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BOVETTI
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「BOVETTI」、「@traeume_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　ずっと合わせる顔がないと思い込んでいる。カレンダーのリマインドも、チャットの「誕生日が近い友だち」リストのてっぺんにいるのも見逃さない。プレゼントを買った時にこっそり自分でも初挑戦して買った良い香りがするヘアオイルはあれ以来ほとんど使われていない。 　春千夜の誕生日だって「夏」と認識しているせいで、当日にお祝いするよりも季節をあげて祝うことの方が多かった。でも彼は暑いのもキンキンに冷やしたビールも花火も特に好きではなかったから、結局わたしが勝手に予約をしたレストランについてきてもらったり、家を抜け出して買い物に行っては彼に着てほしいものを買って帰ったりしていた。 「で、なんでそれをオレに話してんの」 「誕生日という共通の話題だから。……です」 「別に今日オレの誕生日じゃないんだけど」 「彼女のお誕生日でしょ。知らないの？」 「当たり強くね？」 　普通体型の人間一・五人分の間を空けて隣に座るその人は、あの時と同じようにこちらを見下したように眺めている。つまらねえ、と顔に出していながらわたしの話を聞いてくれるところも変わっていない。そこになぜか安心した。 「オレの『彼女』のお誕生日だから早く帰りてえんだけど」 「……うん」 「渡すモンあるなら持ってく」 「……はい」 　小ぶりなショッパーを人差し指に引っ掛け、肘を伸ばして彼の方に差し出すと迷いなく受け取られる。 「なに？　指輪？」 「え？　チョコレートですけど」 「そっか。とうとうプロポーズでもすんのかと思った。今フリーなんだろ」 「春千夜はね」 　ごく、と唾を飲む音が聞こえるくらい馬鹿みたいに静まり返った部屋が居心地悪い。天下の反社様がこんな恋バナに動揺なんか見せていいのか。 「ほんとのことじゃないですか」 「オマエの元カレはそう思ってないかもしんねえじゃん」 「今の彼氏、星の王子さまなんで。春千夜が会ったら眩しすぎて目が潰れちゃうかも」 「……マジで言ってんの」 　背凭れに寝転がりそうな体勢だったのが嘘みたいに跳ね上がってこちらに上半身を倒して驚愕している。顔は向けないままで視線だけズラすと、懐かしい目の色とそれを縁取るバサバサの睫毛がキッパリと上下に分かれるくらいに見開かれていた。久しぶりに見るとちょっと怖い。 「わたし、あなたに嘘吐けると思う？」 「つえぇ女だろ、オマエも。知ってる」 「もうそれが嘘だもん」 　にたりと笑った顔が離れていく。ピンク色の髪は健在で、真っ黒にしたわたしの髪とのコントラストが強くて新しい警告色のように見えた。 「チョコだっけ、これ」 「うん。スパイスの」 「へー」 　ご丁寧に、ショッパーからチョコレートが詰まった瓶は取り出すことなく中を覗き込んでいる。そんな角度にしても見えないと思ったが。 「彼女へのプレゼントですからね。彼女が良し、って言うまでは食べちゃだめですよ」 「アイツがそう言ったらいいんだ」 「だって贈ったらもうそれはわたしのじゃなくて彼女のものだから」 　背凭れには髪の毛すら触れておらず、膝の内側が赤くなりそうなくらいにぎゅっと力をこめて閉じている。緊張しています、と主張しているつもりだったが、それをわかった上で珍しく話を長引かせているのだろう。オレは居心地が良いからオマエもここにまだいろよ、と言われているようで余計に息が詰まる。 　何かを思って観察しているのか、話は終わったものの視線が止むことはない。指先が冷えるのが気温のせいか不安のせいかわからなかった。 「もう帰んの」 「はい」 「送らせる」 「いや、だってわたしもう春千夜とも梵天とも関係ないし、」 「アイツにプレゼント贈りに来たんだろ。礼くらいさせろ」 　はく、と口を空回りさせている間にどこかに電話をかける。癖で耳をすませるも、相手の声は聞き取れなかった。 　ただのカタギのわたしと護衛もつけずに会ってくれたこと、あの時と同じようにお喋りをしてくれたこと、礼を尽くしてくれること。やっぱりどんな仕事をしていても、これまでもこれからも、彼はこういう人なんだなと頬がゆるんでしまった。
November 4, 2025 at 10:24 AM
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put me on
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Put me on.」と記載されています。 以下は本文の内容です。 「着るからちょっと待ってて」 　そう言って背を向けた彼女はこちらに視線を遣ることもなく試着室へ消えていった。目の前に残っているのは店から出されたシャンパンとケーキ。どこのケーキかを確認することもなく、暇を潰すために封を捩じ切った。 　衣擦れの音が漏れ聞こえる。カツン、と最初に聞こえたのはもちろんヒールを脱いだ時。それを合図にするようにしてしゅるしゅる、さりさり、と聞こえる度に彼女が扉一枚を隔てた先で自分が勧めた服を着るために着替えているのだと思うと、どうして自分は試着室に入れないのかと抗議の声をあげたくなる。 「どうだ」 「んー？　待ってて。まだ着れてない」 　腕を通す場所がわからないのか。髪がホックに引っかかってしまっているのか。背中のチャックが上げられないのか。手伝えることがあるなら言ってくれ、と次々に言葉を投げかけたくなるのを飲み込める泡と共にどうにか飲み下す。喉を伝っていく炭酸はなめらかで引っかかりなどひとつも感じない。 「他に必要なものはあるか」 「たぶんこれを着るならピアスがあった方が似合うかな」 「持ってこさせよう」 「もうすぐ着れるから後でいい。あなたはそこで待ってて」 　二度目の「待ってて」をもらい、自分が彼女に対してどれだけ忍耐力がないかを痛感する。試着室の中でひとりで着替えている彼女は、きっと今鏡に映っている自分がどれだけ魅力的かを理解し ていない。デコルテが、ウエストが、腰のラインが綺麗に見えているのかを想像もしないで、扉を開けた瞬間から自分に対する厳しすぎて正確な批評を下し、俺に対してもそれを要求してくる。 　試着室に入る前、鏡に向かって身体にその服を合わせてみせていた時からその服は俺に買われることが決まっていたというのに、鏡の前でくるくると回ってみては辛辣な批判を繰り出すための理由を探している。 「見て、どうかな」 　扉を開けても視線は試着室の鏡の中に映る自分を捉えたままだ。鏡越しに一瞬こちらを見るのも、着替えた自分を正しく評価してくれ、と訴えかけているだけで、ただのチェックリストの一項目にすぎない。 「似合っている」 「ほんと？　ここのスリット、もうちょっと深い方が脚が綺麗に見えない？」 「その脚を俺以外の誰に見せたいのかをぜひ聞かせてほしいな」 「それは、あなたしかいないけど」 　取り急ぎで持って来させたヒールに遠慮することなく足を滑り込ませ、丁寧に自分でストラップを留めようとしているのを静止してソファから立ち上がる。 「この靴はどうだ」 「派手じゃない？」 「そうだな。お前は華美に着飾る必要もない」 「似合ってないってこと？」 「ここの店員の見る目がない、と言ったんだ」 　跪いて太ももに足を乗せさせ、ショーウィンドウで見た通りにストラップを巻きつける。引き締 まった足首に添わせるように留めると、天井からぶら下がるシャンデリアの光を反射したエメラルドが主張するように輝いた。 「……これ、どこに着ていくの」 「俺と会う時に着ればいい」 「例えば？」 　的確な回答が得られないと、それをどこかで着ている自分がしっかり想像できないと、彼女は決して首を縦には振らない。欲しいと思ったものはすべて与えたいと思うが、与えたいと思う相手が一筋縄でいかないものだから余計に闘争心を掻き立てられる。 　しかし今回の彼女に関しては、あとひと押しで揺らいでくれそうな迷いを感じる。 「そうだな、今度俺が持つ城で舞踏会を開く」 「招待客がたくさん来るやつでしょ？　この脚を他のお客さんに見られるのは嫌かな」 「お前と俺だけの舞踏会ならどうだ」 　もう片方のストラップも留めてその場に立ち上がると、普段よりもいくらか顔が近い彼女の頬が薄っすらと赤くなっているのがよく見える。 「俺が選んだその服で、俺と一緒に踊ってくれないか」 　丁寧に腰を折り、手本のように右手を前に差し出す。ちょうど視線が重なり合うところで慌てたように二度まばたきしたのを見逃さない。 「……靴は、赤いのがいい」 「最高のものを贈ろう」 　まだ慣れていないように重なった手のひらは、しかしあまりにも慣れ親しんだものだった。小さな爪が綺麗に並んだ指先が、きゅっと締めつけを強くするのが、至福だった。 「着るからちょっと待ってて」 　そう言って背を向けた彼女はこちらに視線を遣ることもなく試着室へ消えていった。目の前に残っているのは店から出されたシャンパンとケーキ。どこのケーキかを確認することもなく、暇を潰すために封を捩じ切った。 　衣擦れの音が漏れ聞こえる。カツン、と最初に聞こえたのはもちろんヒールを脱いだ時。それを合図にするようにしてしゅるしゅる、さりさり、と聞こえる度に彼女が扉一枚を隔てた先で自分が勧めた服を着るために着替えているのだと思うと、どうして自分は試着室に入れないのかと抗議の声をあげたくなる。 「どうだ」 「んー？　待ってて。まだ着れてない」 　腕を通す場所がわからないのか。髪がホックに引っかかってしまっているのか。背中のチャックが上げられないのか。手伝えることがあるなら言ってくれ、と次々に言葉を投げかけたくなるのを飲み込める泡と共にどうにか飲み下す。喉を伝っていく炭酸はなめらかで引っかかりなどひとつも感じない。 「他に必要なものはあるか」 「たぶんこれを着るならピアスがあった方が似合うかな」 「持ってこさせよう」 「もうすぐ着れるから後でいい。あなたはそこで待ってて」 　二度目の「待ってて」をもらい、自分が彼女に対してどれだけ忍耐力がないかを痛感する。試着室の中でひとりで着替えている彼女は、きっと今鏡に映っている自分がどれだけ魅力的かを理解し
November 1, 2025 at 6:01 PM
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put me on
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Put me on.」と記載されています。 以下は本文の内容です。 「着るからちょっと待ってて」 　そう言って背を向けた彼女はこちらに視線を遣ることもなく試着室へ消えていった。目の前に残っているのは店から出されたシャンパンとケーキ。どこのケーキかを確認することもなく、暇を潰すために封を捩じ切った。 　衣擦れの音が漏れ聞こえる。カツン、と最初に聞こえたのはもちろんヒールを脱いだ時。それを合図にするようにしてしゅるしゅる、さりさり、と聞こえる度に彼女が扉一枚を隔てた先で自分が勧めた服を着るために着替えているのだと思うと、どうして自分は試着室に入れないのかと抗議の声をあげたくなる。 「どうだ」 「んー？　待ってて。まだ着れてない」 　腕を通す場所がわからないのか。髪がホックに引っかかってしまっているのか。背中のチャックが上げられないのか。手伝えることがあるなら言ってくれ、と次々に言葉を投げかけたくなるのを飲み込める泡と共にどうにか飲み下す。喉を伝っていく炭酸はなめらかで引っかかりなどひとつも感じない。 「他に必要なものはあるか」 「たぶんこれを着るならピアスがあった方が似合うかな」 「持ってこさせよう」 「もうすぐ着れるから後でいい。あなたはそこで待ってて」 　二度目の「待ってて」をもらい、自分が彼女に対してどれだけ忍耐力がないかを痛感する。試着室の中でひとりで着替えている彼女は、きっと今鏡に映っている自分がどれだけ魅力的かを理解し ていない。デコルテが、ウエストが、腰のラインが綺麗に見えているのかを想像もしないで、扉を開けた瞬間から自分に対する厳しすぎて正確な批評を下し、俺に対してもそれを要求してくる。 　試着室に入る前、鏡に向かって身体にその服を合わせてみせていた時からその服は俺に買われることが決まっていたというのに、鏡の前でくるくると回ってみては辛辣な批判を繰り出すための理由を探している。 「見て、どうかな」 　扉を開けても視線は試着室の鏡の中に映る自分を捉えたままだ。鏡越しに一瞬こちらを見るのも、着替えた自分を正しく評価してくれ、と訴えかけているだけで、ただのチェックリストの一項目にすぎない。 「似合っている」 「ほんと？　ここのスリット、もうちょっと深い方が脚が綺麗に見えない？」 「その脚を俺以外の誰に見せたいのかをぜひ聞かせてほしいな」 「それは、あなたしかいないけど」 　取り急ぎで持って来させたヒールに遠慮することなく足を滑り込ませ、丁寧に自分でストラップを留めようとしているのを静止してソファから立ち上がる。 「この靴はどうだ」 「派手じゃない？」 「そうだな。お前は華美に着飾る必要もない」 「似合ってないってこと？」 「ここの店員の見る目がない、と言ったんだ」 　跪いて太ももに足を乗せさせ、ショーウィンドウで見た通りにストラップを巻きつける。引き締 まった足首に添わせるように留めると、天井からぶら下がるシャンデリアの光を反射したエメラルドが主張するように輝いた。 「……これ、どこに着ていくの」 「俺と会う時に着ればいい」 「例えば？」 　的確な回答が得られないと、それをどこかで着ている自分がしっかり想像できないと、彼女は決して首を縦には振らない。欲しいと思ったものはすべて与えたいと思うが、与えたいと思う相手が一筋縄でいかないものだから余計に闘争心を掻き立てられる。 　しかし今回の彼女に関しては、あとひと押しで揺らいでくれそうな迷いを感じる。 「そうだな、今度俺が持つ城で舞踏会を開く」 「招待客がたくさん来るやつでしょ？　この脚を他のお客さんに見られるのは嫌かな」 「お前と俺だけの舞踏会ならどうだ」 　もう片方のストラップも留めてその場に立ち上がると、普段よりもいくらか顔が近い彼女の頬が薄っすらと赤くなっているのがよく見える。 「俺が選んだその服で、俺と一緒に踊ってくれないか」 　丁寧に腰を折り、手本のように右手を前に差し出す。ちょうど視線が重なり合うところで慌てたように二度まばたきしたのを見逃さない。 「……靴は、赤いのがいい」 「最高のものを贈ろう」 　まだ慣れていないように重なった手のひらは、しかしあまりにも慣れ親しんだものだった。小さな爪が綺麗に並んだ指先が、きゅっと締めつけを強くするのが、至福だった。 「着るからちょっと待ってて」 　そう言って背を向けた彼女はこちらに視線を遣ることもなく試着室へ消えていった。目の前に残っているのは店から出されたシャンパンとケーキ。どこのケーキかを確認することもなく、暇を潰すために封を捩じ切った。 　衣擦れの音が漏れ聞こえる。カツン、と最初に聞こえたのはもちろんヒールを脱いだ時。それを合図にするようにしてしゅるしゅる、さりさり、と聞こえる度に彼女が扉一枚を隔てた先で自分が勧めた服を着るために着替えているのだと思うと、どうして自分は試着室に入れないのかと抗議の声をあげたくなる。 「どうだ」 「んー？　待ってて。まだ着れてない」 　腕を通す場所がわからないのか。髪がホックに引っかかってしまっているのか。背中のチャックが上げられないのか。手伝えることがあるなら言ってくれ、と次々に言葉を投げかけたくなるのを飲み込める泡と共にどうにか飲み下す。喉を伝っていく炭酸はなめらかで引っかかりなどひとつも感じない。 「他に必要なものはあるか」 「たぶんこれを着るならピアスがあった方が似合うかな」 「持ってこさせよう」 「もうすぐ着れるから後でいい。あなたはそこで待ってて」 　二度目の「待ってて」をもらい、自分が彼女に対してどれだけ忍耐力がないかを痛感する。試着室の中でひとりで着替えている彼女は、きっと今鏡に映っている自分がどれだけ魅力的かを理解し
November 1, 2025 at 6:01 PM
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put me on
