一念が大事。
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一念が大事。
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🇷🇴 末法の教主・御本仏・日蓮大聖人の御金言。 創価学会初代会長・牧口先生・2代目会長・戸田先生・3代目会長・池田先生の御指導。 (副教学部長・河合師範御指導/辻副会長御指導)
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[BOT] 大聖人は、続けて金吾を励まされた。

📖「少しもへつらわずに振る舞い、語っていきなさい。へつらうようなことがあれば、かえって状況は悪くなるであろう。たとえ所領を没収され、(主君に)追い出されても、それは十羅刹女(諸天善神)の御計らいであろうと思って、深く信をとり、諸天にゆだねていきなさい」(新1583頁・全11頁、通解)

信心を貫いたゆえに起きた難に対しては、絶対に卑屈な態度をとってはならない。
不屈の信念で、毅然と振る舞うのだと教えられたのである。

その後、金吾は正義が証明され、信頼を回復。新たに領地が増すという功徳の実証を示した。
[BOT] 信心が強いが故に大福運を積めるのです。願いが叶う、これしかありません。
信心が強いとは何か、大聖人様の仰せ通りに題目をしっかりあげる事です。あとは自分の境遇、自分の立ち場で楽しく、慈悲をもって折伏する事です。折伏は創価学会が作ったものではなく、日蓮大聖人様が仰せになっているのです。
[BOT] 仏法は決して遠くにあるものではありません。近くにあります。一日一日、瞬間瞬間の中にあります。「一切法是れ仏法」です。どうか御本尊様を抱きしめて「幸福になる為に題目をあげよう」「人々の為に折伏をしよう」と、心豊かな信心をしていかれん事を心からお祈り申し上げ、私の激励とさせて頂きます。
[BOT] 「今まで」どうだったかではない。
大切なのは、「これから」どうかである。
今まで以上に、強盛な信心を奮い起こすことだ。
その人を、ありとあらゆる諸天善神が、必ず守っていく。
「三類の強敵」が現れるのも、「三障四魔」が競い起こるのも、ありとあらゆる苦難は、自分自身の信心を試しているのである。
すべて、仏界の生命を開いていくために必要なことなのだ。
ゆえに、一段と信心を強めていけば、絶対に乗り越えていける。勝っていける。
強盛な信心があるかぎり、乗り越えられない苦難はない。
[BOT] 御書本文

この功徳は父母祖父母乃至無辺の衆生にもをよぼしてん、ましてわがいとをしとをもふをとこは申すに及ばずと、おぼしめすべし、おぼしめすべし(さじき女房御返事p1231 n1705)

通解
法華経に供養する功徳は、あなたの父母、祖父母、さらに限りない多くの衆生にも及ぼされていくことでしょう。
まして、あなたがいとおしいと思う最愛のご主人に、功徳が及ぶことはいうまでもないと、思っていきなさい。思っていきなさい。
[BOT] 📖甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず

弱くふがいない者であっても、助ける者が強ければ倒れない
と述べられている。助け合い、励まし合う、うるわしい同志愛が大切なのである。
また「すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ」
少しくらい強い者でも一人きりであれば険しい道には倒れてしまう――と。
大聖人はそのように“良き友”との“良き絆”の大切さを教えておられる。誰も自分一人の力で大きくなった人はいない。
多くの人に守られ、支えられて生きている。良き環境は良き人間をつくる。みずから、そうした良き環境、“良き人間のつながり”を求めていく人は、限りなく伸びていける。
[BOT] 我らの題目の功力は三世十方に行き渡り、家族も友人も無量の福徳の光で包めるのだ。
妙法で結ばれた絆は生死を超えて永遠である。
[BOT] 法華経の行者の功徳とは何か。それは、根源悪である謗法と戦い続けるゆえに、その実践、その生命に具わる功徳なのです。
「御義口伝」には「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」(0762:第一法師功徳の事:03)と仰せです。内外の謗法と戦い、根源悪を滅するがゆえに、根本善である妙法の無限の力が生命に開かれ、無量の功徳が生ずるのです。
謗法を滅する深く強い信によって、妙法の無限の力が、わが生命に開花する。まさに南無妙法蓮華経という根源的な仏界の生命が涌現するのです。
[BOT] 疑い、不安、煩悩などの種々の形で無明は現れてくる。しかし、それを打ち破っていく力は「信」以外にない。大聖人も「無疑曰信」と仰せです。「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」とも言われている。鋭い剣です。魔と戦うという事も、根本的には無明と鋭く戦うのでなければならない。私たちは、広宣流布を妨げる魔の勢力と戦っています。
[BOT] この魔との戦いも、根本的には無明との戦いです。また、人生に起こってくる色々な困難と戦うのも、本質は無明との戦いです。妙法への「信」、言いかえれば「必ず成仏できる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現していく」という一念が失せたならば、人生の困難にも、公布の途上の困難にも、負けてしまいます。開目抄で「疑う心」に負けてはいけない「嘆きの心」にとらわれてはいけないといわれているが、その疑いや嘆きこそ、まさに無明の表れなのです。
[BOT] ☝🏻順調な時こそ油断大敵

