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sabayasi.bsky.social
@sabayasi.bsky.social
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思索っぽいことを書こうという意思がある
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である気もする。加えて言うなら、何も考えていない素の状態でも何かを考えて、思考が行き詰まらないようにした方がいいと、そういうことかもしれない。すんなり模範解答へと辿り着くことなど、少なくとも私には出来ないのだから、思考をやんわりし続け、程々に切り替えていくことで、散漫さへ漸近しながらでも現実と向き合う方がいい、と今の私には思えるということだろうか。仮定、飛躍、別解釈、再検討……私の話法には余白が多すぎて、いつも確たるところへ煮詰まって行かないのが歯痒いが、これはこれで複数の本を乱読しているのが常態の人間らしい話法とも取れる。或いは、この奇妙な話し方でこそ語れる奇妙な問題意識がないとも限らない。
らいのものだ。この調和とは不調和も含み込んだ形である調和だ。生が死を含み込んだ形であるように。『城』にあった説明過剰でありながら綿密に正確に描写しようとする力は『単純な生活』にはない。ある程度のところで分からないままに踏み止まって、先へ進む。少し先で分からなかったことが解けることがあっても、その頃にはまた分からないことが山積みになっているから、別段個々が解けることに固執し過ぎないことが肝要なのかもしれない。解きつつ踏み止まりつつ、混乱しながらも思考し続け、歩いて行くことを自分の生活でも、もっとやっていきたい。ただこれは意気込むものでもなく、自然体の状態でどれだけ心の構えが出来ているかのような話
言えば短篇の名手で、しばしばユーモアとペーソスというありきたりな言葉で評されるような、と言っても決してありきたりではない小説家で、『単純な生活』は彼の長篇小説だ。長さが規定する物はあまりに大きい。長さというよりも入れ物の形と大きさが、と言った方が適当なのかもしれないが、何にせよ短篇で光っていた巧さの方にだけ向かっていかないのが良い。巧さは巧さで好きだが、そこから伸びて行った場合の阿部昭の文章も好きだ。それこそ纏まりがないと言えそうなものだ。纏まりがないからと言っても、その場凌ぎの急展開や過激な描写によって調和が乱れているのではなく、緩慢な日々の中にすべてが吸い込まれていく、むしろ調和し過ぎなく
志の小説群ではないのだろうか、と思いなしたままに彼の作品を『城』の隣に布置してみる。『プレーンソング』にせよ『季節の記憶』にせよ、或いは私のお気に入りの『カフカ式練習帳』にせよ、『城』との雰囲気の違いに隔たりを感じずにはいられないが、それでもしっくりくるにはくる。無論こんなことは誰だって言っているが、だからと言って口を噤む必要はないはずだ。殊更新しいことのように思って発言していたら痛々しいかもしれないが、そういうわけでもない。本と本の間を右往左往するようだが、この『城』と保坂和志の間に『単純な生活』を置くと、個人的には見通しが良くなるなと、『単純な生活』を読み出してから真っ先に思った。阿部昭と
買った阿部昭の『単純な生活』もここに加えて良さそうだ。これらは別々の作品ではあるが、ぼんやりと大きく括ってしまうことが出来そうな作品群である気もする。何てことのない時間の連続に意味を見出していくのではなくて、すべての時間乃至思考に意味が充満していて、かつ半ば飽和してさえいる、というのが『城』だと思う。『城』を読んでいると、精緻な細部の一つ一つが全体を凝縮しているように見え、細部しかないとも、全体しかないとも、言えそうに思えてくる。作中で繰り広げられるめくるめく現実の記述が不思議と、そして自ずと虚構じみてきてしまうことで、私は翻って現実の世界に目を向ける。一つそこから出発しようとしたのが、保坂和
 纏まりのない文章ばかり書いているというのか、纏まりのある文章を書こうとしてもすぐにその均衡は崩れてしまって、纏まりがなくなるというのか……思えば日々の生活にも纏まりがないような気がする。例え、それまでの日々に纏まりを持たせるような結節点とも呼ぶべき日が数えるほどにせよあったとして、その後に続く多くの日は砕け、倒れ、崩れ落ち、弛み切っている。その連続を雑巾の如く絞って、僅かでも纏まりのある物を作るというよりも、その纏まりのなさにこそ魅力を宿らせていく方に今の私は興味があるのではないか。そう思うようになったキッカケの一つには、カフカの『城』があり、また他方には保坂和志の小説群がある。それに、今日
ろうか、それとも前よりも分からないところが増えているだろうか。
 何れにせよ藤本和子の精神的なコアには、広く、異なる者の声に耳を傾けてること、或いは過酷な現実の欠片を読み込んで行くことがあるようだと、今のところの私は考えている。興味深い著述家だ。
 ちなみに、水牛の本棚というサイトには、『砂漠の教室』というイスラエル滞在記のような文章が確か全文載せてあった筈なので、是非読んでほしい。彼女が編纂に携わった「女たちの同時代 北米黒人女性作家選」への短文も、水牛の本棚にある。
 彼女の単著は殆ど読み終えつつあるので、ゆくゆくは翻訳関係の彼女の仕事や、他の著述家が論じている彼女について読んで行きたい。
ブローティガンは幼少期、日本人を憎んでいたらしい。戦争によって、父親に傷を負わせた日本人たちは、憎まれて当然の存在であったようだ。ただ、彼は作家になってから東京へ来ているし、その頃の体験は本にもなっている。藤本和子との仲は良かったようだが、ブローティガンが一体日本についてどのように考えるようになったかは知らない。ただ、異なる者たちは異なる者たちでありながら、悪魔的でも絶対的でもあり得ないことに思い至ったと思う。
 こうしてブラーティガンを現実への完結しない問いの担い手と考えてみると、『アメリカの鱒釣り』か『芝生の復讐』をもう一度読み直してみてもいい気がしてくる。前よりは分かるところが増えてるだ
人工的に現実を完結させない、と思う。むしろそれは、現実を逆探知する回路なのだ。そして探知された現実は、わたしたちの思想を完結させるものとしてあるよりは、完結しがちなわたしたちの洞察を揺さぶるものとしてある。人工的に現実に終止符を打てると予定する想像力を敵にまわして、ブローティガンはアメリカを描いてみようとしたのだろう。かれの心を惹きつけたのは、思想ではなく現実だった。現実に近づけば近づくほど、かれの語り口は幻想的になるようだ。
(藤本和子『ペルーからきたわたしの娘』p.173〜174)