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Put me on.」と記載されています。 以下は本文の内容です。 「着るからちょっと待ってて」 　そう言って背を向けた彼女はこちらに視線を遣ることもなく試着室へ消えていった。目の前に残っているのは店から出されたシャンパンとケーキ。どこのケーキかを確認することもなく、暇を潰すために封を捩じ切った。 　衣擦れの音が漏れ聞こえる。カツン、と最初に聞こえたのはもちろんヒールを脱いだ時。それを合図にするようにしてしゅるしゅる、さりさり、と聞こえる度に彼女が扉一枚を隔てた先で自分が勧めた服を着るために着替えているのだと思うと、どうして自分は試着室に入れないのかと抗議の声をあげたくなる。 「どうだ」 「んー？　待ってて。まだ着れてない」 　腕を通す場所がわからないのか。髪がホックに引っかかってしまっているのか。背中のチャックが上げられないのか。手伝えることがあるなら言ってくれ、と次々に言葉を投げかけたくなるのを飲み込める泡と共にどうにか飲み下す。喉を伝っていく炭酸はなめらかで引っかかりなどひとつも感じない。 「他に必要なものはあるか」 「たぶんこれを着るならピアスがあった方が似合うかな」 「持ってこさせよう」 「もうすぐ着れるから後でいい。あなたはそこで待ってて」 　二度目の「待ってて」をもらい、自分が彼女に対してどれだけ忍耐力がないかを痛感する。試着室の中でひとりで着替えている彼女は、きっと今鏡に映っている自分がどれだけ魅力的かを理解し ていない。デコルテが、ウエストが、腰のラインが綺麗に見えているのかを想像もしないで、扉を開けた瞬間から自分に対する厳しすぎて正確な批評を下し、俺に対してもそれを要求してくる。 　試着室に入る前、鏡に向かって身体にその服を合わせてみせていた時からその服は俺に買われることが決まっていたというのに、鏡の前でくるくると回ってみては辛辣な批判を繰り出すための理由を探している。 「見て、どうかな」 　扉を開けても視線は試着室の鏡の中に映る自分を捉えたままだ。鏡越しに一瞬こちらを見るのも、着替えた自分を正しく評価してくれ、と訴えかけているだけで、ただのチェックリストの一項目にすぎない。 「似合っている」 「ほんと？　ここのスリット、もうちょっと深い方が脚が綺麗に見えない？」 「その脚を俺以外の誰に見せたいのかをぜひ聞かせてほしいな」 「それは、あなたしかいないけど」 　取り急ぎで持って来させたヒールに遠慮することなく足を滑り込ませ、丁寧に自分でストラップを留めようとしているのを静止してソファから立ち上がる。 「この靴はどうだ」 「派手じゃない？」 「そうだな。お前は華美に着飾る必要もない」 「似合ってないってこと？」 「ここの店員の見る目がない、と言ったんだ」 　跪いて太ももに足を乗せさせ、ショーウィンドウで見た通りにストラップを巻きつける。引き締 まった足首に添わせるように留めると、天井からぶら下がるシャンデリアの光を反射したエメラルドが主張するように輝いた。 「……これ、どこに着ていくの」 「俺と会う時に着ればいい」 「例えば？」 　的確な回答が得られないと、それをどこかで着ている自分がしっかり想像できないと、彼女は決して首を縦には振らない。欲しいと思ったものはすべて与えたいと思うが、与えたいと思う相手が一筋縄でいかないものだから余計に闘争心を掻き立てられる。 　しかし今回の彼女に関しては、あとひと押しで揺らいでくれそうな迷いを感じる。 「そうだな、今度俺が持つ城で舞踏会を開く」 「招待客がたくさん来るやつでしょ？　この脚を他のお客さんに見られるのは嫌かな」 「お前と俺だけの舞踏会ならどうだ」 　もう片方のストラップも留めてその場に立ち上がると、普段よりもいくらか顔が近い彼女の頬が薄っすらと赤くなっているのがよく見える。 「俺が選んだその服で、俺と一緒に踊ってくれないか」 　丁寧に腰を折り、手本のように右手を前に差し出す。ちょうど視線が重なり合うところで慌てたように二度まばたきしたのを見逃さない。 「……靴は、赤いのがいい」 「最高のものを贈ろう」 　まだ慣れていないように重なった手のひらは、しかしあまりにも慣れ親しんだものだった。小さな爪が綺麗に並んだ指先が、きゅっと締めつけを強くするのが、至福だった。 「着るからちょっと待ってて」 　そう言って背を向けた彼女はこちらに視線を遣ることもなく試着室へ消えていった。目の前に残っているのは店から出されたシャンパンとケーキ。どこのケーキかを確認することもなく、暇を潰すために封を捩じ切った。 　衣擦れの音が漏れ聞こえる。カツン、と最初に聞こえたのはもちろんヒールを脱いだ時。それを合図にするようにしてしゅるしゅる、さりさり、と聞こえる度に彼女が扉一枚を隔てた先で自分が勧めた服を着るために着替えているのだと思うと、どうして自分は試着室に入れないのかと抗議の声をあげたくなる。 「どうだ」 「んー？　待ってて。まだ着れてない」 　腕を通す場所がわからないのか。髪がホックに引っかかってしまっているのか。背中のチャックが上げられないのか。手伝えることがあるなら言ってくれ、と次々に言葉を投げかけたくなるのを飲み込める泡と共にどうにか飲み下す。喉を伝っていく炭酸はなめらかで引っかかりなどひとつも感じない。 「他に必要なものはあるか」 「たぶんこれを着るならピアスがあった方が似合うかな」 「持ってこさせよう」 「もうすぐ着れるから後でいい。あなたはそこで待ってて」 　二度目の「待ってて」をもらい、自分が彼女に対してどれだけ忍耐力がないかを痛感する。試着室の中でひとりで着替えている彼女は、きっと今鏡に映っている自分がどれだけ魅力的かを理解し
November 1, 2025 at 6:00 PM
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domsub wip
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「wip」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　いつもは見上げる側なのに、こうして自分の目線よりも低い位置から見上げられる高揚感を生まれて初めて知った。ｄｏｍｓｕｂ性だけでなく、ただ身長差がそうさせることも多い。それでもいつも頼もしく大きな存在の彼がスンとした顔でこちらを見つめてくるその姿は、それだけで恍惚としてしまう。 　こうなったのは他でもないあの変なコアのせいだった。 　分裂と合体を繰り返すおかしなワンダラーを二人で必死に叩いていると同時に攻撃が決まったのを境にして弱体化に成功し、あっという間に倒すことができた。しかし疲れ切った二人で同時にその場に残ったコアに触れた瞬間、体内で何かが組み変わるような妙な感覚が走った。 「……なんだろう、変な感じ」 「あんたもか？」 「セイヤも？」 　ぐっぱ、と両手を握ったり開いてみても、屈伸をしてみても身体に異常はなさそうだった。それはセイヤも同じようで、ハンター探査器で心拍などを測っているようだが戦闘直後であることを鑑みるとどの数値も正常値の範囲内だった。 「視覚も聴覚もいつも通りだし、体液を浴びてるわけでもないよね」 「コアも回収できたんだ。ひとまず協会に戻って今日はもう休もう」 「賛成！」 　戦闘服は土埃だらけになってしまったがどこも怪我をしているわけではない。報告をあげてコアを提出したらすぐにでも帰れるだろう。お互い疲れていたからか、武器を固く握りすぎたせいで手 が震えていたんだろう。このところペアでの任務が続いていたものの忙しくてまともにプレイできていなかったし、この際明日まで休みを取って二人でゆっくり過ごすのも良いかもしれない。 「帰ったら、久しぶりにプレイしないか」 　しかしその提案はセイヤからだった。 「すごい、私もちょうどそう思ってたところだったの」 「……試したいことがあるんだ」 「なに？」 「帰ったら話す」 　楽しみは後に取っておくということかと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。協会に戻るまでもどこか迷うような悩むような表情が抜けなかった彼を眺めながら電車に揺られていた。 　長引いた戦闘に反して報告はいつも通り簡潔な形で終わりそうだった。あまり見ないタイプだったため分析隊にはかなり詰められたが、特殊だった分私たちもよく記憶していたおかげで難なく質問には応えていくことができ、予想していたのと変わらないくらいの時間にはもう解放されていた。 「夕飯買って帰ろうか」 「いや、服も汚れてるしこのまま俺の部屋に来ないか？　あんたの着替えもあるし、食材も揃ってる」 「いいけど、やっぱり何か急いでるの？」 「そうとも言えるかもな」 　まだ街中にいるにもかかわらずセイヤの方から手を繋いでくる。普段のデートでもしないとは言わないが、何かを言いたげにしながらも口に出さないのは珍しい。 「服、着替えさせてくれないか」 「……良い子にシャワー浴びられたらね」 　きっと着替えやシャワーのタイミングを狙ってどうにかベッドに持ち込めないかと画策しているのだろう。その手には何度も流されてきた。しかし今日こそは、と何度目かわからない決心をして繋いでいる手に力を籠める。 「わかった。良い子にする」 　聞き分けの良いセイヤの様子になんだか心が満たされる。従順に見えていつも手に負えなくなってしまい大変な思いもするが、こうして可愛らしく振る舞うこともあるのだ。その後に待っているのは決して可愛らしいものではないとも知っているのだが。 　なんでもないような会話をしながらセイヤの部屋まで帰ってきた。今すぐにでもキスがしたいと何度も視線で訴えられたが、なんだかこうして彼にねだられるということは普段からあまり無いせいか我慢をさせるのが面白くなってきてしまった。あまり良くないとはわかりつつも、この時間を楽しんでいる自分がいる。 「どうして今日はそんなに意地悪ばかりするんだ」 「あなたが可愛い顔してばかりいるからだよ」 「帰ってくるまで良い子にしてただろ。褒めてくれないのか？」 「私に褒められたいなんてやっぱり珍しい。セイヤ、あなたまるで……」
October 6, 2025 at 5:58 AM
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The path they walk
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「The path they walk」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　思いがけず二人とも早めに集合できたおかげで、カフェを予約していた時間までにかなり余裕があった。複合施設も併設してる大きな駅だったし、あまり来ない場所だから散策でもしていればあっという間に時間が過ぎるだろうということになった。 「それなら本屋に寄ってもいいか？　買いたい本があるんだ」 「本屋が残ってるなんて珍しいね。いいよ、久しぶりだし楽しそう」 　紙の本の売れ行きは何年も前から右肩下がりで、子どもの頃は大きなショッピングモールの中には本屋が入っていたが、最近はそういった場所もどんどん減っている。実際に私も紙で本を買うことはほとんどないし、雑誌なども電子で読むことしかなくなっていた。 　しかしセイヤの部屋には確かに本がかなり並んでいる。その影響を受けているのか、自分で買わなくなってしばらく経つ小説なども彼から借りることが増えた。久しぶりに本棚に並んでいる中から気になる小説を選んで突発的に買ってみるのも面白いかもしれない。 　子どもの頃の記憶と同じように残っている本屋に懐かしさを感じながらセイヤについて歩く。途中途中で立ち止まり、背表紙を眺めてはまた次の棚に移っていく。 「電子で本を買うことはないの？」 「なくはないが、紙で買うことの方が多いな」 「たくさん買ってたら部屋が本棚で埋まっちゃうよ」 「読まなくなったら売ることもできるし、紙で残ってる方が手に馴染んでいくのが感じられて俺 に合ってる」 　きっと私がセイヤのことを知らなかったら、本屋に馴染みすぎて彼がそこに立っていることに気づかなかったかもしれない。それくらいセイヤは本に囲まれているのも、背表紙を眺めて迷っている姿も様になっていた。 　数冊手に取ってしばらく悩んでいたが、どうやら最初に選んだ一冊に決めたらしい。　そろそろレジに向かおうとしていた私たちを、そのすぐ傍にあった文具コーナーが引き留めた。 「紙で売ってるのは本だけじゃないんだね」 「さっきから紙で残しておくことを忘れられた文明か何かみたいに思ってるみたいだぞ」 「ほら、仕事でも便利だから電子に頼りっぱなしだし」 　じっとりしたセイヤの視線から逃げるように文具コーナーの奥に入っていく。手帳、日記、スケジュール帳、付箋やシールなどの文房具も充実している。なんとなく手に取ったのは表紙のデザインが気に入ったものだったが、どうやらこれはスケジュール帳らしい。 「予定がないと、こういうのを買っても持て余しちゃうよね」 「そうか？　予定じゃなくても書きたいことはあるだろ。今日食べた美味しいものとか、その場の思いつきとか」 「そういうのも書いていいの？　それじゃ日記と変わらないよ」 「どこに何を書くのかは誰にも決められてない。自分の好きなように使えばいいんだ」 　パラパラとページを捲ると、月のカレンダーと週毎に二ページでまとまったものが繰り返し並ん でいるオーソドックスなタイプだった。表紙のデザイン性に反して中はかなりシンプルにまとまっているし、ここに二人でいろいろ書き込んでいくのも楽しそうだ。 「文明を再発掘するためにも、まずはスケジュール帳から始めてみようかな」 「じゃあ、俺にもそれを手伝わせてくれ」 　二人でそれぞれ支払いを済ませ、予約していたカフェへ向かう。席に着くと早速買ったスケジュール帳を取り出しパラパラとページを捲る。 「今日の、日付は、」 　目当てのページを探し当て、一緒に買ったペンを持つ。 「もう今日のことを書き込むのか？」 「セイヤに、本屋に、連れていかれた。って書き残しておかないとね」 　しっかりと四角い枠の中に今日のことを書き留めようとするが、さすがに枠内にすべてのことは書き切れずに思わず声が漏れる。 「あぁ～……」 「そんなに書きたいことがあるのか？」 「当たり前でしょ。本屋にいるあなたのことも、スケジュール帳を私に勧めてきたあなたのことも、これからカフェでびっくりするくらいの量を注文するあなたも、全部残しておきたい」 　どうにか書きたいことを詰め込めないかと試行錯誤していると、手を伸ばしてきたセイヤにペンを奪われた。その顔は好きな子に意地悪をしている学生のようでいて、意地悪な顔というよりも優しい眼差しだった。 「セイヤも一緒に書こうよ」 「俺も？」 「二人でデートに行った記録なら、私だけで書いてたらだめだよ」 　自分の方に向けていたスケジュール帳をセイヤの方に向き直させる。枠が埋まってしまった月間スケジュールのページから週間のページまで繰ると、ふ、とやさしい吐息で笑った。何を書くか迷うようにペン先の動きをぴたりと止めて考える間、セイヤの横顔は今この瞬間だけでなく、もっと遠いところに意識を向けているように見えた。 『これから二人でページを埋めていく未来が、楽しみで仕方ない』 　まだあまり見慣れない、でも彼の性格を表すような流れ去るようでいてハッキリとした文字は、まさに今この瞬間にここに刻まれたのだ。 「……ふふ、」 「何が面白いんだ？」 「これはスケジュール帳だから、書いたことは本当にしないとね！」 　ペンを持っているのとは反対の、スケジュール帳を抑えていた手に自分の手のひらを重ねる。大きな手はそこからゆっくりとほぐすように指を絡め合わせ、はぐれないようにとしっかりと繋ぎ直す。 「ああ、約束だ。必ず守る」
September 23, 2025 at 10:56 AM
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Record of a Life
