T.ポーマス
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読書メーターやってます。 https://bookmeter.com/users/151288 最近の興味: 旅行、恐竜、読書、エッセー、SF、ノンフィクション、海外小説、歴史、中世史、魏晋南北朝、北魏、隋唐、五代十国、キタイ、モンゴル、文学、マンガ、チー付与、だんドーン、サンキューピッチ、まっ探、新九郎奔る、プラスチック姉さん、川尻こだま、ガンダムジークアクス、UC、水星の魔女、鉄血のオルフェンズ、ラランド声溜めラジオ、ベイビーワルキューレ、ミルキーサブウェイ
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よむよむかたる(著 朝倉かすみ)読了。小樽の「喫茶シトロン」で行われる、毎月の読書会〈坂の途中で本を読む会〉。順番に朗読とその感想発表を繰り返す何の変哲もない読書会だが、変わっているのはそのメンバー。平均85歳を迎えるメンバーは今年20年目を迎えつつ、矍鑠としている。雇われ店長になった主人公やっくんは、会長・シルバニア・マンマ・蝶ネクタイ・まちゃえさん・シンちゃんら個性的なメンバーと読書会を重ねる中で、少しずつ変化やちょっとした事件が生まれていく。ハートフルで面白かった。配偶者が入院することになったら、本を読んであげたいと思った
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チキンビリヤニ。初めて食べたけど結構好きな感じ。
近年のインフレをものともしない激安自販機
「このようにチンギスが高い遊牧リテラシーを持ち合わせたことが、トオリルやタヤン・カンなどの他のリーダーとの違いだったと考える。また、それが彼のオリジナリティであり、アドバンテージになったと理解している。当然ながら、それらの戦術を積み上げた先にある「馬・鉄・道」へ集中した 「騎馬軍団の機動力向上」「資源の安定確保」という当時の高原の遊牧リーダーならば誰でも想い描く戦略にも、遊牧リテラシーの高低が大きな差になって現れたことだろう。」
「オルズ川の戦いの勝利で金側の部将として頭角をあらわしたチンギスは、鉄資源の入手に大きな関心をはらった。バヤン・オラーンという交通の要衝を手に入れ、金からインゴットという形で鉄資源を入手し、アウラガに鉄工房を作って鉄器生産に力を入れた。技術の点では鍛冶工程に特化し、移動生活に適合した臨機応変で機動性の高い生産システムの確立を目指した。そうして得られた軍備を携え、チンギスは強大化への道を歩むことになる」
「一一八〇~一二〇四年に寒冷期があり、一一九〇年ごろが寒さの底だったという(Jacoby 2009)。これはまさにチンギス勃興の頃にあたる。(中略)ニール・ペダーソンらのグループは、モンゴル高原では一二世紀前半に短い温暖期があったものの、一○世紀後半を境に低温化傾向になったことを示した。さらに彼らは年輪から寒暖だけでなく、乾湿の変動も復元できる手法を開発した。それによって一一八〇~九〇年ごろの寒冷期は直近千年間で三指に数えられるほど厳しい乾燥期だったことを明らかにした」
「これまでは、金の消的な姿勢が遊牧グループの強大化を増長させたため、モンゴル高原は群雄割拠の戦乱の巻になったと考えられてきた。私もそう理解してきた。しかし、近年の研究で、見方を変える必要が出てきている。イスラエルのヘブライ大学で内陸アジア史を専門とするミハル・ビラン(Biran2005)や、わが国を代表するモンゴル史学者の松田孝一(松田二〇一五a)らの研究により、じつは当時のモンゴル高原は、金と西選との代理戦争の場だったことが明らかになってきたのだ。」
「じっさいに見つかった宮殿遺構は一辺が一七メートルほどの天幕の跡だった。たしかに現在の遊牧民の平均的な天幕(モンゴル語で「ゲル」という)の径五メートルより大きいが、驚くほどではない。とても百人は入れまい。くわえて、金や宝石の使用は認められず、基礎に掘立柱と日干レレンガを使った質素な構造だった。宮廷には似つかわしくない発見もあった。そのひとつが鉄工房だ。鍛冶だけに特化したものだった。鍛冶工房はほかのモンゴル帝国期の遺跡からも検出されているが、アウラガ遺跡の場合は特別に大掛かりだった。」
