Takeshi EBINE
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Takeshi EBINE
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"Wenn man Aufmerksamkeit nimmt, dann soll die nicht nur einem selbst dienen, sondern dem Zusammenleben förderlich sein."
- W. Tillmans

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和泉書院から本を出しました。『人形浄瑠璃の「近代」が始まったころ 観客からのアプローチ』というタイトルで、大正末期から昭和十年代にいたる人形浄瑠璃の展開を観客史の観点から論じた著作です。よろしくお願いします。

内容紹介はこちら:
korpus.org/archives/4135

タイトルが示す通り、観客たちの経験に注目して人形浄瑠璃の「近代」の始まりを描いています。
大きな括りでまとめると、日本の「古典芸能」を観客史の視点からとらえ直す試みと要約できるかもしれません。目次を添付しますので、少しでも興味をもった人は手にとってみてください!
I have a confession to make.
open.substack.com/pub/emiliaze...
I have a confession to make.
On writing and AI.
open.substack.com
April 29, 2025 at 11:32 PM
ロームシアターで『キティ』(市原佐都子/Q)を見る。
終演後にパンフレットを読み、全然話を追えてなかったことに気がついた。
でもだからといって退屈したかというと、そんなことはない。少し詰め込み過ぎのような気もするけれども、同時代性を感じさせてくれる作品だった。
マルクス・ゼルクと組む前のスザンネ・ケネディの舞台作品を思い出したが、どちらも現代社会をサバイブする女性の身体のありようを解析するトランスメディア・パフォーマンスだからだろう。
ちなみに人形浄瑠璃と現代文化の接点を考えるヒントも、そこにあると思っている。人形浄瑠璃もまた演劇ではなく、トランスメディア・パフォーマンスだから。
February 19, 2025 at 2:06 PM
なぜか気になって手にとった桜庭一樹さんの『読まれる覚悟』。とても面白かった。批評や書評(著者は両者を区別する)だけでない、もっと広い「読むこと」をめぐる現在の状況が、ライトノベルと純文学、文壇とファンダム、文芸誌とSNSの間で活動する一人の作家の視点から、率直に記述されている。
自分は言語それ自体が面白くない小説はまるで読めなくて、キャラクターが魅力的だったりストーリーが面白かったりすると、かえって退屈してしまう(言語が透明化しがちなので)。だから著者の文学観とはほとんど接点がない気がするけれども、そこで語られる状況の変化を映画の状況と比べながら面白く読んだ。
February 15, 2025 at 11:04 AM
ようやく出町座で『SUPER HAPPY FOREVER』を。
五十嵐監督の単独作は2つ(『息を殺して』と最新作)しか見ていないので断言すのは憚られるけれども、いずれの作品でも際立っているのは、ある特定の事柄を描くまいとする強靭な意志である。『息を殺して』は工場を舞台に選んでいながら「労働」を描くことを頑なに拒み、最新作は夫婦の関係を主題としていながら彼らの「生活」を描くことだけはしまいと固く心に決めているようだ。これらの作品の研ぎ澄まされた映像美学はこの拒否と表裏一体だと思う。たぶんそのせいで、どちらの作品も「空気が薄い」感じが拭えない。『泳ぎすぎた夜』ではそんなことはなかったのだが。
January 28, 2025 at 12:27 PM
『ナミビアの砂漠』を見たので批評やインタビューを漁ってみた。どうも批評に「???」なものが多い。ちゃんと映画として批評しているのは須藤さんくらいだろうか。
この作品を論じるなら『あみこ』との違いを確認する必要がある。『あみこ』を見たとき、ひどく退屈したのを覚えている。なぜかというと、典型的な「逆張り」映画だっから。逆張り的な態度が退屈なのは、主流派に反旗を翻すかにみえて、それに依存しているからである。『21世紀の女の子』に寄せた短編でも、まだそこから脱却できてはいなかった。
『ナミビアの砂漠』には、逆張り的なところがほとんどない。ちゃんと自分の足で立っている。監督の努力と勉強の賜物だと思う。
January 16, 2025 at 12:17 PM
樋口さんの新著が届く。
この世界で自由であるための労働の書。生きることはままならなさと同義である。身体はいうことをきかないし、お金はつねに足りない。社会の仕組みは一挙手一投足を縛りつける。それでもそのままならなさの直中で可能なことはあり、仲間たちとオルタナティブな価値を生み出すことはできる。そのために欠かせないのが「妄想」という燃料である。
この本はいかにも日記のような顔をしているけれど、時系列は無視して行き当たりばったりにページを開いて構わない。どのページを開いても語られているのは同じひとつのことがらなのだから。こんなに「役に立つ」本も少ないと思う。
www.boid-s.com/8269
12/25(水) 樋口泰人著『そこから先は別世界 妄想映画日記2021-2023』発売! | boid.net
樋口泰人による、新たな「生」を生み出し続けた3年の記録 『そこから先は別世界 妄想映画日記2021-2023』
www.boid-s.com
December 27, 2024 at 11:10 PM
京大西部講堂での松村浩行監督特集は得がたい体験だった。
この日はいかにも京都らしい底冷えのする寒さ。しかし西部講堂には空調がまったくない。灯油ストーブはいくつか置かれているが、極寒。セーター重ね着はもちろん、手袋、マフラーで防寒して上映に臨んだ。
『TOCHKA』について、この映画のトーチカは映画館のようだとよく語られるが、今回の上映では比喩ではなく、本当に旭川の風吹き荒ぶ海岸にあるトーチカの中で映画を見ているかのようだった。
そして西部講堂の音響が尋常じゃなかった。もちろん準備してはいたものの、トークで実際に話したことは、この音響に身を任せるなかで思いついたことだった。
こんなことは初めて。
December 24, 2024 at 12:36 AM
『ぼくが生きてる、ふたつの世界』@出町座

