もちろん「うちの学生はそういうレベルではない。教員が添削しないとまともな卒論が書けない」という大学は多いだろうし、うちの大学は恵まれていることはわかっている。ただそういう現実があるからといって「自律的な知的主体を育てるべき」という理念を否定するのは違うだろうと思うのです
そもそも卒論は何のために書くのか。ちゃんとした文章を制度的に提出し認められるためではない。学生個々に異なる知的関心と知的水準に応じて、それでも少しでも「自律的に知性を用いることができる主体」に近づけるための教育手段だろう。「卒論そのもの」はそれを測るための手段であり目的ではない
もちろん「うちの学生はそういうレベルではない。教員が添削しないとまともな卒論が書けない」という大学は多いだろうし、うちの大学は恵まれていることはわかっている。ただそういう現実があるからといって「自律的な知的主体を育てるべき」という理念を否定するのは違うだろうと思うのです
そもそも卒論は何のために書くのか。ちゃんとした文章を制度的に提出し認められるためではない。学生個々に異なる知的関心と知的水準に応じて、それでも少しでも「自律的に知性を用いることができる主体」に近づけるための教育手段だろう。「卒論そのもの」はそれを測るための手段であり目的ではない