 いい言葉だと思う。
 更に『リチャード・ブローティガン』を読んでからブローティガンと日本の関係を考えた。
によって接続していく節があった。「ウィラード盲目病棟」は体験記系というか、著者がウィラード盲目病棟を訪れて言葉を話さないある日本人患者に声を取り戻させようとするもそれが叶わず日本人患者が死んでしまう話などが入っている。彼女はただの翻訳家ではない。異なる者への向き合い方において類稀なる丁寧さと真率さをを持った翻訳家なのだ。そして、「鯨が生んだ鱒」は『白鯨』と『アメリカの鱒釣り』の比較などをしている章で、「ウィラード盲目病棟」の後に配置されている。この本の流れの中で、私はやっと藤本和子のコアとも呼べそうな部分に触れた気がした。目に入った文章はこうだ。

 ブローティガンのことばは幻想的だ。幻想は、
 ブローティガンを読もうとして挫折した経験があるだけで、一度もまともに読めたことがない私としては、何故あの瀟洒なような荒んだような、そしてそれ以上に理解不能な小説家の翻訳などをやっているのだろうと思わずにはいられなかった。無論ブローティガンも藤本和子も馬鹿にする気はなかったから、きっとブローティガンも凄いのだろうとなんとなく納得して済ませていた。
 文庫本でこそないが、新装版として『ペルーからきた私の娘』が出版されたとき、少しこの謎の解けた気がした。『ペルーからきた私の娘』は少し長めの表題エッセイの他に「ウィラード盲目病棟」と「鯨が生んだ鱒」という幾つかのエッセイを含んだ章があり、この二つの章
の仕事の凄まじさに打ちひしがれた私は『塩を食う女たち』という本の著者の他の著作ももっと積極的に読もうという気になった。『イリノイ遠景近景』を読んで素晴らしい思考力のエッセイストだとは思っていたが、ここに至って真価の一端を垣間見た気がした。著者は避雷針さながらに女たちの声を吸収していたが、単に棒立ちをしているわけではないからこの比喩は不適当かもしれない。単に同調するのでなく、それぞれの場合によって、上手く相手に言葉を喚起させる技術には目を瞠るものがあった。封印された記憶や体験と向き合って行くその姿勢からは、著者に太い芯のよう思想に貫かれている印象を受けた。芯と芯が共振し合っているかのような……。
されるようになり、比較的入手しやすくなっているはずだ。私もその恩恵に与り、先日『リチャード・ブローティガン』の文庫本を購った。
 彼女にはブローティガンの翻訳家としての側面と、黒人女性への聞き書きをした『塩を食う女たち』や『ブルースだってただの唄』といった本の著者としての側面がある。このことは私の中で長らく疑問だった。どうしてブローティガンというオーソドックスとは言えない作風の小説家の翻訳家でありながら、黒人女性への聞き書きという仕事の担い手でもあるのか。別段、矛盾しないし、それで不都合もない。ただ、一体どういった精神のコアがあって、その二つの仕事を彼女にさせるのかは不思議だった。
 聞き書き
 大した理由はないが、このアカウントは既に完結したつもりになっていて、そっと二週間ほど何の投稿もしていなかったが、何か纏まったことを言おうとするのにツイッターの140字では無理がある。それに放言するにしてもあまり良い環境とは言えない。それで、こうしてブルスカに舞い戻ってまでして書こうと思っているのは藤本和子の文章についてだ。無論、ブルスカに書く程度の散漫な物思いにしかならないだろうけれど、いつか纏まった物を書くためのメモとして書いておく。
