。闇は闇。光は光。創作においても、闇の中でどこに光を当てていくのか、どれを浮かび上がらせるか。そういう部分で共通点があるような気がします。
おはようございます。土曜日の朝。今朝は晴れています。ある若い知り合いのSNSをたまに眺めたりすると、例えば小洒落たパン屋さんの、焼きたての可愛らしいパンをアップしていたり、営業周りの帰りに立ち寄ったコーヒーショップのコーヒーをアップして、実に秀麗に、その生活の豊かさを表象していたりして感心します。私の住む町が年々へべれけになってくると、もうその対比は凄まじいほど温度差を感じて、豊かさの基準はそこにないのだということを痛感します。豊かで幸せで、といった部分をどう表現していくか、自分なりの方法と手段で表していきたい。その一つは、映画のスクリーンという幻影に見出されるものかもしれません。
おはようございます。金曜日の朝。今朝は晴れています。昨日は処分を免れて取り残されていたアナログシンセ、ArturiaのMatrixBruteを、業者に売却すべく準備を始めました。2階に置いてあったのを1階へ降ろすのに、どれだけ重たかったか。大きさは90×45cmくらいで、重さは20kg。それでもまあ、なんとか降ろして、梱包の準備。大きすぎるので、段ボールをそれなりに工夫しなければなりません。これは次回に先延ばし。では行ってらっしゃい。
アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』上下巻(中野圭二訳/新潮文庫)と、オースターの『ブルックリン・フォリーズ』(柴田元幸訳/新潮文庫)を買う。
〈とにかく落ち着いてお茶でも飲みながら話し合いましょう〉を実践できる場が、我が片田舎の町にはどこにも無いのだ、ということに愕然とする。
脇目も振らずに、一心不乱に、みたいなので“30周年記念公演”をやるコント集団を私は存じ上げていますが、その内実はきわめて保守的で、内向的で、いちばんの問題は人の褌で相撲をとり、いっさい昔から自分たちだけでゼロから立ち上げたことがない、ということなんですね。新しいことが、そこからなんにも生まれてこない、という体系に和んでしまった人たち。
先日読んだ小説『蒲団』の作者・田山花袋はこれを1907年(明治40年)、雑誌『新小説』に発表。アンダーソンが『ワインズバーグ、オハイオ』を発表したのは、1919年。田山花袋とアンダーソンは5歳違いでアンダーソンのほうが若いが、ほぼ同時代の作家。人々の不安、懊悩、恥辱といったものが赤裸々に語られ、それがこの時代の文学の潮流でもあったわけだ。
おはようございます。木曜日の朝。今朝は曇り。先日は、ブログで映画『ロボットドリームズ』について書きました。主人公の犬が、第二の友人と出会えたのは、自分で積極的に行動したから。そばに寄る、挨拶する、話しかける、という「伝える」ための技量を具えていたから。友人とは、所有することではなくて、その関係性を指すことばだから、所有欲で人間関係を形成しようと思っちゃう人は、うまくいきっこありません。やっぱり子どものうちから、とは思います。子どもはどんどん遊んで、どんどん何かを「伝える」ヒトであってほしい。難しいことではなく、簡単なことだから。難しく考えないで。考えるより、行動ですね。では行ってらっしゃい。
ジェイムズ・ジョイスもいいんだけど、こっちから読むことにしました。シャーウッド・アンダーソン著『ワインズバーグ、オハイオ』(上岡伸雄訳/新潮文庫)。
おはようございます。水曜日の朝。今朝は曇っています。昨日、もと“音楽制作ルーム”だったのをバックスクリーンのブースに模様替えした話を書きました。作業中に気づいたのですが、壁に1機、大きな物が置いてあるぞと。ああ、忘れていた。図体のでかいアナログシンセを、廃棄せずにそのまま壁際に立てかけていたのを。それは、ArturiaのMatrixBrute。ああ、これは買い取ってもらえるね。もう置き場所もないし、使う機会は絶対にない。たぶんこれ、梱包して搬出するのに相当手こずりそうです。では行ってらっしゃい。
