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Ми ся любит Карпатьска Русь. Єден русинофіл.
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結局のところチェコスロヴァキア第一共和国がチェコ人を中心に据えた構造を最後まで調整できず、スロヴァキア人やドイツ人、そしてルシーン人を真に統合できなかった点は、「前身ハプスブルク帝国のそれと同じく荏苒であったように見える」(P. R. Magocsi, “With their backs to the mountains”, 2015, CEU Press, p. 194)。
その期限はチェコ側の動向とは無関係に訪れることになり、「すべてはソヴェト同盟とその全能の指導者イオシフ・スターリン次第になった」(“With their backs to the mountains”, p. 293)。
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„Já nemám rád prázdné mluvení o slovanství, jako nemám rád vlastenčení... A nač to mluvení: normální člověk nevytrubuje do světa, že miluje své rodiče, svou ženu, své děti; to se rozumí samo sebou.“
(„Hovory s T. G. Masarykem“)
「チェコスロヴァキア主義」はチェコ語でČechoslovakismusだがスロヴァキア語では語尾が-zmusとзの音になり、ロシヤ語に似ている。
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「私は、愛国者ぶることが好きでないのと同様に、スラヴについての空虚なおしゃべりは好きではありません。我が国のスラヴ主義者のうち、一体どれだけの者が、せめてロシア語、ポーランド語、セルビア語を読めるでしょうか? 我々はフスの民族なのだと唱えてばかりいる人々とて、同様です。彼らのうち誰が、フスをせめて少しでも読んだでしょう、……同胞団の宗教改革のせめて一冊の本を読んだでしょうか? ……普通の人は、自分の両親や妻や子供を愛しているということを、世界に向けてかまびすしく喧伝したりはしません。それは当然のことだからです」
(チャペック『マサリクとの対話』石川達夫訳、成文社、pp. 94-5)
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戦後オーストリアの大連合も55年体制も「共産化を防ぐ」とそれから「現状維持」を大いに志向していたのであり、大倭豊秋津洲のそれについては新大陸からの潤沢な資金援助が地盤を支えているという特殊な要素があったことをアメリカの日本史学者の人でさえ指摘しており、政治の世界に「現状維持」よりも緊張感が戻ってくるということ自体は必ずしも悪いことではないと思いますが、多元主義と意見のスペクトルが制度的に認められている場ではこういった事態も起こりうることは今の状況を招いた人々もよくご存じだったものと思いますので、まあお手並み拝見と行くか。
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少なくとも選挙制度がある国体においては政治家には常に地位を失いうるという緊張感がないと駄目になるらしいというのも事実ではあります。
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まあオーストリアも戦後に「一党優勢を防ぐ」という名目で社民党と国民党(だったっけ)の連立政権がずっと続いていたら各地で癒着や腐敗が始まり案の定その中にはナチの残党が紛れ込んでいたりして我がオーストリア文化史の先生なんかは「日本人に気質が近いのはドイツよりこっちじゃないかと思うこともある」と評されておられたわけですが先生が何年か前にお亡くなりになられたのが残念だ。
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『草原の神々の黄昏』や『砕かれた四月』や『誰がドルンチナを連れ戻したか』といったカダレの他の著作もすべてフランス語訳からの重訳であり、比較対象が「ラテン語と古典ギリシア語のみ」ともいわれるアルバニア語から精彩に富む日本語へと移すという困難な作業に耐えうる人は僕が知る限り井浦伊知郎先生おひとりです。
『砕かれた四月』で、血讐の定めで一か月だけ残された時間を、「自分が生きているのは四月ではなく死月だ」と主人公が述懐する場面がアルバニア語から井浦先生が原文からどう訳されるのか俺は見たい。
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僕が権力者だったら松籟社を国費で支えて『死者の軍隊の将軍』を復刊させるしカダレの未邦訳作品を完全に私的な活動として訳すという偉業を為されている井浦伊知郎先生には国帑から資金が提供されるよう取り計らうんですが残念ながら日本のエスタブリッシュメントには東欧にはあまり関心がない人が多数派らしいのが残念なところです。
あとダンヌンツィオの薔薇小説シリーズも復刊してほしい。『死の勝利』だけは危機感を抱いて確保したが全部は持っていない。
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独立直後のポーランドで、特に自由業の就業者で「ユダヤ人が極端に多くを占めている」ことから南アメリカなどへの移民を推進していたとかには、戦後にマルクス・レーニン主義という「異質」な教義が蟠踞しても根絶しえなかった根強い土俗的な感情が確認できる。