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Record of a Life」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　所狭しと並べられたＣＤ、ガラクタかと勘違いしそうになってしまった数十年前に使われていたものが詰め込まれた部屋、部屋の鍵。おばあちゃんと暮らしていた花浦の家にもこれほどアナログなモノが集められてはいなかった。でもあの屋根裏部屋にも懐かしい型の扇風機があったのを覚えている。 　サブスクに入れば定額で何万曲と聞けるし、最近はスマホでも綺麗な写真は撮れるし、電子錠にした方が利便性が遥かに高い。それなのにモノを持つことにこだわる彼の考えが理解できなかったが、関係性を築き、彼の世界に触れることによって彼が何を大切にしているのかがわかってきた気がする。 　電子化されて簡単に持ち運びができてどこでも見ることができるけど、それはすべて電子上のデータでしかない。それが便利で私は好きだけど、知らぬ間にそれに慣れすぎてしまっていたらしい。ＣＤケースを見ながら音楽を選ぶのも、背表紙に指を滑らせて小説を選ぶのも、表紙から次に参考にするレシピブックを選ぶのも、モノを通してじゃないとできないことがあるのだと教えてくれた。 　そしてそれらは時間の経過に合わせて色や時には形まで変えていく。それは不変で冷たいデータにはないもので、そのモノと過ごした時間を教えてくれる。何度も捲ってホチキスの周りの紙が薄くなってしまっている歌詞カードも、日に焼けたり酸化したりして少し黄ばんだ小説も、おばあちゃんが作っていそうなくらい素朴で家庭的な味がたくさん載っているレシピブックも、どれもセイヤの年齢には見合わないくらい歳をとって見え た。 「あ、この前撮った写真？」 「やっぱりもっと早くにアルバムにしてまとめれば良かったな」 　てっきり手軽なサイズに数枚程度まとめたアルバムを頼んでいるのかと思っていたが、どうやら彼はもっと枚数を増やしていたらしい。パタパタと何ページか繰ると、懐かしい写真まで挟まれていた。 「結構前に撮ったやつも入れたんだね」 「ああ。これはあんたが気に入ってたし、こっちは綺麗に写ってる」 　そう言って見せてくれたうちの一枚はセイヤに髪を耳にかけてもらっている私がピンで写っている写真だった。 「私しか写ってないじゃない！」 「これは俺が作ったアルバムなんだ。俺の好きな写真を選ぶに決まってるだろ」 　焦ってアルバムを閉じようとした私の手を上手にすり抜けていく。他にも私がひとりで写っている写真があの中にまだあるのだろう。満足げに微笑みながらまた最初のページからアルバムを見ている横顔は、こっちが恥ずかしくなりそうなくらいに恋していた。 「俺が好きなあんたの写真、もっと見るか？」 「恥ずかしいからいいよ」 　このまま隣に座っているのも居心地が良くなかったが、ここを立つのも気分が良くない。カーテン越しの日差しにやわらかく照らされながらアルバムを大切そうに見ているセイヤが本当にうれしそうで、そんな顔をされてしまったらなんだか許さないではいられない気がしてくる。 　きっと写真を見ながらその時のことを思い出しているのだろう。撮影した後に見せてもらえるデータでは、二人で撮ってもその半分はカメラではなく私のことを見つめているセイヤが写っていた。照れくさいが、きっと私が自分で選んだ写真だけでアルバムを作ろうと思ったらそんな写真を何枚も選ぶのだろう。 「あんたはアルバム作らないのか？」 「データで写真はもらってるしいいかなと思ってたんだけど……」 　いつでもどこでもスマホから見れるようにはしてあるが、彼を見ているとモノとして手元に置いておくことの良さをひしひしと感じてしまい、ちょうど真似してアルバムを作ろうかと思い始めているところだった。 「あんたが選ぶ俺たちの写真も見てみたい」 「あなたと同じ写真を選んじゃうかも」 「たくさん撮った中から同じものを選んでたら、それは俺たちの相性が良いってことだ」 　作らないのか、と誘うような言い方をしていたが、セイヤの本音としては私にも同じようにアルバムを作ってほしいのだろう。セイヤはきっと私が髪を耳にかけられている写真を選びたくてアルバムを作ったのだろうし、私にもそうして気に入っている自分の写真を見たいと言っているのだ。 　ぐりぐりと頭を擦りつけるように甘えてくる態度が可愛くて笑ってしまいそうだった。 「あなたが選んだ他の写真も見せて？」 「あんたもアルバムを作るなら、それが完成した時に見せ合った方がいい」 「もし私が作らないって言ったら？」 　意地悪を仕掛けてみると、隣に座っていたセイ ヤがその体格をお構いなしにこっちに預けてくるものだから思わず抱き留めるように腕を回してしまう。 「写真館に毎週通って、あんたがアルバムに残したくなるようなのを撮る」 　重さに負けてそのままソファの座面に二人で寝転がる。私の胸の上に頭を乗せたセイヤは満足そうで、頭を撫でてあげると心なしか光を受けて明るい髪が輝くだけではないくらい眩しく見えた。 「いつものところじゃなくてもいい。セルフ写真館を見つけたから、今度はそこも二人で行ってみよう」 「セルフ写真館？」 「カメラマンがいない、自分たちでシャッターを切れるところだ」 「それだと忙しくない？　シャッターを切って、ポーズとって、って」 「シャッターのリモコンを自分たちで握りながら写真を撮れるらしい」 　調べてみると、確かに自分たちでリモコン型のシャッターを使ってモニターを確認しながら二人だけで撮影ができるらしい。 「今一緒に過ごしてる時間をきちんと残しておきたいんだ。これから関係が変わって、もっと深い繋がりになった時に見返して、あんたと二人で笑いたい」 　彼自身の輝きを反射している瞳の中は満点の星空と同じように満ち満ちていて、やさしく語りかけてくるようだった。
September 21, 2025 at 8:45 AM
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Milky Melty way to you
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Milky Melty way to you」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　だんだんと汗をかく時期になってきたが、日が落ちれば窓を開けていて気持ちの良い季節でもある。薄いカーテンを引いて夜風を入れながら、リビングの電気は消して間接照明だけを残す。観葉植物が入ったポットや部屋に星が降るように散りばめられたストリングライトが、ここがセイヤの部屋だと安心感をくれる。 「天の川の中にいるって、こういう気分なのかな」 　ソファで隣に座るセイヤの肩に頭を乗せると、じんわりと体温が移ってきて温かい。ゆっくりとした呼吸に合わせて上下する肩がまた心地いい。 「今だって天の川の中にいるのと同じだ」 「え、そうなの？」 「内側から天の川銀河を見たのが、天の川だ」 　こうして事実を知ってしまうとなんとなくロマンチックな気分は霧散してしまうが、むしろ宇宙を感じられると考えれば天の川の美しさをより感じられると解釈していいだろう。 「じゃあセイヤは天の川を外側から見たこともあるの？」 「それは無理だ。いくら俺が光の速度で移動できたとしても、その速度を落とさずに何万年も過ごすことはできない」 「確かにそれは大変そう」 「それに、行くのと同じだけの時間でまたあんたのいるところに帰ってこられる確証もないからな」 　セイヤがこちらに頭を乗せてきたのか、やわらかな髪が頬にかかってきて擽ったい。手を取られて指が絡まると、小さく瞬く星がどこからともなくやってきて私たちの握られた手に集まってくる。 「織姫と彦星は今年もちゃんと会えてるかな」 「きっと大丈夫だ」 「この二人には会ったことはある？」 「ああ。随分前のことだがよく覚えてる」 　どんな二人だったの、と聞こうと思ったがそれよりも早く肩を抱かれて一緒にソファに横たわらせられた。このままひと眠りしてしまおうと言うのだろうか。 「寝るならベッドまで連れていって」 「寝るつもりはない。横になった方がより天の川の中にいるように感じられると思っただけだ」 「そう言って……」 「大丈夫だ。もしこのまま寝てても俺が起きた時にベッドに運ぶから」 「私よりも先に起きてた試しがないよ」 　一瞬だけ明後日の方向に意識を飛ばしたと思えばそれを誤魔化すように額にキスがひとつだけ落ちてくる。それを目を瞑って受け入れれば今度は鼻に、口にと探るようにしてくる。 「俺が会った時、織姫も同じように彦星に怒っていたんだ」 「織姫も？」 「年に一度しか会えないのに、私と会ってもあの人はいつも寝てばかりだと言っていた」 「セイヤとそっくりだね。あなたも私の膝や肩を枕にしてどこでも寝ちゃうんだから」 　二人とも横になってしまっては膝枕をすることもできないが、背もたれとセイヤの間に挟まれながらどうにか身体を動かして彼の頭を抱くような体勢をとれた。頭を撫でるようにして髪を梳いていると、もぞもぞと動いて天色の瞳に射抜かれる。 「好きな人といると眠くなるのはよくわかる。彦星もきっと織姫のことが好きだから、そのせいで一緒にいると眠ってしまうだけだ」 「好きだと眠くなるって、説明になってないよ」 「そうか？」 　不思議そうな顔をしたセイヤが顔を覗き込みながら鼻を擦り合わせてくる。もう既にとろんとしているように見えるその目からは、任務でワンダラーを睨みつけているパートナーの姿は想像するのが難しいくらいだった。 　そうして油断していると私が抱き締めていた体勢から簡単に逆転され、気づけば今度はセイヤの腕の中に包まれていた。クッションを引き寄せると枕の代わりに二人の頭を支えてくれる。ゆっくり眠るには少し狭いと思ったが、彼の服に顔を埋められる良い言い訳になると思うと遠慮をしなくて済んだ。 「なら、このまま試してみよう。あんたも俺のことが好きならきっとすぐに夢の中だ」 「セイヤの眠そうな声を聞いてれば誰だって眠気を誘われると思うの」 「これはあんたにだけ効果のある魔法だ」 　セイヤは本当にこのまま眠るらしく、抱き締めた腕の中がだんだんと温かくなっていく。体温が上がっていくのをこうして感じていると、それにつられて私まで輪郭がぼやけて瞼が落ちてしまいそうだ。 　ぼーっとしながらもまだ目は瞑らないでいると、寝息を整えるようなキスをされる。唇を触れ合わせただけ。けれども呼吸と併せてそれがゆったりと動くのを感じて、このままどこまでも落ちていってしまいたくなる。 「……起きてもまた目を開けばあんたがいる。彦星もそうやって何度も織姫を見つけたくて、そうしているうちに本当に眠ってしまうんだ」 　セイヤの声が聞こえるが、返事をしてしまってはこの微睡みから浮かび上がってしまいそうでなんとなく声を出せないでいる。小さく頷くだけに留めると、最後にひとつ額に唇を落とされる。 「おやすみ。天の川で待ってる」 ▽ 　少しの暑苦しさとともに目が覚めてくる。ひっそりとセイヤ伺い見るも、まだ目を開ける様子はなかった。 「起きて、彦星様」 「……織姫に、先に見つかったな」 　ゆっくりと動き出す瞼が隠していた瞳に光を差し込む。きらきらと輝き出すそこに、やっと私が写ったようだ。 「どうだった、ぐっすり眠れたか」 「うん。私ね、二人の夢を見たよ」 　寝起きでまだ体温の高いセイヤの頬を指でつつくと、好きにしてくれ、と言うようにまた瞼を下ろしてしまった。そのまままた眠ってしまわないようにと額を寄せて擦り合わせれば、前髪が混じり合ってシャリシャリと音をたてた。 「二人を見た私が『素敵なカップルだね』って言ったの。そしたら隣にいたあなたがむくれて『俺たちだって素敵なカップルだ』って言ってた」 「夢の中の俺が正しいな」 　薄っすらと口角を挙げて満足そうにしてみせる。 「それとね、私もあなたのことが好きみたい」 　その言葉を待っていたかのように開かれた両の瞳には、宇宙にある幾千万の星と同じ輝きが閉じ込められていた。
July 8, 2025 at 2:36 PM
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果汁の記憶2
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「果汁の記憶」、「@traeume_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　修二くんがキッチンに立つのを見る度にどことなく「怖いなー」と思う節があった。何が怖いとかなぜ怖いとか、明確なものはわからなかったが、きっと彼の人間性とキッチンという場所があまりにもマッチしないせいなんだろうと諦めがついた。まさにグロテスクというやつだ。 　キッチンに立つといっても彼が料理なんてするはずもない。やることと言えば煙草の先端に火をつけることくらいだ。葉っぱに火をつけると言えば聞こえは良いかもしれないが、今度はその葉っぱという単語が怪しく聞こえてくる。こんな風に、彼とキッチンというのはどうしても相容れない組み合わせだった。 　かく言う私も、特段料理が得意なわけでもない。料理を作って彼の胃袋を掴めるのならそうしたかもしれないが、胃袋を掴まれた彼がこの場に留まることなどない。珍しい葉っぱを集めて火をつけてあげた方がよっぽど彼にとって価値のある存在になれるだろう。 　それでも腹は減るものだし、好きな男の子に美味しい料理を出したいと思うのが恋する乙女である。食べ物に興味もない彼は、私が作る料理が美味しいかどうかにも無頓着だ。おかげで実験と呼ぶに等しいような調理もなんでもないように見ているし、自信作にだって「味、濃くね？」と一言述べるだけだ。 「夕飯、食べたいものある？」 「なんでもいいぜ。ナマエちゃん食ってもいいし」 「なに言ってんの、マセガキ」 「ンなこと言ったらナマエちゃんだってガキだろ」 　この「ガキ」という単語一つとってもどことなく使い慣れている感じが出るところにヤンキーら 桃を押しつけてくる。加減を知らない力のせいで産毛が唇に刺さり痒かったが、そこから逃げようと顔面ごと動かしたのを追いかけるように再度桃が顔を塞いだ。 　息を吸おうと口を開けば「あーん」という言葉とはまるで似合わない勢いで皮がついたままの桃が侵入してくる。仕方なく押し込められた分だけ前歯で齧り取ると、そこで満足したのかわざとらしいくらいのゆったりとしたスピードで離してくれた。 「美味かった？」 「ぅ、わかんないよ、皮ばっかり」 　ふんわりとキッチンに香っていた桃の香りは直接口内に入ってくると甘ったるくて、口の端から溢れていった。修二くんの指の力で圧迫されたせいかやわらかさを増していたが、それを堪能できないくらいにシャリシャリの薄皮が邪魔をする。顎の骨を伝わればそれはもうジャリジャリと鳴っている。 「桃は皮食べないって知らないの？」 「オレが桃食ってるように見えんの」 　私が齧った痕を気にせずその上から齧りつく。 「まじー。桃って甘いんじゃねえの」 「煙草と桃は合わないんだ」 　若いのに煙草ばっかり吸ってるからいけないんだ。舌が馬鹿になっちゃってたら私がどれだけ料理が上手くなったって、修二くんには美味しいと言ってもらえないのかもしれない。 　野菜も果物も皮と実の間が一番栄養があると聞くし、修二くんみたいに味音痴にならないように気をつけなければ、ともう気にならなくなった皮付きの桃をまた齧る。種の近くまで到達してし まったらしく顔を顰めると、そのタイミングを狙ったのように彼が覗きこんできた。 「っん」 　噛んでまだ飲み込む前のぐちゃぐちゃになった桃が口の中に残っていたのにもかかわらず、無遠慮に口周りに舌を這わされる。抵抗しようと思ったが今ここで口を開くことはできない。大きな舌が顎先から唇の端までを舐め取った。 「ナマエちゃんて桃みてぇに甘えのな」 「……なにそれ」 「味見ぃ」 　再度反対側を舐められて、漸く自分が口の端から果汁を溢しながら桃に齧りついていたことを思い出す。 「昨日も私のこと食べたくせに。まだ味見が必要なくらい味覚えてないの？」 「ばはっ、言うじゃん」 　最後に大きく齧ってからさっき修二くんがしたように残りの桃を雑にシンクに落とす。自分も同じことができるんだと見せつけることでどうにか体裁を守ろうとしているだけだったが、いつもはしない粗野な行動をするとそれに伴って自分が強くなったように錯覚できるらしい。 　まだびちゃびちゃな手のひらで彼の頬を挟み、今度はこちらから唇を合わせる。桃が甘いのも、私が甘いのも、どうせこの人はひと夏の間も覚えていないだろう。だからせめて自分だけはこのことを忘れないようにしようと、これまでにしたことがないような汚いキスに夢中になった。
June 29, 2025 at 8:29 AM
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果汁の記憶1