さすがに今、8年ぶりにジョイスの『ユリシーズ』を読み返そうとは思っていないが、『若い藝術家の肖像』は読み返してもいいかなと、心が揺れ動いている。
#ジェイムズジョイス #若い藝術家の肖像
取り残されていたレコーディング用のケーブルを全て片付け処分するのにすごい時間がかかりました。が、バックスクリーンのブースを2つこしらえることに成功。ちなみに、音声を録るブースも設けたので、ゆくゆくはこの部屋でポッドキャスティングもできると思います。
十数年間、自宅の一部屋を“音楽制作ルーム”としてきて、それをこの1か月くらいで関連機材を全て処分。で、今度はその部屋を、小物などを撮影したりするルームに模様替えするという企て。簡易的なバックスクリーンや照明機材を搬入して整えたい。
おはようございます。火曜日の朝。今朝は快晴。先日、「推しや夢中になれるものが見つからない」人への朝井リョウさんのアドバイスのポストを投稿しました。自分の場合、子どもの頃から夢中になれるものばかりで、どれを選んでいいのかわからない、という逆の悩み事を抱えていたので、なかなかその心境に寄り添うのは難しいなと感じました。もう幼年時代に、家の中に本がいっぱいあったんですよね。小学生になると、書店に通うようにもなり。おのずと、本の中から興味のある対象に出合えたわけです。だから、本を開いたり眺めたりするというのは、ネット上をウロウロするのとはぜんぜん違う楽しみがあると。あとは外で遊ぶこと。これも楽しい。
もしそれが残っていて観ることができたら、不思議な感覚になると思うんですね。人は自然に歳を取っていくけれど、映像の中の子どもの「私」は、永遠に子どものまま。写真を見るのとは違う感覚になるでしょうね。
おはようございます。月曜日の朝。今朝は曇っています。私が小学6年生だった80年代なかば、運動会のダンスの練習のために、体育の先生がホームビデオでそれを撮影してくれたことがありました。まだビデオというものがさほど浸透していなかった頃の話。パナソニックの「マックロード」という機種。大きなカメラを抱え、肩にビデオテープレコーダーを背負って、長いケーブルで躓きそうになりながら、ダンスを撮ってくれたのです。教室に帰ってきて、それを教室のテレビにつなげて見るまでが一苦労。テレビの裏側をいじってケーブルをつなげ…。いまではスマホひとつで完結するんですけどね。あの時のビデオを、もう一度観てみたいなあ。
友達とつるんで、しばし「抜け出す」とかね。
おはようございます。日曜日の朝。今朝は曇り。この時期、昔は学校の運動会が盛んでした。母校の小学校では、当時それを“秋季大運動会”と命名していたくらいに。運動会にしろ修学旅行にしろ、大人からすれば、〈楽しいイベントだろ〉と勝手に解釈する向きがありますが、とうの子どもたちからすれば、けっこうストレスの溜まるイベントでもあります。そう受け取ってくれる大人がほとんどいないのが切ない。主催者はあくまで学校。子どもたちが自由に楽しめるものではなく、大人が作ったプログラムに則って行動しているだけ。楽しいわけがない。だからといって、不要というわけではない。自由ではないものにこそ、何かを楽しむカオスがあると…。
おはようございます。土曜日の朝。今朝は曇り。昨日は「岩波文庫」に傾注した云々を書きました。と同時に20代だったその頃、ウォーホルのようなアメリカのポップアートの世界、それからアイルランドのケルトにも関心があったはずなのだけれど、うまくジャンプアップできなかった。本当は、その鍵を教えてくれた高校の恩師の〈サリンジャーを読めよ〉という暗示を信じていたら、そうなっていたのに。あまのじゃくだった私は、それに逆らってしまったわけで。ウォーホルを手に取ったり、ジョイスの『ユリシーズ』を読むなんて、その頃どうすればいいのかわからなかった。全てを回り道してきたような私の人生。今は笑って振り返ることができます。