 彼女の文章に初めて触れた『イリノイ遠景近景』を読んでからというもの、私は度々友人らにこの著述家の魅力を伝えようとしてきた。近年になって活発に復刊や文庫化が
 ツイッターアカウントを復活させた。今日ツイートしないことは出来てもずっとツイートしないことは出来ない。ツイッターをしていない人間に対する不信感もあるので、それがある内はツイッターをやめられない。ツイッターをまともに出来てないやつでも、ツイッターをやらないよりはマシだ。
 最近はまともにコンテンツの話をせずに生活の話ばかりしていて自分でもつまらない。鬱がどうの、愛がどうの。これもまたnoteに纏めるけれど、何の意味もないのは明白だ。消極的に生きたり書いたりしている。
 魂の根底の部分がずっと疲れていて元気がなく冷えている。魂の根底の部分をどうこうするのは大変なのでいつも見過ごし、絡め取られる。
 先日の投稿に見えない返信がついていて気味が悪かったので返信を不可にした。このSNSを、そもそも人とコミュニケーションを取るためにやってない。人とコミュニケーションを取るためにやっていたツイッターは先日アカウントを消した。アカウントを消しても現実はあるし、ツイッターで話すことがなくなっても、現実では何か言葉を発している。嬉しくないことだ。一生何も話したくないと決め込んでも、咄嗟の返事はしてしまうし、それで気が緩んで結局引きこもりにも成れない。現実という壁があってそれにぶつかって壊れる虚構という卵があるとしたら私は卵の側に立ちたい。しかし、どこかで信念が揺らぐ。それでも元の場所に戻るのが大事だ。
 高校の友達との間で私は厄介オタクとか捻くれオタクということになっていて、別にそこではそれでいいんだが、オタク以前に厄介でも捻くれでもない人間なんて……という思いも、当然ある。別に厄介だったり捻くれだったりしていればいいという話でもないが、個人的には空虚でないだけマシだとは思う。
 これは色んな色がある地獄がいいか、一切色がない天国がいいかみたいな問いにもすり替えられそうだし、或いは都会の鼠か田舎の鼠か、ということになるのかもしれない。当然私は都会の鼠がいい。要は個々の考え方次第なんだが、それでも一考の余地があるのに、してない人が多過ぎないか?とは思う。言葉の誤用なんかよりもよっぽど気に障る。
 アニメ映画の「チェンソーマン レゼ篇」を見たのは昨日のことで、寝て起きると激烈な昂りや衝撃は無くなっていた。それでも人生は続く。私の生きている風景にはレゼも、かつて人生で会った女の人も、当然いない。それでも人生は続く。
 起きてから1/4になったチーズパンとジャガイモパンを食べた。ベーグルをコーヒーで流し込み、食べた。仮眠を取り、昼食を摂った。書店に行き、『中国行きのスロウ・ボート』を買ってからサブウェイでパーティトレイのAを頼んだ。「中国行きのスロウ・ボート」を読み終えると、丁度出来上がったのでそれを持ち帰った。小雨が降っていた。ずっと降っているようだった。
 早く小説を書かねばならない。
きみを襲うものすべて ぼくが
この腕で切り裂くよ
頭は悪いから よくわからないんだ
ただきみの そばに居る
それだけで ぼくは十分だ