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「果汁の記憶」、「@traeume_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　修二くんがキッチンに立つのを見る度にどことなく「怖いなー」と思う節があった。何が怖いとかなぜ怖いとか、明確なものはわからなかったが、きっと彼の人間性とキッチンという場所があまりにもマッチしないせいなんだろうと諦めがついた。まさにグロテスクというやつだ。 　キッチンに立つといっても彼が料理なんてするはずもない。やることと言えば煙草の先端に火をつけることくらいだ。葉っぱに火をつけると言えば聞こえは良いかもしれないが、今度はその葉っぱという単語が怪しく聞こえてくる。こんな風に、彼とキッチンというのはどうしても相容れない組み合わせだった。 　かく言う私も、特段料理が得意なわけでもない。料理を作って彼の胃袋を掴めるのならそうしたかもしれないが、胃袋を掴まれた彼がこの場に留まることなどない。珍しい葉っぱを集めて火をつけてあげた方がよっぽど彼にとって価値のある存在になれるだろう。 　それでも腹は減るものだし、好きな男の子に美味しい料理を出したいと思うのが恋する乙女である。食べ物に興味もない彼は、私が作る料理が美味しいかどうかにも無頓着だ。おかげで実験と呼ぶに等しいような調理もなんでもないように見ているし、自信作にだって「味、濃くね？」と一言述べるだけだ。 「夕飯、食べたいものある？」 「なんでもいいぜ。ナマエちゃん食ってもいいし」 「なに言ってんの、マセガキ」 「ンなこと言ったらナマエちゃんだってガキだろ」 　この「ガキ」という単語一つとってもどことなく使い慣れている感じが出るところにヤンキーら しさを覚える。所詮私の行動なんか彼から見ればどれもガキ臭く、乳臭いのだろう。 「食べたいものないならハンバーガーとかでもいい？　ポテト食べたい」 「じゃあオレはチーズ入ったやつ」 「ピクルス抜くんでしょ」 「ナマエちゃん食いたいならあげるけど」 　修二くんが食べないなら、と私が食べたのをきっかけに、彼は私がピクルスを好んで食べる人間だと思っているらしい。ピクルスが多ければ多いだけうれしいというわけでもないが、彼が私を頼ってくれることなどそうそうないのでここはありがたく頂くことにしよう。 　そしてこの流れからいくと、きっと今日も私が買いに行かなければいけないらしい。バイクを持っているんだからこのくらいの買い物には足になってもらいたいのに、その一言を言う勇気もない。頼られていると解釈すれば、なんだってそれは私にとって十分に満足感を与えるものになった。 「脂っこいもの食べるならデザートがないとね」 「アイスも食うの？」 「違うよ。冷蔵庫に桃入ってるから切っておいて」 　財布と携帯を持って玄関に向かう。ドアを閉めなくたって修二くんの声は聞こえてこなかった。 「切っておいて」なんてそんな言葉遣い、これまで一度もしたことがなかった。それなのにこうして口から発してみると、なんだか夫婦のようで羞恥心がむくむくと膨らんでくる。きゅっと引き締めた口がゆるんで満足感がにじみ出た笑い声が漏れてしまいそうなくらいに、修二くんに対する仕返しができたようですっきりした。 「桃、切っておいて」 　外に踏み出してからもう一度こぼす。今度こそ本当に破顔するのを抑えきれず、財布と携帯を持ったまま顔を隠してその場でじたばたと暴れる。こんなところ修二くんに見せられない。 　急いでハンバーガーを買って帰れば「ナマ言いやがって」と桃を片手にした修二くんに包丁で刺されるかもしれない。それはそれで、あの見てくれのヤンキーが桃を片手に殺人だなんて可愛らしくて見てみたい気もしたが、刺されるのは痛そうだし遠慮したいところだ。寄り道はしないで、でもコンビニでいつもの煙草だけは買ってから帰ろう。きっと修二くんは切った桃を冷蔵庫に入れて冷やしておくなんてことできないから。 　バーガーのセットを頼み、少し悩んだけどシェイクにするのはやめて氷がたくさん入ったジュースと炭酸にした。ひとつ目のコンビニは年確ができるものを持っていなかったせいで煙草を買わせてくれなかったけど、家の近くのコンビニでは年確無しで売ってくれた。私がいつも修二くんと来ているのを知っていたのだろう。乳臭い私に煙草を売ってくれてありがとうございます。 　氷が溶けて薄くなった飲み物を修二くんは飲まない。結露してびちゃびちゃになったテーブルも放置するし、そのせいで煙草の箱がふにゃふにゃになると丸ごとごみ箱に捨ててしまう。そこで怒鳴り声をあげるような人でないから優しい人だと勘違いしてしまう。ただ声を上げて他人を威圧するのが面倒なだけだと知っているのに。 「ただいま」 　リビングに入ると彼はいなかった。途端に甘くとろけるような香りがしてきて、あまりの衝撃に鼻血が出ているように錯覚した。 「修二くん？」 　知った香りに誘われるようにキッチンを覗くと、長い脚を絡ませながらひょろひょろの背中をこちらに向けていた。私が着るとワンピースになってしまうあのシャツも、彼が着ればただの部屋着になった。 「お、イイとこに帰ってきたじゃん」 「何してるの？」 「ナマエちゃんが桃切って待ってろって言ったんだろ。薄情な奴だな」 　シンクの方を向いていた彼がこちらを振り返ると、その手には桃と包丁が握られていた。しかし桃はまだ白い部分を微かにしか見せておらず、ほとんどは産毛の生えた淡いピンク色をしている。 「ここ舐めてくんね。びっちゃびちゃ」 　持ち上げられた腕を見ると、肘まで果汁が流れてきていた。動かした衝撃でまた搾られた果汁が流れ着き、大きな雫になって滴りおちようとしているところだった。 「わ、ちょっと、あぶな、」 「お、セーフ。流石ナマエちゃん」 　ムードも恥ずかし気もなく彼の肘にむしゃぶりついた。舌が触れた時の感触を覚えていないのは惜しかったが、桃の果汁が甘く熟れていることだけはわかった。手首から肘にかけて果汁の通り道ができているのが見えて、そこも舐めとる。 「積極的じゃん」 「次またこぼしちゃったらもったいないでしょ」 　こんなに甘い汁でも、服に落ちると茶色い染みになって落ちないのだ。彼はそんなことは知らないし、茶色い染みなら古びた血痕の方が何倍も見慣れているに違いない。
June 29, 2025 at 8:27 AM
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show me, show you3
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Show me, show you」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 「やっと届いたね！」 「オレの卒業アルバムなのに、なんでお前の方が嬉しそうにしてるんだ？」 　マヒルの高校の卒業式から一週間と少し。卒業式当日の写真も収めるために遅れて家に届けられたアルバムを、確かにマヒルの言う通り私は心待ちにしていた。それはマヒルと私のツーショットが載っているかを確認するためではない。 　目次や教職員の紹介ページをさっさと飛ばし、目的のページを探す。クラス紹介のページが始まると、迷いなくマヒルが在席していたクラスまでめくった。 「……そんなにオレのクラスの中に気になる奴でもいたのか？」 「いたよ。でもずっと聞けなかったから、今日やっと聞けると思って」 　目当てのページにやってくると、真っ先にマヒルの顔写真に指を置いて問う。 「この人は誰？　私の周りがみんなかっこいいって噂してたから気になってたの」 「こいつはやめておけ。好きな奴がいるんだ」 「……誰」 「知らないのか？　オレたちの学年じゃ、知らない奴はほとんどいなかったんだけどな」 　わざとらしく顎を擦りながら懐かしむように視線を上げるマヒルが憎くて膝の上に飛び乗るが、平然とした顔で背中を片手で抱き寄せられた。もう片方の手は勿論私の頭の上だ。 「こんなに可愛くて美人な奴が相手ならしょうがない、ってみんな諦めてた」 「みんなマヒルのこと好きだったんだ」 「そう意地悪言うなよ」 くる。いつだって安心と温もりをくれるあなたが大好きだと想いを乗せて、私も抱き締め返した。
June 7, 2025 at 1:47 PM
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show me, show you2
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Show me, show you」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 「やっと届いたね！」 「オレの卒業アルバムなのに、なんでお前の方が嬉しそうにしてるんだ？」 　マヒルの高校の卒業式から一週間と少し。卒業式当日の写真も収めるために遅れて家に届けられたアルバムを、確かにマヒルの言う通り私は心待ちにしていた。それはマヒルと私のツーショットが載っているかを確認するためではない。 　目次や教職員の紹介ページをさっさと飛ばし、目的のページを探す。クラス紹介のページが始まると、迷いなくマヒルが在席していたクラスまでめくった。 「……そんなにオレのクラスの中に気になる奴でもいたのか？」 「いたよ。でもずっと聞けなかったから、今日やっと聞けると思って」 　目当てのページにやってくると、真っ先にマヒルの顔写真に指を置いて問う。 「この人は誰？　私の周りがみんなかっこいいって噂してたから気になってたの」 「こいつはやめておけ。好きな奴がいるんだ」 「……誰」 「知らないのか？　オレたちの学年じゃ、知らない奴はほとんどいなかったんだけどな」 　わざとらしく顎を擦りながら懐かしむように視線を上げるマヒルが憎くて膝の上に飛び乗るが、平然とした顔で背中を片手で抱き寄せられた。もう片方の手は勿論私の頭の上だ。 「こんなに可愛くて美人な奴が相手ならしょうがない、ってみんな諦めてた」 「みんなマヒルのこと好きだったんだ」 「そう意地悪言うなよ」 「だから、そもそも受け取ってすらないんだ」 　パラパラとページを捲り、他のクラスのページにやってきた。 「お前が見てたのはこいつだろ。それとこいつ。どっちもその場で突っ返してたのまで見てただろ」 「あんなの見せられたって、いつももらってるんだっていう証拠にしかならないよ」 　今度は仕返しとばかりにマヒルの頬を両手で包み、左右に揺さぶる。私の片手では、とても両頬を掴めそうにはなかった。 　次はどうしてやろうかと考えていると、片方の手にマヒルの手のひらが添えられた。やはり私の手は簡単に覆い隠されてしまい、なんだか負けた気になる。擦り寄るように頬を押しつけられると、なぜか縋るような目で見つめてくる。 「お前だって、バレンタインにクラスの男から渡されたチョコを美味そうに食ってただろ。受け取ってた分、お前の方が罪が重い」 「チョコに罪はないよ。美味しかったし、マヒルに見つかったせいでお返しもできなかった」 「じゃあ弁当にも罪はないだろ。あの弁当、オレが食っててもお前は何も言わなかったか？」 　バレンタインのチョコと何でもない日に渡されたお弁当を比較されるのは気が食わなかったが、もしマヒルがあのお弁当を食べていたらと考えると、言い表せない気持ちの悪い虫が身体の中を這いずり回るような気分だった。おばあちゃん程近くなく、友だちと行くファミレスで料理を作る人のような他人でもない。その嫌な距離の近さを想像すると、思わず背中が震えるくらいだ。 「お前は、オレ以外が作った弁当を食うのか？」 　頭の中まで見透かすような真っ直ぐな視線に見 つめられる。射止められたようにその場から動けなくなりそうだった。 「おばあちゃんだって、お弁当作ってくれるよ」 「……そうだな。オレもばあちゃんが作る弁当は好きだよ」 　ふい、と視線を逸らされ、いつの間にか握られていた手はゆっくりと離される。まるで私が誰かからもらったお弁当を食べてしまったのを叱られていたような気分だ。 　すっかり卒業アルバムを楽しむような雰囲気ではなくなってしまった。クラス紹介のページを見ていられなくなり、何か別の話題になるものはないかと探していると、授業や昼休みを写したページを見つけた。 「……このお弁当箱」 　彼の手にはとても小さく見える林檎の形をしたお弁当箱を持ちながら男の子と笑い合うのは、まさしく高校生をしているマヒルだった。 「撮影が入る日がわかってたからお前が用意してくれたやつだ。覚えてるか？」 「うん。なんか、こんな風にマヒルの卒業アルバムに一緒に載れるとは思ってなくて、うれしい」 　素直な気持ちをそのまま言葉にすると、さっきまでの湿度のある空気はすぐに消え去る。友だちと楽しそうにしているマヒルを見つけては指をさし、その写真を撮った時のことを教えてもらう。 「こいつ、さっきお前が最初に指をさした奴とは反対側の隣に写真があった奴なんだけど、わかるか？」 　ページを繰っていくと部活の写真が並ぶ。バスケ部の仲間たちと肩を組んでいる写真の中から一人を指さして聞かれる。顔になんとなく見覚えが あり、どうにか記憶を辿っていくと思い当たる節があった。 「この人、前にマヒルと私に肉まん奢ってくれた人じゃない？」 「そうだ。この後お前の連絡先を欲しがってたから殴っておいた」 「殴ったの！？」 「殴ってはないけど、釘を刺したって言うか」 　懐かしそうに小さく笑みを浮かべながらアルバムを見ているマヒルはなんだか楽しそうでもあり、呆れてもいるように見える。あのガキ大将だった頃の彼を思い出すと、体格の良い高校生になったその拳では小さな事件にでもなってしまいそうだと心配になってくる。 「連絡先くらい渡してもいいのに」 「大切な妹なんだ。こんな奴近づかせられるかよ」 「こんな奴なんて言って」 　私がページを捲ろうとした手を遮ってマヒルが何人かを指さしていく。 「こいつも、こいつだってそうだ。オレと一緒に帰るお前を見て可愛いだのなんだの言って狙ってたんだぞ」 「可愛いのは事実でしょ」 　体育祭の写真でもきっとマヒルは目立つところに写っているだろうと楽しみにしていたが、そのページが開かれることはなかった。 　Ｅｖｏｌを使ってアルバムを閉じて奪い去り、ソファの端まで飛ばしてしまう。急いで手を伸ばしたものの、その手は空を切るだけだった。 「マヒル！」 「お前はオレのクラスの女子ばかり気にしてたみたいだけど、そんなのオレの眼中に無かった」
June 7, 2025 at 1:46 PM
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show me, show you1