順調なときこそ、「油断は大敵」である。
 
 日蓮大聖人は、主君の信頼を勝ち得て、苦境を脱しつつあった四条金吾に対して、「心に深く用心しなさい」(📖1176・通解)等と、このようなときこそ心を引き締めていくべきだと教えておられる。
[BOT] 怨嫉、憎悪、ムカつきの気持ちが起きたならば、御本尊に題目をあげて
「小さな心のわだかまりを消して下さい。もっともっと崇高なる広宣流布という目的にふさわしい前進をさせて下さい!」
こうお願いしていくべきです。

何でも御本尊に直結すればいいのです。
[BOT] あらゆる悪業の根源は、妙法に対する不信・謗法に帰着します。この重病によって悪から悪への生命の流転が起こり、続き、収まる事がないのです。この根源的な悪の影響力が残っている限り、悪業を重ねる事になり、結局、地獄の苦しみの報いを免れる事ができない。これが謗法罪障の恐ろしさに他なりません。本質を言えば、法華経に対する不信・謗法とは、元品の無明の発動です。
大聖人は、今世の苦難・不幸をもたらす過去世のあらゆる悪業の根本には、法華誹謗つまり妙法に背く謗法の重罪がある事を見抜かれていた。今世において謗法という根本悪を乗り越えれば、あらゆる悪業を乗り越える事ができる事も、明快に御存じであられ...
[BOT] さらに本質を言えば、法華経に対する不信・謗法とは、元品の無明の発動です。万人の中に仏の生命があり、それを開くことによって、その身のままで仏になれるという十界互具の仏性を信じきれず、それどころか、万人の仏性を開く行動を続ける法華経の行者を嫉み、憎み、敵視し、軽蔑するのが、無明の生命の本質です。
その意味で、最大の悪業である謗法を見つめることは、生命における悪の根源である無明の生命を深く捉え直すことに通じます。根源の悪を洞察し、その悪をもたらす元凶の因を断ち切ることによって、宿命転換の道を開いていくのが、日蓮仏法です。
[BOT] 苦悩を「ぱっ」と消す宿命転換を実現する力について、日蓮大聖人は般泥洹経の「護法の功徳力」という表現に注目されています。「護法」とは、文字通り「法」を護る事、即ち、仏法を実践することです。「謗法」が悪から悪への流転の根本の因であるが故に「護法」の実践によって、その流転をとどめる事ができるのです。
護法の目的は人間の幸福です。その意味で、人間の中にある成仏の法を守っていく事によって護法の功徳力が現れてくるのです。即ち、法華経の行者として戦い抜く中で、法に背く悪の生命が叩き出され、無明を破る事ができるのです。その具体的実践が「悪と戦う」事、すなわち折伏の実践に他なりません。
[BOT] 仏法は間断なき仏と魔との戦いです。
魔は誰の生命にも潜んでいます。