きみは唄い出す 不思議な旋律
それが何もかも奪い去ってく

大丈夫なんとかしてみせる
きみは悪くない すべては人の理(ことわり)だ

永遠にきみを守ってみせる
誓ったんだ この胸に
いつから ぼくらだけになったんだっけ
もういいか そんなこと
ふたりには穏やかな日を

すべては光に消えていった
ぼくという存在も
ただ手を伸ばしたきみの体を抱(だ)く
最後に さあ笑ってよ
世界が終わってしまっても

以上、歌詞。
人生ってこれすぎる。これすぎるだろ、普通に。
 普通に泣いてしまって笑った。人生ってこれすぎる。以下、「rewrite」のOP2の歌詞。

熊木杏里「End of the World」

少しずつ波紋は離れていった
いつしか ひとつも重ならなくなった

それでもいい きみと居たら

こんな気持ち いつから抱(いだ)いた
ただひとりの少年の恋物語だ

永遠にきみを守ってみせる
この胸に 刻み込む
いつから ふたりきりになったんだっけ
もういいか そんなこと
笑ってよ 終わるその日には

いつか水滴がいくつも落ちてた
波紋が何重も重なり合ってた

暖かさを 今 覚える

こんな穏やかに過ごせたなら
でも そんな時間は一瞬だってわかってる
 アー。アー。アーーー。イクー。アーイクー。ヤンシュヴァイクマイエル。シュヴァルヴァルト。アバオアクー。アイク。天空。滑空。メタナイト。アー。アリャリャリャリャリャー。
 アー。イクーーーーーーーーーーーー。
 イク。逝く。
 行くー。今行く。行く──。
 幾原邦彦の複数ある名義の中だとイクニゴマモナカが一番好きなんだけど。「ユリ熊嵐」が一番好きだからかも。アニメとかは面白いんだよな。
 アニメとかの中にいる。光の中に。「光の中のアリス」のことヒカリスって略すのなんかシャバい気がするけど一番妥当な気もするのなんなんだ。見なきゃいけないものがいっぱいあるのに全然生きる意味がなくて凄すぎるんだが。
 俺って普通に鬱すぎて申し訳ないけど、愛されないの辛くて死にたいんだけど。死にたい。本当に死にたい。シンプルに死にたい。深刻に死にたい。深刻に真率に辛辣に簡潔に死にたいんだけど。死にたいんだけど。普通に。普通に死にたい。早く死にたい。一刻も早く死にたい。早く死にたい。素早く死にたい。遅くて死ねるならいい。遅いよりは早い方がいいが死ねるなら生きているよりはいい。生きているのに遅いも早いもない。存在しない。全く存在しない。ありえない。そもそもがない。意味がない。意味がいない。意味となるものがない。光がない。光だけがない。光のあるものが死しかない。生の中に光がない。死が生の部分であるにしても。ない。
がなく終わっている中で意味がなくて世界の意味がなくて消えた方がいい。消えた方にチンポ。チンポアナル。アナリティクス。アナルポリティクス。肛門政治学。肛門詩学。肛門修辞学。アナル眼鏡のジェノサイド。ジェノサイドドーン。ドーン死んでいく。消える。穴の中で死んでいくアナル。意味がない。アナル全くない。存在しない。存在したことがない。あやかったことがない。あり得たことがない。生まれたことがない。いない。マンコがチンポにいない。チンポがマンコの中になく意味がない。意味がない中にアナルかつチンポかつ世界かつエロ存在しない。一個もない。消えた方がいい。消える前からいない。いたことがない。マンコないマンゴー。