モンゴル帝国誕生 チンギス・カンの都を掘る(著 白石典之)読了。モンゴルで発掘調査とフィールドワークを重ねた筆者が、これまでの限られた文献では把握しきれなかったチンギス・カンの実像に迫る。絢爛豪華な宮殿はなく、質素だが鍛鉄設備の充実した拠点。森林ステップが支えた豊かさ。金と西遼の代理戦争だったモンゴル高原。ケレイトとともに親金勢力となり孤立しながらの逆転劇。鉄と馬と道。インゴットを輸入して鍛鉄し、鉄を求めた金との関係。平らな道は案外少なく一年間の移動ルートが固まっていたこと。交易路の重要性。イメージを覆えされる指摘が多く、面白い
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最近知ったこと。範疇の語源は、書経洪範篇にある洪範九疇。今となってはしっくりきすぎてすごい、西周すごすぎひんか。。
中国の歴史シリーズは名著だと思うが、著者の担当時代・エリアに対する愛が強すぎて、他の時代をディスるのがまた面白い。
ようやくモンゴルまで来た。長い。そしてまたモンゴル帝国がわからないので、すぐに先に進めない。
「いいかえれば、中華は「閉ざされた世界」ではなかった。実は、もともとオープン・スペースであった中華は、この六〇〇年余を通じて、よりあざやかに「開かれた世界」となった。唐初の瞬間的な「世界帝国」の前後においても、それは見られたが、「とき」を追って草原と中華を問わずポーダレスとなりゆき、ついに文字どおりの世界帝国モンゴルにいたって、ユーラシア全域はほぼオープン・スペースと化し、陸域と海域をはるかにこえた往来・交流が一気に開かれた。そして、それをささえる中核的な地域が、中華であったことは疑いをいれない。」
中国の歴史8疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元(著 杉山正明)読了。
安史の乱からの六百年を、キタイ帝国(遼・契丹)、金、西夏、大元ウルス帝国を中心に記している。所謂中華側から描いた文献書類が如何に偏見に満ちているか、時に司馬光らをこき下ろしながら草原社会について論じている。五代沙陀王朝、北宋に対峙するキタイ帝国の完成度、そしてキタイ帝国・金・西夏・セルジュク国家を踏まえて成立した、大モンゴルウルスの統治。突如現れた10万の騎馬民族がユーラシア大陸を制し、海陸の通商を成り立たせた。華北に目を囚われてはわからない雄大さが魅力。
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中国の歴史8 疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元 (講談社学術文庫)
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「一三世紀の最後の三〇年から一四世紀の後半にかけて、ユーラシア全域は異様なほどの経済活況と文化発展につつまれる。たとえば、世にいう「イタリア・ルネサンス」は、ヴエネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの海洋通商都市の活況を背景に、東方貿易がもたらす富と自由闊達な時代精神の展開の結果であった。それは、モンゴル時代だからこそありえたことを、否定することはむずかしい。この時代、現代においてさえ珍しいくらいにひろい旅程と活動のあとを、いまに伝えている一群の人びとが知られる。」
「大元ウルス政権のいちじるしい特徴のひとつは、ほんらい遊牧軍事力を基盤とする軍事政権でありながら、経済支配をも国家運営の主軸としたことである。その中心をになったのが、おもにイラン系からなるムスリム商人団とそれに出身する経済官僚たちであり、クビライ政権はムスリム商業勢力との共生関係を軸とする財政国家ないしは通商国家の側面が色濃かった。」
「モンゴルにとって、キタイ族は偉大な先人であった。モンゴル系とみられるキタイ族は、チンギスらとの会話に不自由しなかった。それになにより、キタイ帝国と大金国の時代をあわせ、三〇〇年におよぶ豊富な経験をもち、草原と中華のどちらについても、政治・統治に熟達していた。しかも、このころキタイ人のほとんどは、漢語にも通じていたらしい。」
「十進法による軍事組織、左右両翼体制など、遊牧国家としての大枠は、匈奴国家以来の長い伝統でもあった。チンギス・カンの場合、それを徹底して自分を中心とする命令系統に整備し、階下の全遊牧民をきわめてよく統制された軍事集団に変身させたのである。このとき成立した集団と組織が、その後のモンゴルの拡大の源となった。 ようするに、モンゴルは諸部族を統合・再編成した一個の「ウルス」として出現したときから、すでにほとんど出来あがった国家であった。きわめてよく組織された軍事権力体として、歴史の表舞台に一気におどり出た。」