油断が生じ惰性に陥ると、たちまち魔が動き出し身を破っていきます。

魔はいつもこちらの隙を伺っているからです。
少しでも油断があれば、その隙間から魔は侵入する。

絶えず前進していく信心によってしか魔を破る事はできない。
[BOT] 前向きに、強気に、過去のことは反省しないこと。反省してもどうせまたやるんだから。
生命が変わらないとまたやるから。決意すればよい。
これから良くなればいい。後ろ向き運転は事故の元。
過去のことは振り返らないこと。良くなればいい。過去のことが活きてくるから。振り返っても落ち込むだけ。
いつも前向き、強気でいい。先生は「タッチの差だ」と言われている。
[BOT] 📖「大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232:03)
「日本国の位を譲ろう」との誘惑があろうとも「父母の頸を刎ねる」との脅迫があろうとも、そうした大難には絶対に屈することはない。どんなに身命におよぶような大難であっても、風の前の塵のように吹き払っていく事ができるとの御断言です。
[BOT] 大事なことは諸天善神も悪鬼神も、自身の生命に根ざした働きであり、両者は表裏一体の関係にあるということです。
『元品の法性は梵天・帝釈と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れたり』📖997㌻
と仰せの通りです。
不信によって、生命が元品の無明に覆われてしまえば、自分を取り巻く環境が悪鬼神の働きとなって現われてしまう。
それを、打ち破っていけるのが信心の利剣です。
[BOT] 妙法への信を貫き、広宣流布という師弟の大願に生き抜くならば、その瞬間瞬間の生命に如々として仏界が現れ、周囲は諸天善神の働きとなって動き始めていきます。断固として守られるのです。
いわば、”仏の入其身”であり「内薫外護※」です。
どこまでも諸天の守護は、自身の「信心の厚薄」によって決まります。だからこそ、魔は魔と鋭く見破って打ち払い、決定した題目で諸天を揺り動かしていくのです。
※ 一切衆生の生命に内在する仏性が妙法の信によって、香りが染みわたるように顕現していくことを内薫といい、この内薫に呼応して外からその生命を護り助ける働きが起こることを外護という。
 
[BOT] 📖「我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(383㌻)と仰せの様に、妙法蓮華経への深く信の「一念」に、仏界の生命が顕現するのです。
「妙法」に「わが生命」を合致させゆく為の唱題です。ゆえに祈りとは、自身の一念における、法性と無明との熾烈な闘争です。この戦いに勝ち〝自分の生命が妙法の当体である〟と確信しきる事が「成仏の直道」であるとの御断言なのです。
即ち、無明に覆われて気づかなかった妙法と一体の本来の自己に目覚める戦いです。ですから「苦楽ともに思い合せて」(1143㌻)、迷いの自分に克ちゆく唱題を重ねる事が最も大切なのです。
[BOT] 二十三歳の二月、事業の危機を打開する為に奔走する中で、私は日記に記しました。「業因、業果、善因善果、この理法は、誰よりも悉く自己自身が知悉しているものだ。所詮、誰人を責めるものでもない。誰人の責任でもない」
透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。否、断固として創り変えていくものである。
我が師・戸田先生は、師子王でありました。故に、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広布の師匠の為に命を捧げて戦う随喜が燃え滾っていた。この師弟不二の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしてい...
[BOT] 微塵の疑いも挟まない、御本尊に対する絶対の確信のみが、無明惑を打破する利剣であるとの仰せである。したがって、我々の信心とは、瞬間瞬間が己心の第六天の魔王との厳しい戦いであり、これを打ち破って勝ち抜いていかなければならないのである。
[BOT] この第六天の魔王とは何か。

人々の成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。

魔王という固有の存在がいるのではなく、
人々の己心に具わった生命の働きです。

ゆえに、成仏というのは
本質的には外敵との戦いではなく
我が生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。
つまり、内なる魔性を克服していってこそ人間革命、境涯革命があり
幸せを築く大道が開かれるんです。
[BOT] 「各々、天の御計らいとおぼすべし」(伯耆殿並諸人御書、新1936㌻)これこそ、私たちが肝に命じておくべき御金言です。例え事態が思い通りにいかなくとも、御書には、全て「天の御計らい」1107㌻「十羅刹女の御計らい」「釈迦仏の御計らい」1164㌻と受け止めていく事を教えられています。戸田先生の事業が破綻した折も先生と私は、まさしく諸天の「御計らい」と定めて、烈風に向かったのです諸天の加護は絶対です。その時その時の結果は仮に自分が望んだものとかけ離れていたとしても、最終的に『あれは守られていたのだ。全部、深い意味があったのだ』と感謝できる勝利の結果になります。
[BOT] 例えば、具合が悪くなった。具合が悪くなったという事自体が因果倶時で、信心が止まっているのです。
見ていてわかります。
「こんなに信心したのに」「私はこれだけ戦ってきたのに」
それ自体が退転なのです。

どんな事があっても御本尊様を放さない、信心だけは大聖人様の仰せ通りに進んでいく事です。
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」(新1346・全992)