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「Show me, show you」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 「やっと届いたね！」 「オレの卒業アルバムなのに、なんでお前の方が嬉しそうにしてるんだ？」 　マヒルの高校の卒業式から一週間と少し。卒業式当日の写真も収めるために遅れて家に届けられたアルバムを、確かにマヒルの言う通り私は心待ちにしていた。それはマヒルと私のツーショットが載っているかを確認するためではない。 　目次や教職員の紹介ページをさっさと飛ばし、目的のページを探す。クラス紹介のページが始まると、迷いなくマヒルが在席していたクラスまでめくった。 「……そんなにオレのクラスの中に気になる奴でもいたのか？」 「いたよ。でもずっと聞けなかったから、今日やっと聞けると思って」 　目当てのページにやってくると、真っ先にマヒルの顔写真に指を置いて問う。 「この人は誰？　私の周りがみんなかっこいいって噂してたから気になってたの」 「こいつはやめておけ。好きな奴がいるんだ」 「……誰」 「知らないのか？　オレたちの学年じゃ、知らない奴はほとんどいなかったんだけどな」 　わざとらしく顎を擦りながら懐かしむように視線を上げるマヒルが憎くて膝の上に飛び乗るが、平然とした顔で背中を片手で抱き寄せられた。もう片方の手は勿論私の頭の上だ。 「こんなに可愛くて美人な奴が相手ならしょうがない、ってみんな諦めてた」 「みんなマヒルのこと好きだったんだ」 「そう意地悪言うなよ」 　ぐしゃぐしゃにかき混ぜられた髪がシャリシャリと直接頭の中に響く。上手く抱え直され、ソファに座るマヒルの太腿の間に座らせられた。お腹に回った太い腕は私を離さないと暗に伝えてくる。 「なんでオレが卒業するまで聞かなかったんだ？」 「なんだっていいでしょ」 「そんなこと言う奴はこうだぞ」 　そう言うと私の脚を挟み込み、ぎゅっと力をこめて拘束された。お腹に回されていた腕が二本に増えたかと思うと、マヒルの両手の指が脇腹を走り回った。 「きゃ、ちょっと、まひ、やめてってば！」 「やめてほしかったら本当のことを言え」 「言わない！」 「頑固者め」 　追い詰めるようにくすぐる手を止めるために本当のことを白状するのは、なんだか彼に負けたような気がして気が進まない。しかしそんな悠長なことを言っていられそうもないかもしれない。身を捩りながらどうにか彼の拘束から抜け出そうともがく程にソファの座面から滑り落ちていく。 「まだ降参しないのか？」 「言うよ、言う！」 　マヒルの太腿の付け根に頭をもたげるまでくすぐられた私にできるのは降伏することだけだった。 　その場で横になりながら息を整えていると乱れた前髪を整えてくれる。ついでに目尻を濡らしている涙を拭い、鼻の先をつつかれる。 「で、このお転婆娘は何を考えてたんだ？」 「卒業したら、あなたに毎日会えるのはクラスメイトじゃなくて私になるでしょ？」 「……そうだな」 　一瞬だけマヒルの瞳の色が深くなる。しかしそれは一度の瞬きのうちに消えてしまい、片眉を上げて続きを促される。 「……だからだよ！」 　全部を全部話してしまうのはなんだか癪で、別にマヒルのくすぐりに負けたわけではないと主張するように背を向ける。整えてくれた髪がまたパラパラと顔の前を流れ落ちていくが、カラカラと軽快な笑い声をあげたマヒルがまた丁寧に指先でそれらをすくい上げ、耳にかけてくれる。 「オレのことを独り占めしてる実感が欲しかったのか？　そんなもん、クラスの奴がいようと関係ないだろ」 「関係あるの！　教室でもバスケコートでも人気者のマヒルにはわからないだろうけど！」 「お前、学校中の奴らに嫉妬してたのか？」 　頭を撫でられると、その大きな手は耳の端までを掠めていく。私に触り慣れているその手は気持ちのいい力の入れ具合で地肌を掠め、そのまま髪を梳いていく。今この手が私だけに触れているという事実に酔いそうだった。 「マヒルだって同じなくせに」 「じゃあ、オレたちのお揃いのものがまた増えたってことだ」 「……うれしそうだね」 「まあな」 　頭を撫でていた手が耳を伝って下りてきて、輪郭をなぞって顎までやってくる。動物にするように首にかけてを指先で擦られると、微妙な感覚から逃げるためか自然と顎先が上がってしまう。 「他に気になってた奴はいるか？　お前が気に なってた奴でも、『周りが』気にしてた奴でもいい」 　マヒルにくすぐられるままにされていたが、その言葉に曖昧になりそうだった浮ついた心が再度浮上してくる。向けていた背中を彼の太腿につけるように寝返りを打つと、脇の下に両手が差し込まれて持ち上げられ、そのまま太腿の上に座らせられる。 　他に気になっていた人。むしろ、マヒル以外の全員が気になって仕方がなかった。隣に顔写真が並んでいる女子生徒も、このクラスの中で一番可愛いこの生徒も、きっとマヒルのことが『気になっていた』に違いない。でも、卒業した今となってはすべてが過去のことだ。 「そんなに黙り込むくらいたくさんいるなら、オレがひとりひとり話してやろうか？」 「……じゃあ、この人」 　当たり障りなく、マヒルの隣に並んだ彼女を指さした。利発で賢そうな顔つきで、ショートカットなところを見ると運動が得意な子なんだろうと勝手に推測する。高校では体育の授業は男女分かれて練習をすることが多いと聞いていたが、関わりが断たれるわけではない。バスケの練習だって彼女としていたかもしれない。 「こいつか？　日直代わってくれたり、たまにチョコとかくれた奴だ。お前に渡してただろ」 「あ、チョコミントのやつ？」 「そうだ。お前あれからしばらくハマってたよな」 「自分で買うほど好きじゃなかったと思ってたんだけど、マヒルからもらったの食べてみたら意外と美味しくて」 　思い出していると程よく鼻に抜けるミントの爽
June 7, 2025 at 1:45 PM
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わたし(丸)2
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「わたし(丸)」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　日がさす時間が長くなったからか、最近アイツも調子を取り戻したようだった。コイツのためだと湿度や日照時間の計測を行い、時には日光を一切当てずに過ごさせ、指先で摘めばそれだけで折れるような細い針がついた注射器で給餌もした。妖精か何かのような不確かな存在に人間らしいサイクルがあることがわかり、太陽に似た明るさを人工的に与えれば活動量やあるかもわからない精神的な安定感すら見せるようになった。 　一時期は二十四時間その場から動かないこともあったが、生活環境に手を加えてやることでケース内で動きが見られるようになった。時間のある時にケースから出してやれば、もうケース以外に何も置かれていないデスクの上を散策するように動き回る様子を見せている。手のひらを差し出すと頬の辺りを押しつけてきたり、身体を弾ませて飛び乗ってきたりする。 　ケース内にいる時間が長いからか体力がつかないコイツだが、それでも最近の調子の良さを見ているとそろそろ行動範囲を増やしてもいい頃かもしれない。デスクの端から落とすようなことは決してないが、だんだんと動く範囲を広げてきたコイツを引き止めるために手で囲いを作ると口で吸いつくように抵抗してくるようになった。 　その小さな変化のひとつひとつが自我や記憶が安定してきた頃の妹と重なり、どうしようもない気持ちになる。いつまでここに閉じ込めておく気だと自分に問いかけては、コイツが安全に暮らせるのに何が問題なんだと毎日変わらない結論に至る。コイツだって痛い思いも悲しい思いもしたくないはずだ。薄膜にゼリーを詰めただけのようにやわらかいコイツにはオレのＥｖｏｌは相性が悪 感覚に、どう対処していいのかわからなくなる。アイツらの口元に袋を近づけて背中を摩ってやったのは、正しい方法だったのだろうか。 「ケースは、違う、なんで部屋から出てるんだ」 「ここに来ちゃだめだろ」 「それよりお前、そ、それは」 　勿論返事はない。いつもそうだった。タイミング良く聞こえてきた鳴き声をオレの問いかけに対する返事だと思い込もうとしていただけで、コイツにはオレの言葉を理解する能力はたぶん無い。 　矢継ぎ早に言葉を絞り出す。食ったものが半分溶け出した胃液が駆け上ってくるのよりも早く、額に滲む脂汗よりも早く、だんだん狭まってくる視界よりも早く。まだ革の手袋をつけたままなのも忘れて手のひらを差し出す。真っ黒な革手袋をコイツはいつも嫌っていた。それはこんな時でも変わらないようで、指先が震えるせいで伸ばした手が少し触れてしまうと、身体を揺らして離れようとする。 　しかし歪に歪んだその身体では上手く方向転換ができなかったのか、その場に転がるように倒れてしまう。昨日までは飛び跳ねるようにして元気に動いていたはずが、波打つように奇妙な痕がついてしまっているせいで上手く移動もできないらしい。 　波打っている？　オレ自身もまだ目の前の光景を理解できていないらしい。数時間前に家を出る時は真ん丸でこちらを見上げていたコイツが、なぜか今は奇妙に潰れている。頭の先っぽに付いたそこは無事だったようだが、幾分か小さくなっているようにも見える。 「何があったんだ。……答えてくれ」 「ぽ？」 　初めて聞く鳴き方なのに、鳴き声は変わらずコイツのものだと脳が勝手に理解している。発声に関する部分が変形した影響なのだろうか。よく見ると潰れた部分が片方の目を隠してしまいそうになっていた。力の入らない指先で苦労して革手袋を外し、その部分だけでも治してやろうと手を伸ばすが、どうにも震えが止まらない。触れたい箇所に照準を合わせることすらできず、優しく触れた部分がまた形を変えていく。 「答えてくれ、なんで、どうやってケースから出てきたんだ」 　これ以上オレから触れば、それだけで形を変えてしまいそうで恐怖から少し手を引き戻す。しかし自らの力だけでは動きにくいからか、乗せてくれと言うようにオレの手のひらに身を寄せようとするコイツの頭の先っぽが小指の真ん中にゆっくりと触れる。 　咄嗟にコイツを手のひらの屋根で覆って隠し、そのすぐ傍に胃の中身をひっくり返す。限界だった。目を開けているはずなのに閃光弾を直視したように真っ白で真っ暗な視界も、ビリビリと痺れるように何かに反応している脊椎も、力を籠めれば籠めるだけ大きくガクガクと震える腕も。 　自分の吐瀉物を枕にしてでもいい、今すぐにこの場で眠りたかった。急激な眠気に生命の危機を感じると同時に、すぐ傍にいるコイツのことを思い出してどうにか体勢を戻す。 　口内に残った酸味のある唾液をその場に吐き捨て、ゆっくりと手のひらを避ける。オレの異様なザマに驚いているようだったが、その目は数時間前に最後に見たのと同じ目だった。 「……誰に、やられた」 　粘ついた喉奥から他人のような声が出てくる。歯を噛み締めた時に吐き出しかけていたらしい何かの欠片を潰してシャリ、と小さく鳴った。 　返事はない。所在無さげにゆらゆらと揺れた頭の先っぽがオレの方を指している。早くここから移動させろということだろうか。我儘放題に育った妹にそっくりだ。まったく、オレがいないと何もできないところまでアイツに似てしまったのだろうか。 　びちゃびちゃに濡れて汚れた玄関からすくうようにコイツを手のひらに乗せて立ち上がる。いらないものを吐き出せたおかげか、幾分かさっきまでよりはマシな気分だった。ひとまずコイツはケースで休ませよう。部屋のドアを開けた。
May 24, 2025 at 4:51 PM
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わたし(丸)1
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「わたし(丸)」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　日がさす時間が長くなったからか、最近アイツも調子を取り戻したようだった。コイツのためだと湿度や日照時間の計測を行い、時には日光を一切当てずに過ごさせ、指先で摘めばそれだけで折れるような細い針がついた注射器で給餌もした。妖精か何かのような不確かな存在に人間らしいサイクルがあることがわかり、太陽に似た明るさを人工的に与えれば活動量やあるかもわからない精神的な安定感すら見せるようになった。 　一時期は二十四時間その場から動かないこともあったが、生活環境に手を加えてやることでケース内で動きが見られるようになった。時間のある時にケースから出してやれば、もうケース以外に何も置かれていないデスクの上を散策するように動き回る様子を見せている。手のひらを差し出すと頬の辺りを押しつけてきたり、身体を弾ませて飛び乗ってきたりする。 　ケース内にいる時間が長いからか体力がつかないコイツだが、それでも最近の調子の良さを見ているとそろそろ行動範囲を増やしてもいい頃かもしれない。デスクの端から落とすようなことは決してないが、だんだんと動く範囲を広げてきたコイツを引き止めるために手で囲いを作ると口で吸いつくように抵抗してくるようになった。 　その小さな変化のひとつひとつが自我や記憶が安定してきた頃の妹と重なり、どうしようもない気持ちになる。いつまでここに閉じ込めておく気だと自分に問いかけては、コイツが安全に暮らせるのに何が問題なんだと毎日変わらない結論に至る。コイツだって痛い思いも悲しい思いもしたくないはずだ。薄膜にゼリーを詰めただけのようにやわらかいコイツにはオレのＥｖｏｌは相性が悪 い。何か危険があった時に引力操作で助けてやるというのは心配が残っていた。繊細な操作ができないわけもなかったが、もしオレのこの力で少しでもコイツに害を与えてしまったらと思うとどうにも気は進まなかったが、この部屋程度の広さであればオレの目の届く範囲だろうとも思える。 　ケースの前に座るのにそこを開けようともせずに無表情で動かないオレを見ているコイツが不思議そうな顔でこちらを見ている。表情らしい表情が出てきたのも最近のことだった。精神だけでなく表情筋や言語を理解するための構造がこの内側に備えられているのかもわからなかったが、拾ってきた当初と比べれば目が変わったのは間違いない変化だった。 　そんなことを思案しながらケースの扉に手をかけてカチリと少しの抵抗を感じながら扉を開けた時だった。閉じたドアの向こう、リビングに置いてきた端末がダイニングテーブルの上で震えて不気味な音をたてているのを耳が拾う。パイロットになるのには十分健康だった、健康すぎた自分の身体が憎い。しかし家畜のようにコントロールされるのに慣れたオレは無意識のうちに立ち上がり、一秒でも早くそのバイブレーションを止めようと足早にリビングに向かった。 　一言めから困惑と焦りを隠しきれていない部下の声に思わず溜め息が出た。状況を説明されて通話越しにいくつか指示を出したものの、それだけでは現場を治めることはできなかったようで出動を依頼される。歯切れの悪い言葉に婉曲に婉曲を重ねた表現でそれを伝えようとしていたのを聞いた上層部が呆れたのか、急に雑音と唸り声がした後でしわがれた声に変わって「命令だ」とだけ付 け加えられた。 　心拍数に変化はない。しかしその拍動ひとつひとつが重く肋骨を打ち鳴らす。鼓膜まで震わせるそれは、正しく怒りを表していた。通話が切れて真っ暗な画面だけが静かにオレの出動を待っている。身一つで行って現場を片付けて帰ってくる。この場で下せる最良の判断だと思った。 　家を出るのをわざわざ知らせに行くほどの時間は留守にしない。それよりも他の部屋にいると思わせた方がいいだろう。怒りに任せて床を踏み抜きそうなくらいに足音をたててやりたかったが、その衝動を抑える。そっと扉のロックを解除したが、叩きつけるように閉めることは我慢できなかった。キ、と引き攣るような音が鳴ったのが聞こえた。帰ってきてから油を注そう。アイツの鳴き声以外の音は、オレの部屋に必要ない。 ▽ 　想定していたよりも時間がかかった。完全に日は沈み、人の生活が忘れられたように静かで暗い夜だった。いつもは鬱陶しいほどに吹き荒ぶ風すらもなく、むしろ違和感を覚える。 　ドアの施錠を解除して少し手前に引くと、普段とは違う抵抗を感じる。何かが挟まったように一瞬重たく感じたが、それはまた同じく一瞬のうちに消えていく。馴れ親しむと言えるほどこの家に愛着もないが、回数を数えられない程度には触ってきたこの感触を間違うはずはない。 　まずはアイツに無言で家を空けたことを謝らなければと思っていたのも吹き飛ぶ。侵入者がいたのであればそいつがまだ家の中のどこかに隠れている可能性も否定できない。そいつがケースの中 にいるアイツに気づいていれば何をされるかもわからない。ここにいれば安全だから、外は危険だからと閉じ込めておいたのに。アイツひとり守れなくて何が兄だ。 　何も考えずにドアを開けてしまったせいで、もし家の中にまだ相手が潜伏しているのだとしたら既にオレが帰宅したことに気づいているかもしれない。対人用の銃を構え、ひと呼吸おいてから一気にドアを開け放つ。立てこもり犯のいる現場を制圧する警察のように自宅の中に潜んでいるかもしれない相手を警戒したが、そこにはオレが家を出た時と同じ色もにおいもない無機質な空気が漂う廊下が見えるだけだった。とても他人に侵された後とは思えない様子に眉を顰める。手練れの犯行か、それとも既に中の物色は終わった後なのか。 「……誰かいるのか」 　銃を構えたまま虚無に問う。裂くように放った声に対して、家の中の空気は震えなかった。これでまだ中に誰かいるのだとしたら相当な実力者だ。いつでもＥｖｏｌは使えるように気を張ったまま、銃は下ろして玄関にゆっくりと入る。ブーツが床に当たる音すらも嫌に響いて聞こえた。 「ぽ？」 　瞬間的に銃を構えて背後をとられるのを警戒して振り向く。半分閉まりかけたドアだけがのっぺらぼうのように目の前に立ち尽くしている。外に誰かいるのかとしばらく膠着状態が続くが、人が動く様子はなく、呼吸を止めて力任せにドアを蹴飛ばす。そのまま一歩大きく外に踏み出して左右を確認するが、ドア裏まで調べてもそこには誰もいなかった。 「……何が目的だ」
May 24, 2025 at 4:49 PM
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La Mer(e)3