チェコとかでユダヤ人の生存者が帰って来たら自分の家に近所の人が移り住んでいて「どうして今さら帰って来た?」という温かい言葉をかけてくれたという話は嘘ではなさそうだ。
僕が気になっているのは国粋社会党の掲げていた偏見がどの程度ヨーロッパにおいて普遍的で、どの程度基準を逸脱していたのかということです。
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『1944年から1956年のポーランドの反共主義地下パルチザンの精神性』
『1918年から1939年の植民地世界秩序におけるポーランド、調整と大望』
買いたい洋書の名前を書くだけなら自由だ。
我がウクライナ史の先生によれば、ウクライナ方面の反共パルチザンの残党にもフルシチョーフが投降を呼びかけるビラを戦後にばら撒いており、少なくとも1950年代後半まで刷られていたらしく、ソヴェト同盟と周辺諸国で部分的に共通していたのではないか。
戦後ルーマニアの当局も、逮捕した人に標石を抱かせて池に沈めたり、冬場に水を浴びせてコンクリート張りの部屋に放置したりなど、被疑者の人道的な処遇に気を配っていたようだ。
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『ドイツ植民地研究』、我が第二の指導教官が述べられていた「ドイツ領アフリカのどこかでは現地人にマルクスとかを読まれて『平等』などという厄介なことを言い出されないようドイツ語でなく英語を連絡用言語として教えていた」という話が触れられているだろうか。先生にメールを出せばいいんですが一応書籍で手元に置いておきたい。「植民地経営というのは色々と考えることがあって大変だな」と他人事のように思ったお話でした。
戦後にスターリンがバルト地域の「森の兄弟」とかを力ずくで破砕しようとしても成功しなかったがフルシチョーフが「武器を置いて出てくるなら恩赦を与える」と布告を出したら壊滅したというのが印象的な話です。
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チェコスロヴァキア第一共和国によるポトカルパツカー・ルス領有について、マサリクは「将来の民主的なウクライナもしくはロシアとの地理的接点」となると強調し、ソヴェト・ポーランド戦争でガリツィアなどがポーランド領になったことで結局その想定はなくなったわけですが、1938年のミュンヒェン協定で、チェコ領の町チェシンがポーランドに割譲され、戦後の国境線の修正においてポーランド人地区と「チェコ人の(Český)」チェシンとに分割されるという出来事があり、現在チェコ側では町の中でチェコ語とポーランド語の二言語表記が採用され、そこは今でも一言語表記のポーランド側とやや色合いが違っているようです。
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イヴァン・ステパーノヴィチ・コーネフ元帥の写真がシュヴァンクマイエルの「スターリン主義の死」に映るのは知っていたが、実際にプラハに像が(複数?)あるらしく、そのうち「国際旅団広場(Náměstí Interbrigády)」に建っていたものは、反共主義のデモンストレーションのたびに赤いペンキで汚損されたりした結果2020年に撤去された。
その際にはコーニェフがハンガリー動乱の鎮圧にも参加したことなどが問題になったらしいが、複数の論者によれば、当時チェコ政府もソヴェト同盟に「ハンガリー占領への協力(チェコ軍の派遣)」を提案しており、これまた「社会主義」とは関係のない根深い土着の感情が垣間見える。
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「プラトンが生きたのは民主制のポリス社会であり、彼の思索は古典期ギリシアの政治・社会・文化に深く根ざしていた。ローマ帝政期の新プラトン主義者にその背景や関心が共有されなかったのは当然である。……〔プラトンは〕積極的な政治関与を模索していた。このような実践的な関心や提案は後世の読者には理解困難なものであり、プラトンにとって現実的で切実な考察は抽象的な理論として受容されざるをえなかった」
(納富信留「プラトン哲学の徹底と逸脱」。『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年、pp. 19-20)
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結局のところ競争相手が世論を味方につける努力をして来なかったからで嫌なら勝てばよいのだということについてはまあ反論しようとは思いません。
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マサリクの観点では、「何の説得もせず」、カルパチア・ルーシの代表者に「ハンガリーか、ポーランドか、我々かに加わることができます、ご自分で選んでください」と訊ねたところ、「我々を選びました」としているが、しかし、ルシーン人の出自を持つアメリカの弁護士で、チェコ政府の招聘でポトカルパツカー・ルスの知事となったグレゴリー・ジャトコヴィッチが、ポトカルパツカー・ルスの自治を巡ってプラハ政府と争いになり、結局「民主制の未成熟」を理由にアメリカへと帰国してしまった件についても触れられてはいない。
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『マサリクとの対話』の和訳だと「カルパチアのウクライナ人」と訳されている箇所があり(p. 157)、しかし原文ではRusínyと、「ルシーン人」とはっきり述べている。しかしながら、その少し上の「ザカルパチエのロシア人」と訳されている箇所は、原文ではpodkarpatské Rusi〔カルパチア山麓部のロシヤ人たち〕と書いてあり、マサリクもカルパチア・ルーシについては意識をあまり向けていなかったのだろうか?