「チンギス・カンのとき側近中の側近である宿衛の長として大活躍したチャガンや、南宋の「流亡宮廷」を涯山の海に沈めた李恒をはじめ、武将・軍人・行政官・文化人・宗教者など、あまたの旧西夏人の姿が目につく。(中略)もし、中国正史のひとつとして、西夏についての正史がつくられていれば、状況はまるでちがっていただろう。(中略)正史がつくられなかった国家・政権は、過小評価される。さらにひどい場合は、基本的な事実さえわからない。西夏は、まさにその代表格である。」
「女真族、すなわちジュシェン族は、遊牧民のキタイ族や奚族はもとより、牧畜民にして住地を大きく変えて浮上した沙陀やタングトとも異なっていた。森林地帯に住み、トゥングース系のことばを話す狩猟・農耕・漁労の民であった。しかも、そうでありながら、騎馬による生活・軍事もそれなりに身につけていた。「血」のつながり、もしくは系統のうえからは、耶律阿保機につぶされた渤海国、そして当時も存在した国でいえば、高麗国に近い関係にあった。」
「短期間でアジア東方の中核国家に駆けあがってしまった大金国は、キタイ国家よりはるかにゆるやかで、よくもわるくもルーズな連合体であった。あまりにもキタイ・北宋が呆気なく倒壊したため、国家体制をきちんとつくりあげるゆとりもほとんどないままに、急に膨張する国城と顔触れに対応するのが精一杯で、国権の中央にどっかとジュシェン諸部族が横並びに連なる状況を、根本的に変えることはできなかった。(中略)広大な版図を保有しながらも、野の匂いのするような牧歌的で甘やかな君臣関係は、ついに払拭できぬまま終わる。」
「沙陀は、民衆からとりたてるばかりで、統治者・経営者としては全く失格であった。燕の人びとは、ほとんど自発的にキタイ領に赴いた。住民にいれずみを強制して奴隷視する沙陀治下よりも、手ひどい戦乱も過酷なとりたてもなく、安全に生活できるキタイ治下のほうがはるかにましだったからである。「中華」と「夷狄」の建前にこだわりがちな司馬光の述作は、しかけが単純なだけに簡単にネタ割れすることが多い。」
「とりわけ「中華」なる文明がつくりつづけた漢文記録というものは、おそるべき表現力にみちている。(中略)ヨーロッパとその亜流たる「新大陸」における文字表現も、創作力と想像力、そして論理という名の構築力は大したものだが、限りなく醜悪なことでも、いとも簡単に美しく仕立てあげてしまえる漢文文献の豪腕ぶりと細さにくらべれば、「一籌を輸する」程度の差ではないだろう。屈指に古い伝統をもつペルシア語の文献もまた、虚構は凄まじいし、装飾・粉飾は見事なもので、誇張や捏造にあふれてもいるが、やはり「中華」のそれには及ばない」
「そうした沙陀を「中華」だとして美化する文献は、どこかおそろしい。ひとつには、北宋・南末という時代がとびぬけて大義名分・建前主義を好んだ。この場合、ふたつの根本文献にかかわる欧陽脩などは、あきらかに意図して「中華」を宣揚した。よほど、北宋は素晴らしいといいたかったのだろう。内外にむけた一種の政治手段として、そういう文化政策を先頭に立って演出したといってもいい。後世まで「騙す」のだから、たいした人である。(中略)北宋を文化国家だと持ちあげることについて、気持はとてもよくわかるが、無条件の賛成は控えたい。」
「革命は成功し、七五〇年、サッファーフを初代のカリフとするアッパース朝が成立した。ちなみに、かのタラス河畔の戦いは、その翌年というまことにあわただしいなかで起こったことであった。 世界史上に名高いこの変動については、五年後に東方で勃発する安禄山の新国家運動とのかかわりが、おのずから浮上してくる。ともに、イラン系のものたちが主体となって起こした革命運動だからである。」
「だが、そのウイグルの軍事力が背後にあればこそ、微力な唐朝が存続しえた。ウイグルの恐怖が、唐の支えであったとさえいっていい。軍事対価としての出費は、その実、王朝存立の根幹にほかならなかった。こうして見ると、すべからく事態は陰画の世界を眺めているような心地がする。実際と明暗が逆になっている画像を、歴史像だとする錯覚はおそろしい。唐代後半という時代は、本当に「唐代」だったのか。(中略)だが、国家として社会として、その現実はどうだったのだろうか。そこに、思い込みはないか。」