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「La Mer(e)」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　筆に添わせる白く細い指。でもそれが私の指に絡まると、思っていたよりも大きく、簡単にすべてを包み込まれてしまうことを知っている。砂浜の白砂をすくい上げると貝殻の欠片が混ざって太陽の光を反射するように、ホムラの手も指先もほんのりと輝いて見える。 　小さな貝殻や蟹、ヤドカリを摘まんで見せてくる時も、私の目も脳も摘ままれた生き物だけでなく彼の指先、手首までを含めて海からの贈り物だと認識しているようだった。砂浜を走る蟹やヤドカリは壁に立てかけられただけのキャンバスで、ホムラの指に捕獲されることによって額縁に収まるように感じる。 　美術館に一緒に行くと、彼はたまに額縁にケチをつける。絵を描くことだけにこだわっていてはだめだと。 「流石、有名な先生の言うことは違うね」 「有名か無名かなんて関係ないよ。自分の魂を切り分けて作った作品を、どうして蔑ろにできるのか、って話さ」 　その帰り道、インスピレーションのために、という理由で連れてこられた海岸で小さな貝殻を二人で集めることになった。 「僕はこっちの袋に集めるから、君はこの袋に貝殻を集めて。それぞれの貝殻が混ざってしまったらいけないから」 「だめなの？」 「額縁の力を知りたくないかい」 　いたずらな双眸がこちらを見上げる。彼のアメジストの髪が砂浜の白にやわらかく光を受けていた。しゃがみ込んでいるホムラから差し出された袋を受け取り、小さく駆けて距離をとる。 「私は向こうで探してくる」 「気をつけてね、大きな貝殻じゃなくていいから。さっき君が食べたパンケーキについてきたバターくらいの大きさがちょうどいい」 「ホムラのパエリアに入ってたムール貝は？」 ゆっくり浸かっていて」 　そう言うと爪切りを取りに行くわけでもなく、作業をしていたテーブルを片付け始める。フレームを倒さないように端に避けてから、二人の貝殻を置いていた皿、接着剤や手を拭くために持ってきたティッシュなどをまとめていく。 「片付けなら手伝うよ。爪を切るならホムラが先にお風呂に入ってて」 「僕がこれから爪を切る理由が気になるかい？」 「そりゃそうだよ。夜に爪を切るのは危ないし」 　それを聞くと、せっかく片付けのために持ち上げた物たちをまたテーブルに置いてしまう。先にお風呂に入る気になってくれたのかと思ったが、彼の手は今度は私の手を持ち上げた。 「でも僕はこれから僕の宝物に触れるんだ。その子を傷つけないためにも、今これから爪を切って、やすりをかけなきゃいけない」 「たから、もの」 「そうだよ。大切な宝物さ。さっき拾ってきたばかりの貝殻には見せてあげられないくらいにね」 　持ち上げられた手の甲にしっとりとした唇が落とされる。肌のキメにまで染み込んでいくようなゆっくりとしたキスは、さっきの宝物の話は他の生き物には秘密だと言っているようだった。口ではないから舌を入れられるわけでもないのに、深いキスをされているように身体を暴かれている気分になる。 「……ッ、ホムラ、」 「どう？　待っていてくれるかい」 　上目遣いで見つめられてはいるものの、私に拒否権はなかった。 「っ、わかったから！」 　キスをされたのとは反対の手でホムラの頭を抱き寄せ、流れのままに額にキスをする。彼の頭の骨と自分の歯に挟まれた唇が圧迫されて痛かったが、そんなこ とは気にしていられない。 「ほら、ホムラが鬼なんだから、ちゃんと追いかけてきてよね！」 　ここは砂浜とは違い、硬い大理石でできた床だ。踏み込むとそれと同じ力が跳ね返ってくる。助走もなしに走り出したにしては良いスピードが出た。 　肌の白いホムラの頬がどんな風に色づいたかも見れずに振り返ってしまった。でもきっと、私の顔だって彼に負けないくらいに赤くなっているはずだ。これがお風呂で温まっていたせいだと言えるように、この勢いのまま浴室を目指した。
May 6, 2025 at 6:44 AM
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La Mer(e)2
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「La Mer(e)」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　筆に添わせる白く細い指。でもそれが私の指に絡まると、思っていたよりも大きく、簡単にすべてを包み込まれてしまうことを知っている。砂浜の白砂をすくい上げると貝殻の欠片が混ざって太陽の光を反射するように、ホムラの手も指先もほんのりと輝いて見える。 　小さな貝殻や蟹、ヤドカリを摘まんで見せてくる時も、私の目も脳も摘ままれた生き物だけでなく彼の指先、手首までを含めて海からの贈り物だと認識しているようだった。砂浜を走る蟹やヤドカリは壁に立てかけられただけのキャンバスで、ホムラの指に捕獲されることによって額縁に収まるように感じる。 　美術館に一緒に行くと、彼はたまに額縁にケチをつける。絵を描くことだけにこだわっていてはだめだと。 「流石、有名な先生の言うことは違うね」 「有名か無名かなんて関係ないよ。自分の魂を切り分けて作った作品を、どうして蔑ろにできるのか、って話さ」 　その帰り道、インスピレーションのために、という理由で連れてこられた海岸で小さな貝殻を二人で集めることになった。 「僕はこっちの袋に集めるから、君はこの袋に貝殻を集めて。それぞれの貝殻が混ざってしまったらいけないから」 「だめなの？」 「額縁の力を知りたくないかい」 　いたずらな双眸がこちらを見上げる。彼のアメジストの髪が砂浜の白にやわらかく光を受けていた。しゃがみ込んでいるホムラから差し出された袋を受け取り、小さく駆けて距離をとる。 「私は向こうで探してくる」 「気をつけてね、大きな貝殻じゃなくていいから。さっき君が食べたパンケーキについてきたバターくらいの大きさがちょうどいい」 「ホムラのパエリアに入ってたムール貝は？」 らなかったのか、それとも大体の構図が決まったのか、彼のその行動を見ているだけではどちらなのかはわからなかった。フレームを持ち上げ、表と裏を交互に見ながら続ける。 「色を塗り替えても良かったんだけど、乾くのを待っていたら朝になってしまうね」 「砂浜で太陽をたくさん浴びてたから疲れちゃったよ」 「じゃあ今回は貝殻だけで完成させよう」 　フレームを持っていたのとは反対の手で鼻先をつつかれる。 「鼻の頭が赤くなっているよ。夏みたいに暑い日も増えてきたし、これから気をつけないといけないね」 「あなただって肌が白いんだから日焼けには気をつけないと」 　こちらも負けじとホムラの鼻先にキスをする。砂浜から帰ってくる時にも交互にキスをするものだから、結局どちらが鬼なのかがわからなくなってしまっていた。見つめ合いながらくすくすと笑い、気づけば腰に腕が回されていた。 「お互いにお互いの写真を撮るのも素敵だけど、こうして二人でいるところをもっとたくさん残しておきたいな」 「良い提案だね、僕も同じことを考えていたよ。絵も写真も、記憶だってたくさん積み重ねていこう」 　ちゅ、と一度だけ唇にキスをされる。 「ほら、鬼ごっこはこれで中断しよう。フレームを飾っている時に手元が狂ったら大変だ」 「キスで手元が狂っちゃうの？」 「……君の話をしているんだよ」 　そそくさと接着剤に手を伸ばしたホムラが頬をぷくぷくと膨らませている。初めて一緒にフレームを作る記念にこの顔を残しておきたかったが、さすがに機嫌を損ねてしまいそうなのでやめておく。しっかりと瞼のシャッターは切っておき、しっかりと記憶に刻みつ ける。 　ホムラに倣ってフレームに接着剤を伸ばしてから、自分が一切シミュレーションもせずに始めてしまったことに気がついた。 「あ～……」 「どうしたんだい」 「思いつきで先に接着剤を伸ばしちゃった。失敗」 「頭よりも先に身体が動く、君らしい創作の手順だ」 　小さな桜貝を丁寧に貼り付けてからこちらを向く。なぜかその瞳はやわらかく、愛しいものを見つめているようだった。失敗したのを慰めてくれているだけではなく、私の中のもっと奥にある何かを慈しんでいるような。 「手が先に出るって言われてるみたいだけど、当たってるよ。職業柄もあるかもしれないけど、その場その場で判断しないといけないことが多いからね」 「反対に僕は時間を使って何かを考えていることが多いから、手を動かし始めたら大抵は調子も乗ってくるけど、そこに辿り着くまでが果てしない時も多い」 　さっき貼り付けた桜貝のすぐ隣にまた似た形の桜貝を添える。蝶のように羽を得たその貝殻たちは今すぐにでも羽ばたいていきそうだ。 「芸術に、創作に正解なんてない。君が思いついたままに手を動かせばいいんだ」 「ホムラはセンスが良いからそんなことが言えるんだよ」 「大丈夫。僕は君のセンス、好きだよ」 　こんなに肯定してくれるとは考えていなかったので、「好きだよ」という一言が何度も頭の中を反芻する。もう彼は自分の作品に視線を戻してしまっている。少し立ち止まることはあれど、やはり完成形は既に浮かんでいるのだろう。 　数センチに接着剤を伸ばし、貝殻を並べる。その工程を繰り返している彼の指先が、時間と共にだんだん とその作品を完成に近づけているのを見ているのが楽しかった。 「……君、手が止まってる。伸ばした接着剤が乾いてしまうよ」 「あ、そうだった」 　慌てて大きめな貝殻をひとつ手に取り、角に乗せる。ひとつだけでも乗せられると、俄然やる気が出てくる。このまま進めているとフレームをすべて貝殻で埋め尽くしてしまいそうになるが、よく見るとフレーム自体の色がさっきまでいた砂浜の色に近いことに気づいた。 　ホムラの指先が海の欠片に触れると輝きを与えるが、戦闘に支障がないように短く切り揃えただけの私の指にはそんな効果はない。繊細な線が引けるわけでも、心を奪われるような色使いができるわけでもない。それでも私が拾い集めたこの貝殻たちが写真のフレームという砂浜の上では生き生きしていてほしいと願いつつ、今度は選んだ貝殻を乾き始めた接着剤の上に丁寧に乗せる。 　そうして手を進めていると、ホムラから少し遅れを取って完成させることができた。ひとつのことに夢中になっていると時間の流れは早く、達成感もひとしおだった。 「コツを掴んだのかい？　僕に見惚れていた割には早く終わったね」 「うん。貝殻たちの声を聞いてたんだよ」 「声？」 「みんなは砂浜のこの辺にいたよね～、って話しながら飾ってたの」 　最初に乗せた大きな貝殻に触れると、それはもう固まっていてほとんど動かなかった。始めの方に乗せていた貝殻たちは少し窮屈そうだ。もし本当に私が貝殻の声を聞けていたら、非難轟々だったかもしれない。 「でもやっぱりホムラのフレームの方が貝殻が生き生きしてるね。それぞれが調和していて、海からの贈り
May 6, 2025 at 6:43 AM
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La Mer(e)1
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「La Mer(e)」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　筆に添わせる白く細い指。でもそれが私の指に絡まると、思っていたよりも大きく、簡単にすべてを包み込まれてしまうことを知っている。砂浜の白砂をすくい上げると貝殻の欠片が混ざって太陽の光を反射するように、ホムラの手も指先もほんのりと輝いて見える。 　小さな貝殻や蟹、ヤドカリを摘まんで見せてくる時も、私の目も脳も摘ままれた生き物だけでなく彼の指先、手首までを含めて海からの贈り物だと認識しているようだった。砂浜を走る蟹やヤドカリは壁に立てかけられただけのキャンバスで、ホムラの指に捕獲されることによって額縁に収まるように感じる。 　美術館に一緒に行くと、彼はたまに額縁にケチをつける。絵を描くことだけにこだわっていてはだめだと。 「流石、有名な先生の言うことは違うね」 「有名か無名かなんて関係ないよ。自分の魂を切り分けて作った作品を、どうして蔑ろにできるのか、って話さ」 　その帰り道、インスピレーションのために、という理由で連れてこられた海岸で小さな貝殻を二人で集めることになった。 「僕はこっちの袋に集めるから、君はこの袋に貝殻を集めて。それぞれの貝殻が混ざってしまったらいけないから」 「だめなの？」 「額縁の力を知りたくないかい」 　いたずらな双眸がこちらを見上げる。彼のアメジストの髪が砂浜の白にやわらかく光を受けていた。しゃがみ込んでいるホムラから差し出された袋を受け取り、小さく駆けて距離をとる。 「私は向こうで探してくる」 「気をつけてね、大きな貝殻じゃなくていいから。さっき君が食べたパンケーキについてきたバターくらいの大きさがちょうどいい」 「ホムラのパエリアに入ってたムール貝は？」 「あれは大きすぎる。アサリくらいの大きさを探すんだ」 　そう言って二本の指で小さな丸を作ると、その真ん中からこちらを覗いてくる。 「できるかい？」 「もちろん！」 　同じ指を使って丸のマークを作って見せる。ホムラだけをこの映すレンズはシャッターを押せない。貝殻を拾いながらこっそり彼の後ろ姿をスマホで撮っておこうと決め、私も貝殻を集めるための場所を探すために歩き出した。 　貝殻は波打ち際に集まる。運が良ければ貝溜まりを見つけられるかもしれない。パンケーキ、バター、とお昼に食べたものを思い出しているとお腹が空いてくる。もし美味しそうな貝や蟹を見つけたらこの袋に一緒に入れて持ち帰ろう。今夜も海鮮パーティーになるかもしれない。 　白やピンク、時には砂と同じ色の貝殻も集めながらいったいこれを何に使うのだろうかと考える。離れた先にいるホムラを振り返ると、こちらに背を向けて真剣そうにしゃがんでいた。彼も私と同じように波打ち際に当たりをつけているようで、ひとつ拾い上げては砂浜に戻したり、もうひとつ摘まみ上げては近くに打ち寄せる波で貝殻を揺らして洗ったりしているようだった。 　ホムラはこれまでも数え切れないくらいこうしてひとりで貝殻を集めに砂浜に通っていたのだろうか。明るい時間から陽が落ちるまで、そして夕闇に自分の影が飲まれてからようやく夜が来たことに気づいてアトリエに帰る。なぜかそんな寂しげな物語を紡げてしまう背中だった。 　今は私がいるのに。 　分かれて貝殻を探そうと言い出したのは自分だったが、それは良い案ではなかったかもしれない。肩が触 れ合うくらいに近くに寄り添い、お互いがどんな貝殻に手を伸ばすのかを確かめ合う。そうして二人で一つの袋をいっぱいにするのではいけなかったのだろうか。 　潮風に靡く髪やシャツが首を背中を形取る。今までホムラ自身からの視点からでは見たこともなかったであろうこの後ろ姿を、ふと物として残しておきたくなった。彼の背中なら何度も何度も目で追ってきた。しかし私が見てきた彼の背中を、彼自身は知らないのだ。 　彼から見た私の姿はなんとなく想像ができる。写実的に描くことだって、印象的に描くことだってホムラには簡単だ。簡単であり、難しいらしいが、その絵の中の私はいつだって彼への愛で溢れていた。それはもう、恥ずかしいくらいに。 　私は彼のようには描けない分、どうしたら「私から見たホムラ」を伝えられるかを考えていた。真正面から撮ることも、横顔を撮ることもあるが、こうして海と砂浜の一部になっている彼は一番魅力的だった。すぐ隣にいない分、いつもと違う構図にもなる。写真に詳しいわけではないが、風景を大きくとることで、反対に魅せたいものを引き立てることもできるらしい。 　余程良い場所を探し当てたのかほとんど動きのない背中に感謝しながら、打ち寄せる波の動きを観察しつつ何度かシャッターボタンをタップする。カシャ、という機会音が彼の耳に届いてしまわないかと心配ではあったが、波の音がかき消してくれたらしい。バレてしまわないように撮った画像を確認もせずに急いでスマホをポケットにしまう。 　海の神様の悪戯か、ちょうどそのタイミングで立ち上がったホムラがこちらを向いた。 「そろそろ行こうか」 　少し声を張って私に声をかけてきた。どうやってその長い脚でしゃがみ込んでいたのかと聞きたくなるほど、こちらに歩いてくるホムラは背が高かった。 「この勝負、私がもらったよ」 「勝負を申し込んだ覚えはないんだけどな」 　自然と差し伸べられた手を取り、引き上げられるのに従って私も立ち上がる。案外長い時間座っていたのか、伸ばしてみると膝の後ろが少し痛んだ。 「砂浜で手を繋いで追いかけっこしたら、とってもカップルみたいだね」 「僕たち、カップルじゃなかったかい？」 「今はホムラ先生とそのボディガードだと思ってたけど」 「じゃあ、手を繋いだ今この瞬間から、僕たちは恋人同士に戻ったってことになる」 「そうなの？」 「そうさ。雇用主の僕が言うんだから間違いない」 　突然引き寄せられたせいでついホムラの胸の中に倒れ込んでしまう。やわらかなシャツに頬が触れ、その奥の鼓動まで伝わってくるようだ。 「追いかけっこじゃなくて鬼ごっこにしよう。鬼が相手にキスをしたら、鬼の交代だ」 　その言葉通り、音をたてて旋毛にキスを落とされる。鬼の交代の合図だった。 「ほら、僕にキスしてごらん」 　すぐ傍で囁かれ、うるさくなった心臓に気づかないふりをするためにすぐさまやり返そうとしたが、ダンスをするように華麗なステップで逃げられてしまう。 「ちょっと、逃げないでよ！」 「鬼から逃げるのが、今の僕の役目だからね」 「優秀なハンターである私から逃げられるとでも思ってるの？」 　助走のために踏み込んだ一歩目がずっしりと砂浜に沈む。バランスを崩さないように注意しながら次の一歩に意識を向ける。きっとホムラの方が砂浜を歩くのに慣れているから、離されてしまう前に捕まえなければ。
