月日が経つのが早過ぎる……
月日が経つのが早過ぎる……
『ToHeart』リメイクが出るので、この機にLeafの把握に努めるのは良いかも。自分はギャルゲーツリーをKeyと型月から延ばしてしまったため、ある意味で10年代的なのだが、当時性とのズレを是正した方が良い部分は多々あるように感じる。それはそれとして堀江由衣って本当に偉大だ。
『ToHeart』リメイクが出るので、この機にLeafの把握に努めるのは良いかも。自分はギャルゲーツリーをKeyと型月から延ばしてしまったため、ある意味で10年代的なのだが、当時性とのズレを是正した方が良い部分は多々あるように感じる。それはそれとして堀江由衣って本当に偉大だ。
読みながら考えてたことを雑に残しておく。
麻枝准のシナリオを読む際に、伝えたい内容(「泣き」の誘因になるものや、死生観や過酷な世界で生きる術)を初期から一貫したものとして捉える(これは麻枝のパーソナリティが変化していないというよりも、麻枝が作品において目指している地点が一貫してシンプルかつ俗的と考える)ならば、変化しているポイントは「それを媒介するもの」と言えるのではないか。
定式化されたゲーム的リアリズムの議論を延長するなら、めぐみんの言う「ハイアーセルフ」や「ソウルメイト」といった言葉は、過去に殺伐Radioでも
読みながら考えてたことを雑に残しておく。
麻枝准のシナリオを読む際に、伝えたい内容(「泣き」の誘因になるものや、死生観や過酷な世界で生きる術)を初期から一貫したものとして捉える(これは麻枝のパーソナリティが変化していないというよりも、麻枝が作品において目指している地点が一貫してシンプルかつ俗的と考える)ならば、変化しているポイントは「それを媒介するもの」と言えるのではないか。
定式化されたゲーム的リアリズムの議論を延長するなら、めぐみんの言う「ハイアーセルフ」や「ソウルメイト」といった言葉は、過去に殺伐Radioでも
5章前半を基調としたプログラム。舞台も印象的な作中の屋上を誂えたもの。
MCの代わりに茅森とめぐみんの会話と、回想として茅森と母との新規epが挿入されるナービィ=茅森の成長を促すために与えられたハムスターが癌=cancerで亡くなるまでのお話。
基本は寸劇だが、本編では目の前の母の為だけに歌った「陽のさす向こうへ」を、進んでいく行き先へと読み替えることでライブに落とし込むためのもので、このライブもしっかりと麻枝の作品であることを実感した。
中央に立つXAIがライトに照らされナービィの球と重なるように見える演出は最も茅森月歌を感じる一幕だった
5章前半を基調としたプログラム。舞台も印象的な作中の屋上を誂えたもの。
MCの代わりに茅森とめぐみんの会話と、回想として茅森と母との新規epが挿入されるナービィ=茅森の成長を促すために与えられたハムスターが癌=cancerで亡くなるまでのお話。
基本は寸劇だが、本編では目の前の母の為だけに歌った「陽のさす向こうへ」を、進んでいく行き先へと読み替えることでライブに落とし込むためのもので、このライブもしっかりと麻枝の作品であることを実感した。
中央に立つXAIがライトに照らされナービィの球と重なるように見える演出は最も茅森月歌を感じる一幕だった
展示は正直一部を除いて(アルヴァ・ノトの映像作品なんかは良かった)微妙だったが、坂本龍一についての思考を巡らせる良い機会になった。
80年代の坂本の自筆メモなんかも展示されていて、浅田を筆頭に吉本、柄谷、バルト、アルチュセール、ベンヤミンなどについてのメモが残されていた。
印象的だったのが蓮實の「凡庸さ」について真面目はメモを残していたところで、こう展示されるとある種の凡庸な滑稽さが滲み出てしまう「知識人」アーティストとしての坂本龍一は、確かにある時代の象徴であったのではないだろうか。
しかし入場50分待ちとすごい人気だったのは何だったんだ
展示は正直一部を除いて(アルヴァ・ノトの映像作品なんかは良かった)微妙だったが、坂本龍一についての思考を巡らせる良い機会になった。
80年代の坂本の自筆メモなんかも展示されていて、浅田を筆頭に吉本、柄谷、バルト、アルチュセール、ベンヤミンなどについてのメモが残されていた。
印象的だったのが蓮實の「凡庸さ」について真面目はメモを残していたところで、こう展示されるとある種の凡庸な滑稽さが滲み出てしまう「知識人」アーティストとしての坂本龍一は、確かにある時代の象徴であったのではないだろうか。
しかし入場50分待ちとすごい人気だったのは何だったんだ
ヘルマン・コーヘンの経験概念をめぐるカント批判の箇所は難解だが特に勉強になる
ベンヤミンとハイデガーの類似性と差異を捉える上で、科学的認識に対する形而上学の復権という共通項をともに新カント派批判から出発してる点に繋がることはわかっていても、その新カント派の内実が掴める点でありがたい
あと「関数概念」(カッシーラー)をヘルダーリン批評に適用するベンヤミンの手つきに狭義の批評理論を読み取ることは可能か?
だがやはり哲学的にはベンヤミンは超越論的統覚の問題を「宗教性」の圏域に退行させてしまったのかなぁ
ヘルマン・コーヘンの経験概念をめぐるカント批判の箇所は難解だが特に勉強になる
ベンヤミンとハイデガーの類似性と差異を捉える上で、科学的認識に対する形而上学の復権という共通項をともに新カント派批判から出発してる点に繋がることはわかっていても、その新カント派の内実が掴める点でありがたい
あと「関数概念」(カッシーラー)をヘルダーリン批評に適用するベンヤミンの手つきに狭義の批評理論を読み取ることは可能か?
だがやはり哲学的にはベンヤミンは超越論的統覚の問題を「宗教性」の圏域に退行させてしまったのかなぁ
荒川徹「多挙動風景 動く絵画‐写真としての新海誠」215頁
荒川徹「多挙動風景 動く絵画‐写真としての新海誠」215頁
アルベール・カミュ『太陽の讃歌 カミュの手帖——1』15頁
アルベール・カミュ『太陽の讃歌 カミュの手帖——1』15頁