チェコがカルパチア山麓部を領有する意義については、マサリクは「全く新しい案」だが「民主的なロシアあるいはウクライナにつながる領土上の橋を確保する」と述べており、マゴチの指摘と一致している。
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『マサリクとの対話』は率直に言って、チェコスロヴァキア第一共和国の政治が共産党を除く五つの主要政党が非公式会合で合意を形成するPětka〔五人組〕体制を敷き、さらに「建国の父」マサリクを中心とするhrad〔城〕という非公式グループが影響力を発揮するhrad〔城〕という状況が罷り通っていたという、チェコスロヴァキアもまた東欧地域に生じた権威主義体制の一翼を担っていたのではないかと思わせる点には当然ながら触れておらず、残念ながら和訳ではpodkarpatský〔カルパチア山麓部〕を遡及的に「ザカルパチエの」と訳してしまっている箇所(p. 157)がありますが僕は今でも好きな本です。
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「そして彼〔トルストイ〕が、我々は生活を簡素化しなければならない、我々は農民のように生きなければならないと説き始めた時、私は彼にこう言いました。──じゃあ、あなたの屋敷とサロンは何ですか? あの肘掛け椅子とソファーは? そして、あなたの農民たちのあの貧しい暮らしは? あれが簡素化というものなのですか? あなたは確かに酒はお飲みにならないが、煙草は何本でもお吸いになる。禁欲主義というなら、一貫したものでなければなりません。農民が貧しい暮らしをしているのは貧乏だからであって、禁欲主義者だからではありません」
(カレル・チャペック『マサリクとの対話』 石川達夫訳、2004年、成文社、p. 93)
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共同研究のために上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』を読んでいるんだが、50ページに1ページの頻度で同性愛嫌悪的な記述が登場して、一般書&時代の制約を割り引いても読み続けるのがしんどくなっている。
普通にレズビアン嫌悪的な語りもあるし、本当に上野のホモフォビアは(『女ぎらい』で述懐したように)ホモセクシュアルとホモソーシャルを区別できていなかったことだけに起因するだろうか。
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「チェコスロヴァキア主義」という、マサリク以後の政治家が唱えた「チェコ人とスロヴァキア人が共存するチェコスロヴァキア」という建前についても、マクダーマット先生が述べている通り「ではなぜ最後に分離してしまったのか」という問いが付きまとうわけで、少なくともチェコ側については結局のところ「チェコスロヴァキア主義」をフランスのような市民的ナショナリズムの一形態というよりも「チェコ人とスロヴァキア人は同じ」という理解で受け入れる傾向が支配的だったという点に顕れており、中東欧の多民族帝国は崩壊したのではなく、幾多の、しばしばより不寛容でさえある「小帝国」に分裂したのである。
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佐原徹哉先生の「ブルガリアの創氏改名と脱亜主義」だと、オスマン時代のブルガリア人はイスタンブールの城下町で暮らしていたわけで、なんだかんだトルコ語を習得していたブルガリア人も多く、独立直後の時点で総人口の30~40%がトルコ語を母語として生活していたのであり、それがその後の数十年間で半減したという驚くべき現象には、まだ十分に研究されていないが「相当な迫害や行政的な強制があったと推測される」としており、おそらく同化政策については、独立後のポーランドで、ベラルーシ人やウクライナ人など「無学な農民」ならば「容易に同化できる」という認識が支配的だったというのと部分的に共通していたのではないか。
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イヴァン四世が逃げちゃったクールプスキイ公爵に書いた手紙の中で、「世界はあまねく神のしろしめすところであり、余がツァーリに生まれついたのも神の意志である、つまり俺は神」みたいに述べる箇所があって「読み間違いかな?」と思ってたんですがチェルニャーフスキイの『ツァーリと民衆』を読んでみたら僕の理解でだいたい間違っていないとのことで、ともかくヘドルンド先生が記していた「ロシアでは主君さえも扱いに気をつけるような大貴族は決して生まれなかった」という一側面を改めて認識しました。
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戦前のチェコにおけるユダヤ人は、カフカなどドイツ語で暮らしていた事例も少なくなく、そういった場合、民族籍では「ドイツ人」と申告することも多かったわけですが、仮に彼らがボヘミア・モラヴィア保護領時代を生き延びても、戦後にベネシュが行ったkonečné řešení německé otázk〔ドイツ問題の最終的解決〕やらdivoký odsun〔野蛮輸送〕やらの巻き添えになった場合が多いらしく、『機動戦士Vガンダム』に登場するヒロインの名前の元ネタだという『少女カテジナのための祈り』をルスティクが記したのも少し勇気がいることだったのかもしれませんが詳しくは存じません。
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第二次大戦の開戦前に、イギリスがユダヤ人亡命者を受け入れる際、イギリスの医師会から「ドイツの医者は腕がいいから受け入れるな」という訴えが出たという話は有名ですが、至聖なる我が第二の指導教官によれば、児童の避難においても「容姿の醜い子供」は拒絶されることが多かったらしく、先生がインタビューをされた人は「見栄えの良い写真になるよう笑顔のものを選んだ」というお話をされたそうです。
その人は共産主義者という理由でイギリスに亡命していたドイツ人と結婚して東ドイツへ「帰国」したそうですが、旦那さんは戦後に初めてソヴェト同盟へ研修旅行に赴き、「俺の考えている社会主義と違う」と率直な意見を述べていたらしい。