May 6, 2025 at 6:42 AM
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ため息を飲む
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「ため息を飲む」、「@schatten_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　この幸せで生ぬるいシーツに沈み込む感覚が気怠げで、浅瀬にいるのに抜け出せないようで、そこに伸ばされる手の温度が好きだと知った。顔に散らばったどこから来たのかもわからなくなってしまった髪の毛を丁寧に避け、知らぬ間に流れていたらしい涙の跡を指で拭われる。その後一言、名前を呼ばれる。 「シャワー浴びられるか」 「……う～ん、無理かな」 　まだ半端な覚醒しかしていない意識のまま答える。一度飛んでしまったらしく、次に目を覚ました時には綺麗になったシーツに包まれて寝かされていた。 「やっぱり俺に手加減は無理だ」 「そうみたいだね」 「悪い。傷つけたいわけじゃないのに」 「それはわかってるよ。セイヤが私を気遣ってくれないことなんてないじゃない」 　この行為を除いて、かもしれないけれど。 　セイヤがしてくれたことをきちんと覚えていたいと言ったのは私からだ。どんな顔で私を見ているのか、どんな風に愛してくれているのか、それを欠片も零さずに覚えていたいのに、いつも最後に身体が動かなくなって記憶も朧気なのは私だけだ。それをあえて「傷ついた」と表現すれば、優しい彼は眉を下げて申し訳なさそうにした。 　今回は必死になって彼の腰に脚まで回してしがみついていたというのに、達する時の筋肉の勝手な反応で、気づいた時には彼の膝裏に寄り添うだけになっていた。ひと息つけるかと彼に腕を伸ばすと、優しく抱き上げられたと思えばそのまま座位に変えられてしまった。 　そんなことが続き、気づけばまた事後だ。何度達したかなんて数えていられない。セイヤが何度吐精したかもわからない。汗で滑る背中と、それに逆らって爪を立てたこと。意識を保とうと背中を仰け反らせて快感から離れようとすれば、待ってましたと言わんばかりに首筋に吸いつかれたこと。端々の記憶はあるものの、これはまた失敗と数えていいだろう。 「あんたが覚えていなくても俺は全部覚えてる」 「それが、いちばん、恥ずかしいの」 　シーツに潜り込み顔を隠すと、近くに腰かけたセイヤの重みでベッドが沈む。そのせいで簡単に転がった私の身体は、もちろん抵抗することなく彼の方へずるずると引き寄せられてしまう。 「どうして急にあんなこと言い出したんだ」 「セイヤにはわかんないよ」 「わからないで終わらせたくないんだ。教えてくれないか」 「絶倫で体力お化けのセイヤにはわかんないよ、私の気持ちなんか」 　腰の鈍痛を逃がそうと背中を丸めるように動けば、まだ違和感の残る胎内が存在感を増す。小さく声を漏らすと、そっと腰を摩られた。 「痛むか？」 「……手加減してほしいわけじゃないの。ただ、一緒に幸せな思い出を覚えていたいだけなの」 　ぴたりと腰を摩る手が止まる。優しくて大きな手に包まれるように触れられるのが気持ちよかった分、これで終わりか、と少し寂しい気持ちになった。手を添えられた部分からじんわりと体温が染み込んでくるのが心地良かった。 「その言葉を聞くとどうしていいかわからなくな る。もっと気遣ってやりたいとも思うが、それ以上にもっと俺の気持ちを伝えたくて仕方なくなる」 　シーツの中が暗くなる。電気を消したように突然な出来事に、思わずシーツの端から顔を出してみる。 「さっきの言葉は訂正しよう。俺だって全部を覚えているわけでも無さそうだ」 　すぐ傍に腰かけていたはずのセイヤが私の上に跨るように覆いかぶさっていた。縋るようなその視線には見覚えがある。 「いつもあんたが俺に善がる姿に目眩がする。幸せで目の前が眩むんだ。ひと息でも吐くとそこから幸せが逃げそうで、そうならないようにいつも必死になってる」 　肘を折って顔を近づけられると、その訴えかけるような目がどうしようもない恋慕を孕んでいるのがわかる。ゆったりとした喋りが反対に性急な気持ちを伝えようとしているのを強調している。 「溜め息で幸せが逃げるって、本当だと思う？」 「信じてはいない。ただ、それを試すにはあまりにもリスクが大きい」 　何かを考えるように視線が下がった後、目を合わせたまま一度だけキスをする。ぴったりと唇の隙間を埋めるそのキスは、どうやってでも幸せを逃がそうとはしない意志が感じられた。 「じゃあ幸せの交換をするのはどう？　自分の幸せが相手のことを幸せにしてあげられるかも」 「それは良い考えだな。試してみよう」 　もう一度唇の位置を確かめるようにしっかりと口づけた後、どちらからともなく口内に忍び込んだ。漏れる吐息が絡まる熱が、幸せの温度だと主張しているようだった。
April 11, 2025 at 10:08 AM
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🎩🎂再掲
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「貴方のせいで」、「@eibisch_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　上司が仕事人間だと、それが部下に伝染することは言わずもがなだろう。その立場と立ち回りの判断の早さは生来持ち合わせている素質なのか、それともこれまで生きていく中で身につけざるを得なかったものなのかはわからない。それでも少しでもそこに近づけるようにと必死になって追いかけてきた。 　それでも未だに追いつけないものがある。あのコアラちゃんですらたじろぐ程のそれ。そう、彼は誰もが認める「要件人間」であるということだ。 　常に忙しく本部を、船内を、世界を駆け回る参謀総長を捕まえるのは仲間でも海軍でも政府でも難しく、電伝虫を通して雑談でもしようものならコンマ数秒で連絡を切られてしまう。世間話の類を毛嫌いしているとまでは言わないが、如何せんサボくんからの報告と指示を受けるか、わたしたちから報告や任務の進捗具合を連絡するくらいしか繋がることはほとんどない。端的で簡潔な説明力が求められるが、それをきっちりと守ったコアラちゃんからの通電すらものの数十秒で終わらせてしまうのだから、こちらも要件人間にならざるを得ないというものだ。 　そういうさっぱりとしたところに格好良さを感じると同時に、物足りなさも感じてしまうのはきっと、そこに上司への憧れという感情以外も含まれているからだろう。しかし任務や軍の中での役割のことを鑑みれば、自分だって自然と参謀総長に仕えるに相応しい程度の要件人間になるべきであり、実際そうなっていた。 　他の仲間たちに比べればわたしからの架電は繋がることが多くなり、それが自信に繋がればまた的確で明解な報告をする力だけがぐんぐんと伸び ていくのだ。期限が切れる直前の書類を目の前に仁王立ちするコアラちゃんからサボくんを救うべく、事務作業すら淡々と熟せるようにもなった。 　そうして仕事で頼られれば頼られる程、きっと恋愛からは遠のいていく。なんとなくわたしの気持ちを察しているコアラちゃんは、幾度となくサボくんと二人きりで作業ができる時間を作ったりどこでサボっているかもわからない彼を探しに行く役目を与えてくれたりしていた。同席して仕事をこなす場面が増える程、「総長」と呼ぶ機会ばかりが増えていく。寂しさと距離感を感じるのと同時に、自分の浮ついた感情を深く深く沈み込ませているようで律するためには良い薬になるかもな、くらいに思っていた。 「サボくん、今日誕生日だよ」 「…そうだね」 「お祝いもう伝えたの？」 「連絡入れる程じゃないよ。もしかしたら今日中に帰ってくるかもしれないし」 「絶対キミからの言葉を待ってると思うけどなあ」 「電伝虫の前で？」 　コアラちゃんと目を合わせると、二人して同じタイミングで吹き出す。今か今かと受話器の前で待機しているサボくんを想像していたんだろう。あり得ないとわかっているからこそ面白い。じっと座って待っているくらいなら催促の連絡を入れてきそうなものだから。 「ほら、かけてみなよ」 「やだよ！　本気だったの？」 　ずい、と電伝虫を差し出されてたじろぐ。ひと段落ついたからとコアラちゃんも休憩に入るのだろう。思わず両手を前に出してしまえば、そこに いつも使っている電伝虫が乗せられてしまった。 「じゃあ、ごゆっくり」 「ちょ、コアラちゃん！」 　片付け終わった資料をまとめて胸の前に抱えて出ていってしまった彼女の背中を間抜けな顔をして見つめる。そのまま視線を下せば、いつもは片手に余裕で収まっている電伝虫が両手の真ん中に鎮座している。 「……ほんとにかけるの？」 　恥ずかしくも思わず独り言が漏れてしまう。コアラちゃんがいなくなって話し相手もいなくなりシンとした室内の空気を掻き消すためにも、深呼吸をしてから受話器を持ち上げた。 「プルル、」 「え、」 　いくら受話器の近くにいたとしても、ワンコールすら鳴らさずに出られてしまい、声が出る。 『おれだ』 「あの、え、わたしです」 『待ってた。遅かったな』 「なに、を」 　忘れていた報告や定期連絡はあっただろうか。伝え漏れていた内容などあっただろうか。高速で脳みそを回転させるも、サボくんを待たせてしまっていた原因に思い当たる節がない。一体何を待っていたというのだろうか。 『忘れられてるかと思ったよ。コアラにせっつかれでもしたか？』 「あ」 　まさかこの人は、本当にわたしからの連絡を待って受話器の前で待機でもしていたのだろうか。帰還する船の上とはいえ、そんな過ごし方をして いていいのか、参謀総長。 「……あの」 『ああ』 「サボくん、お誕生日おめでとう」 『ありがとう。おまえから言われるのを待ってた』 「じゃあ、それだけなので。到着お待ちしてます、総長」 『あ、おい！待て、』 　焦った声を聞き流して急いで受話器を戻す。電伝虫が潰れたような苦しげな声をあげているのを聞いて、あまりにも力加減を忘れていたことに申し訳なく思う。 　しかし、もうそれ以上何も伝えることはできなかった。おめでとうと伝えることができて、それが彼にきちんと伝わった。いつもと変わらない、短い通話時間で的確な言葉だけを届けた。 　もっと他に伝えたい事や日頃の感謝を伝えても良かった気もするが、要件人間な総長のおかげですっかり教育されてしまっていたようだ。 　ひとりで恥ずかしくなって顔を押さえていて、自室に用意したままになっている小さなプレゼントを思い出した。彼が無事今日中に帰還し、ドラゴンさんへの報告を終えてしまえばきっとさっきの電話のことで詰められるに決まっている。 　彼と直接顔を合わせて「おめでとう」と改めて伝えることになるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなってきた。わたしも机上の資料を慌てて纏め、さっきまでここに座っていた彼女を追いかけるべく立ち上がった。
March 19, 2025 at 2:50 PM
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火のあたたかさ2 #新書ページメーカー https://sscard.monokakitools.net/pagemakers/shinsho/index.php
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「火のあたたかさ」、「@eibisch_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　息も白くなるくらい寒い夜だというのに、彼らといえば酒で身体を温めるという方法しか知らないようだった。服を着て温かいスープを飲んで、熱いシャワーを浴びて髪をしっかり乾かし、湯冷めをしないうちに布団に潜り込む。そういう方法を野蛮な脳みそは受け付けないらしい。 　寝巻きに着替え、肩にはブランケットを掛けていても寒いというのに、甲板の方で大騒ぎを続けている彼らは酔った勢いか、それとも漢気ジャンケンでもしたのか、下半身にはパンツだけの奴や上裸の奴までいた。鍛えられた海の男たちの上裸といえどもこんな冬の夜に見ていても身体の温まるものではない。 　またどこかで誰かが負けたようでドッと笑い声が大きくなる。呼吸をしているだけで鼻が痛くなりそうなのを無視できず、輪の中心にいるのが誰かも確認しないでわたしは船長室を目指した。 　この部屋に誰もいないのは言わずもがなだった。半日程前にこのベッドの主が身体を起こした時のままの形を残しているシーツに笑ってしまう。どちらかの脚で蹴飛ばしたのと、右手で勢いよく振り払うようにしてパックリと口を開けている簡素な掛け布団は、こうして見るとまたこのベッドに戻ってくる主を待ち望んでいるようにも見える。 　ベッドに腰をかけ、まずは両脚だけをぐちゃぐちゃのままのシーツに潜り込ませる。もちろんそこに温かみはない。良く使い古され、馴染みのよくなったシーツが絡まってくる。ここで眠るつもりはなかった、という言い訳なんて女に甘いあのベックでさえ信じてくれないのではないか、というくらいに自然と上半身を倒して寝転がっていた。 　萎びた枕に頭をもたげてからわかった。上等な が蠢く音がした。 「ん、ぅ」 「……おまえ、こんなところで寝てたのか」 　窓から射し込む水面に反射した月光からは隠れたところ、ベッドとクローゼットの間の狭い隙間に身を潜めるようにして彼女が眠っていた。暗闇に見えたのは羽織っているのが真っ黒なマントだったせいのようだ。 　眠っている人間特有のゆっくりとした呼吸に合わせて、暗闇に慣れた目が上下する肩を見つける。膝を折ってしゃがんでみたが彼女が起きる様子はなかった。 「そんなモン引っ張り出してきたのか」 　顔を埋めているのがマントの襟飾りなのを見て思い出す。昔どこかの島で雪山に入ろうとなった時にホンゴウとヤソップに押しつけられるようにして着せられたものだった。たしかにそれが暖かかったことを思い出し、彼女の記憶力に呆れる。こんなものがなければ彼女はとっとと諦めて自室に戻り、分厚く重たいブランケットでも頭からかぶってぬくぬくと眠ることができていただろうに。 　彼女には到底大きすぎてサイズが合っていないそれごと抱え上げてベッドに移動させてやろうと思ったが、どうにもこの隙間に入り込んで眠っている彼女ごと持ち上げるにはおれが身体を滑り込ませられるスペースがありそうにない。片腕だけでそれをやるのも、運ぶ途中で落として硬いベッドフレームにぶつけてしまっては大事になる。そうなる未来は見えそうになかったが、せっかく彼女が珍しく怠惰な寝姿を見せているのだ。これに乗らない手はなかった。 　爪先まできっちりと覆い隠しているマントを抱 き締めるようにしている腕を避け、その間に頭を滑り込ませる。寝息で温められた襟飾りの辺りにちょうど額がきているらしく、定期的に吐息が髪を揺らす。マントの内側で月光も遮られた中で細い腰に腕を回し、抱き寄せる。丸まるようにして折られていた脚がゆっくりと伸ばされ、無意識にあたたかい場所を探すように腹を上から下へと降りてくる。柔らかいままの股間をなぞり、そのまま太腿の間に爪先を突っ込むと満足したのかその場に収まる。噛みつくように膝上辺りまでを太腿で挟んでやると落ち着いたようだった。 ▽ 「……くっさ」 　嗅ぎ慣れた酒と汗の混じったにおいに思わず呟く。自分の声が聞こえて意識が覚醒してきた。眠る時にやったのと同じように鼻先にあたるふわふわに鼻を擦り寄せるとまた眠気が襲ってくる。吸いこむとひどく安心した。いつの間にか腕の中に抱えているなにかはあたたかく重たい。少し腕に力を籠めて抱き締めると、それに反応するようにわたしを抱き締める腕にも力が入った。 　そう、わたしは今誰かに抱きつかれている。眠りに落ちるその直前まではこの船室にわたしはひとりだったはずだ。しかし考えるまでもなくそれがこの船室の主であることは明白だ。答え合わせをするようにマントを少し持ち上げると、あたたかな真っ赤な髪が見えた。 　床で寝たせいで身体などそこら中がバキバキに固まっているのに思わずやわらかな笑みが漏れてしまった。彼の旋毛に鼻を寄せ、音をたててキス をしてやる。こんな刺激ではこの男は起きやしないだろう。普段ならそんなだらしないところに嫌気がさすばかりなのに、こうして腕の中に抱えてみると可愛らしく見えてしまうから病気も病気だ。それも深刻な。 　朝日に輝くその赤髪は昔からわたしの心にあたたかな火を灯す。いびきをかかず静かに寝てくれたことを褒めるため、今日も昼過ぎまで目を覚まさないであろう怠惰なわたしの男にもう一度唇を寄せた。 　さて、どうやってこの腕から抜け出そうかな。
March 8, 2025 at 10:56 AM
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火のあたたかさ1
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「火のあたたかさ」、「@eibisch_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　息も白くなるくらい寒い夜だというのに、彼らといえば酒で身体を温めるという方法しか知らないようだった。服を着て温かいスープを飲んで、熱いシャワーを浴びて髪をしっかり乾かし、湯冷めをしないうちに布団に潜り込む。そういう方法を野蛮な脳みそは受け付けないらしい。 　寝巻きに着替え、肩にはブランケットを掛けていても寒いというのに、甲板の方で大騒ぎを続けている彼らは酔った勢いか、それとも漢気ジャンケンでもしたのか、下半身にはパンツだけの奴や上裸の奴までいた。鍛えられた海の男たちの上裸といえどもこんな冬の夜に見ていても身体の温まるものではない。 　またどこかで誰かが負けたようでドッと笑い声が大きくなる。呼吸をしているだけで鼻が痛くなりそうなのを無視できず、輪の中心にいるのが誰かも確認しないでわたしは船長室を目指した。 　この部屋に誰もいないのは言わずもがなだった。半日程前にこのベッドの主が身体を起こした時のままの形を残しているシーツに笑ってしまう。どちらかの脚で蹴飛ばしたのと、右手で勢いよく振り払うようにしてパックリと口を開けている簡素な掛け布団は、こうして見るとまたこのベッドに戻ってくる主を待ち望んでいるようにも見える。 　ベッドに腰をかけ、まずは両脚だけをぐちゃぐちゃのままのシーツに潜り込ませる。もちろんそこに温かみはない。良く使い古され、馴染みのよくなったシーツが絡まってくる。ここで眠るつもりはなかった、という言い訳なんて女に甘いあのベックでさえ信じてくれないのではないか、というくらいに自然と上半身を倒して寝転がっていた。 　萎びた枕に頭をもたげてからわかった。上等な 宿屋のベッドルームではないここは、あの上等な体躯の主人が雑に使うばかりなせいで中央が少し凹んでいるのだ。しかしそのせいで新品の高級マットレスよりも離れ難い。 　海上で暮らすことに慣れきってしまっているわたしたちにとっては、新品のパンと張ったシーツに眠ることよりも使い慣れて擦り切れる直前のごわついた布切れのようなシーツの方が眠りやすくなってしまったらしい。 「困ったなあ……」 　波の音に簡単に掻き消されてしまうくらいの声で独言る。きっとルウが許した今晩の酒をすべて飲み干すまで宴は終わることはないだろう。飲み食いはそこそこにしてあたたかな寝床を優先したおかげで、わたしの身体には布団を温めるだけの体力は残っていないようだった。 　膝を折り曲げ、背中も丸めてみたが、指の先から冷えていくばかりだ。肩に掛けていたブランケットもそのままにしてベッドに潜り込んだはずが、それでもまだ冷えるのにはもうひとつ大きな原因があった。 　使い古したシーツ。それ一枚だけなのだ、このベッドに置かれた布というのが。 　海の皇帝と呼ばれて久しいその男を、いったい誰が痩躯で貧弱な奴だと想像しようか。春の日差しのような笑顔も、夏の太陽のような大きな声も持ち合わせ、活火山のように爆発的な力も持つ彼が、寒さで眠れない日を迎えたことはあっただろうか。秋島の春を迎えただけで指先から冷えていくわたしの身体を、冬島の冬の夜を一晩中抱きかかえていても冷えのひとつも知らない身体なのだ。海域や季節に合わせて寝具を変えるなどという繊 細な肌感覚など持ち合わせているはずもない。 　やはり寒さに眠れず、掛け布団として代用できそうなものはないかと身体を起こして近くを探してみる。しかし誰かに言われて適当に着替えたのであろう脱ぎっぱなしのズボンや、左袖が結ばれたまま放置されている薄いシャツくらいしか見当たらなかった。いつものマントはさっき本人が着ているのを見たし、結局あれを羽織ったところで眠れる程暖かいかと言われれば疑問が残るところだ。 　ここで眠っていれば部屋の主が帰ってきて、そのままわたしの布団になってくれるだろうという下心があってこの部屋までやって来ていた。しかしそれがむしろそれが仇になるとは考えていなかった。完全にこちらの作戦ミスだ。 　それならば冷える甲板を通ってでも重たいくらいに分厚いブランケットを引き出しておいた自室のベッドに戻ろうかと考えていた時、ふとある雪山の洞窟のことを思い出した。あそこで宴をやった時、彼は暖かそうなマントを羽織ってはいなかっただろうか。 　そう思うとそのマントが恋しくて堪らなくなる。彼自身が開けているのを見ることはそうそうない船室の奥にある簡易的なクローゼットまでやってくる。ベックやホンゴウが無理矢理持ち出して陰干ししたり雪山を普段着で駆け上がっていくのを追いかけるために持ち出す時くらいしか開かれることのないこのクローゼットの中には、もしかしたらあのあたたかなマントが掛けられているかもしれない。 　そんな期待を胸に扉を開けてみると、そこには丁寧にハンガーにかけられた服は一着もなく、す べてハンガーから滑り落ちて床に無惨に散らばっていた。嵐がなくとも船は揺れる。そう思えばこの惨状にも納得せざるを得なかった。 「どこに行ったのかな、ほんとに」 　その場にしゃがみこんで服の山を掻き分ける。最後にいつ着たのかわからない上等なスーツなどを傍に避けながら、探している重たいマントが指先に当たることを祈る。 「……ぁ、」 　懐かしい感触がしてどうにかそれを山の中から引っ張り出す。引いても引いても伸び続けるように思える黒いマントは、しゃがんだわたしの横にまた小さな山を作り始めた頃にやっとその全貌を見せた。 「これだ。懐かしい」 　指の先で見つけたのはマントの裾だったようで、山から引き抜いた最後にやっと記憶の中にあった彼のマントと重なる襟元のふわふわとした装飾に辿りついた。握って遊んでいると自然と指先も温まってくる。こんな扱いをされているが、きっとどこかの冬島で買った上等なものなのだろう。 　このまましゃがみこんだクローゼットとベッドの隙間でこのマントを布団代わりに眠りたかった。ちょうどよく積み上がった他の服からも包み込まれてしまえば、ベッドに戻って眠るよりも温かいのではないかとも思ってしまう。そしてここで寝てしまえば、床に散乱した服たちを片付ける必要もない。全部全部、彼の怠惰な片付け方が悪いのだから。 「は～……あったかい」 　雪崩るように寝転び、スーツの裏地に頬をつけるとひんやりとして、すぐに体温に馴染んでくる。
March 8, 2025 at 10:55 AM
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春風到来
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「春風到来」と記載されています。 以下は本文の内容です。 「元気になったので藤堂さんと遊んでくる」 　私を起こしに来たようなタイミングで朝日と共に帰ってきた蘭は、シャワーを済ませて浴室から出てきたところだ。整髪料が落ちた髪がさらさらと自然に揺れ動くのを見ると、やはり長髪だったあの頃と重ねてしまう。 「急だな、何時に帰ってくんの」 「……泊まり」 「だーめ」 　夜通し外で仕事をしてきた疲れを微塵も感じさせないくらいに間髪入れない否定の言葉だった。 「もう元気だもん！」 　ぱす、とふわふわのスリッパが頼りない音を立てて床を蹴る。地団駄を踏んでやっても、これでは彼から見たらアリクイの威嚇より可愛いものになってしまうだろう。そしてその女の可愛さというものに簡単に靡かないのも彼だった。 「はしゃぎすぎても反動くるからまずは一日で我慢しろ」 　洗面所から出るのにすぐ隣をすり抜けられる。それと同時にやんわりと頭を撫でられてしまえば、彼がここ最近の私の体調をどれだけ心配してくれていたのかは痛いくらいに伝わってくる。これ以上駄々をこねるのが心苦しいくらいには。 「あいつがうちに来んなら泊まりでもいーけど」 　そんな私の心情を察してか、それとも単なる思いつきか、蘭の口から出た提案は渇いた心に沁み込む綺麗な水のように身体を温めた。 「…それはちょっと藤堂さんに確認しないと」 　どうにか溢れ出る喜びを抑え込み、これからやるべきことを頭の中にピックアップしていく。久しぶりの、お泊まり会の準備なのだから。 「お泊まりに行くことになった」 「どこ」 「港区」 　これだけ仲良く出かけたりお泊まりをする仲だが、お互いの性質から手紙の交換も儘あった。住所を手書きしていたおかげで滞りなく口から滑り出ていく。 「名前は」 「……灰谷邸？」 「は？」 　蘭のところかよ、と言い直した春千夜は、朝にしては顔の筋肉がよく動くようだった。 「おいで、って言ってくれた」 「あいつがンなこと言うわけねえだろ」 「しまざきさんと蘭さんを一緒にしないで」 　ソファに身体を投げ出しながらわたしに文句を言い続ける春千夜に返事をしながら手元では彼女への返信を打つ。最後にハートを浮かべた顔文字を三つ連打してから、一度文全体を見直し、修正することなくそのまま送信した。 「寂しかったら一緒に行く？　聞いてあげようか」 「やめろ。つかオマエを行かせる許可も出してねえよ」 「許可は求めてないもん。行ってきます、って予定を共有したんだよ」 　画面を真っ暗にしてから春千夜の方へ向かう。容赦なく天井を睨みつけていた彼の視界に飛び込んだ。 「いーい？」 　冷たい宝石のような瞳が射抜く。それでも彼が次の瞬間には溜め息を吐いてくれることを、わたしは知っている。
February 10, 2025 at 4:58 PM
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脳漿sweetie
印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「脳漿sweetie」、「藤堂」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　寒いなら歩いて帰る、と前後の繋がりが無く、わけのわからない言いわけをして部下たちを置き去りにしてきた。誰かの手を借りる掃除の必要もない、ただの会食だった。 　食事は値段相応。酒は最悪だった。相手の好みなのかこちらへの配慮なのか、熱燗ばかりを勧められては断れずに飲み干す。舌に乗った瞬間から喉を通って胃に着地するまでの間、すべてが不快だった。氷を浮かべてからころとそれを鳴らしながら、グラスの水滴を拭いながら飲む酒が恋しいと思う日が来るなんて考えたこともなかった。今ならフローズンダイキリでも飲める気がしてくる。 　襟足が巻き込まれるのが嫌いでマフラーを持ち歩かない。もちろん今日だって夜に何度になるかを確認していないし、マフラーも手袋も持ち合わせてはいない。ポケットに手を突っ込むと、いつの日か酔っ払って突っ込んでいたらしい札が何枚かと小銭とぐちゃぐちゃのレシートが指先に当たった。せっかくこれでもかとお絞りで拭いてきた手が一瞬でだめになる。全部がだめだった。 　もうどうにでもなれとそれらをひと掴みにする。ポケットの中で冷え切った金はほろ酔いの手を冷やすのにちょうどよかった。 「……ぁ、すみま」 　小銭がだんだんと熱を吸って温まっていくのを恨みながら歩いていると女とぶつかった。紙袋をいくつかぶら下げていて、冬らしい真っ白な肌が化粧の下で温まっているのが見て取れた。 「ああ」 　返事でも謝罪でもない中途半端な言葉が口の隙間から出てきた。どちらが悪いとも思えず、しかし謝るには短すぎる時間だった。 　ぼそぼそと呟くような返事をするやばい男にぶつかったのかと思った女が一瞬視線を上げる。しかし口元の傷痕だけが目に入ったのか、前髪が揺れるほどの勢いをつけて顔を背けた。 　もしかすると、ぶつかったのはオレが悪かったのかもしれない。こんな人通りの多い場所をふらふらと歩いて帰っていなければ女にぶつかることはなかった。暗い夜道をあの女が背後を気にして帰る必要もなかった。知らない女がぶつかってきたからといって家までついていって殺すなんてことはしない。しかし世間体最悪のこの顔の傷ではそう思われても仕方がないと知っている。好奇の目に晒されるのは気にならなくなっている。見つめられたら見つめ返せばいい。それだけで大抵の人間は怖気づいて自分から去っていく。自分から吹っかけた喧嘩に尻尾巻いて逃げる背中は見ていてもつまらない。しかしその物寂し気な背中にはでかでかと「カタギです」と書かれているように思えて仕方がない。 　背中を避けるようにただ人の波に乗って歩いていると、何かの催事場の列に巻き込まれていた。厚着をしていている人波に揉まれているとそれだけでじわじわと暑くなってくる。 　駅前のティッシュ配りよりも俊敏な手つきで腹の前に差し出されたチラシを思わず受け取ってしまう。天井のライトに反射して読みにくいそれにはありったけの宣伝文が載せられていた。いくつか見知った店の名前も書かれている。大人しくも煌びやかな並びのチョコレートがこちらを向いていた。 　もう渡す相手も待っている相手もいない。分厚いカタログがテーブルに並べられていることも、 夕食の後に酒のつまみにチョコレートが出されることもない。もう奥へ奥へと押し込められて抜けられなくなった女たちが重なった列の隙間から見えるチョコレートを見ても飾り立てられた箱を見ても、思い出すのは濃厚な甘さではなく四角く整えられたチョコレートを摘まむ細くて薄い女の爪ばかりだった。 　風呂が終わって化粧っ気の無い淡い色の唇がたまにこっくりとした色にまだらに染められていた。繊細に飾られた表面のデザインに見惚れているのか、摘まみ上げてからしばらく彼女の指先に弄ばれていたチョコレートはいくら低い体温でも徐々に溶け始め、唇で挟み込んで吸い込む時にその軌跡を残していった。 　あれがどのブランドのチョコレートなのかは覚えていない。食べさせられたものがどんな味だったかも覚えていない。差し出してきたその爪の色が彼女には珍しく赤かったことくらいしか。
January 31, 2025 at 12:30 PM
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印刷された本の本文の体裁で画像化されたテキストです。付記に「密やかな肌の交わり」、「@eibisch_zzz」と記載されています。 以下は本文の内容です。 　その右手はまだジョッキを握っているというのに、脚と瞳だけはわたしを捉えて離さない。 「月がこんなに近くにあって、見とれねえわけがねえだろ」 「あなたにしては随分詩的じゃない？」 「外にいるのにいいのか」 「なによ」 　ぎゅ、と脚に力を籠められると自然と膝が閉じて締まる。彼の方に近づかせられるように背中からゆるく押される。 「おまえの中に入って、好き勝手揺さぶってそのままぶち撒けたいと言ってもか」 　彼が自分の男なのが嫌になるくらいに言葉ひとつに熱を込めるのが上手い。酒で少し濡れた唇を耳元まで寄せられて、周りの人たちの盛り上がった話し声に紛れるくらいの声音で囁かれ、むき出しの肌に男の手を滑らせるのを許してしまえばもう勝ち目はない。 　昔からそうだ。自分の身体を扱うのに長けていて、ふとした時の言葉に重みを持たせる。それに抗えないのが悔しくて、好きだった。 「そんなこと言うなら、せっかく注いだものは溢したりしないでよ」 　だからわたしも強気に出る。目の前で唾を飲み込む音が、喉仏が上下にゆっくりと動く男らしい動作が、腹の奥に火をつけられる感覚が好きだから。
January 11, 2025 at 8:19 AM