たぶん根本的な問題は、タイトルと映画本体で語りの視点がズレてしまったこと。
タイトルが示唆するのは、コーダであるひとりの人物(ぼく)を語り手とする映画のはず。
しかし本編では、「聴こえる人たちの世界」と「聴こえない人たちの世界」を自在に行き来し、両者を架橋する語りの視点が採用されている。

それはコーダの視点とはまったく異なる。
ここは主人公の視点にこだわるべきではなかったか。

この視点の選択のせいで、「聴こえない人たちの世界」が、ろう者を描いた従来の多くの映画と同様に、「欠如」によって定義されることになってしまった。

じつにもったいない。
December 11, 2024 at 8:15 AM
シリアは絵に描いたような体制転覆だった。
支配的体制はどのようにして覆されるのか。
それを改めて示してくれた。
その道筋はどんな政治体制でも本質的には変わらないだろう。
いかなる政治体制も永続することはない。
そのことを忘れないこと。
December 8, 2024 at 9:45 PM
『HAPPYEND』@出町座
いろいろと考える材料のある作品だった。
出演している役者たちの顔がいい。ひとりひとり個性的で魅力がある。
日本を舞台とするフィクション映画の「本当らしさ」(リアリティ)のコードがすっかり更新されているのも印象的。最近の日本映画のいくつかで試みられてきたコードの刷新が完全に完了した感じがある。
ただそれで映画がエキサイティングになっているかといえば、それはまた別問題。
しかしここにあるような映像と音響と音楽がこれからは「映画」と呼ばれるようになるのかも知れないとも感じた。
December 4, 2024 at 1:08 PM
黒沢清監督の近作について、最近感じていることをメモ書きしました。

www.korpus.org/archives/4464

次作がどうなるのかわかりませんが、監督の仕事からまた目が離せなくなってきました。
2024年版『蛇の道』雑感黒沢作品の現在についてのメモ – netz_haut
www.korpus.org
December 4, 2024 at 2:22 AM
和泉書院から本を出しました。『人形浄瑠璃の「近代」が始まったころ 観客からのアプローチ』というタイトルで、大正末期から昭和十年代にいたる人形浄瑠璃の展開を観客史の観点から論じた著作です。よろしくお願いします。

内容紹介はこちら:
korpus.org/archives/4135

タイトルが示す通り、観客たちの経験に注目して人形浄瑠璃の「近代」の始まりを描いています。
大きな括りでまとめると、日本の「古典芸能」を観客史の視点からとらえ直す試みと要約できるかもしれません。目次を添付しますので、少しでも興味をもった人は手にとってみてください!
December 1, 2024 at 1:04 PM
ブルースカイ、始動します。
December 1, 2024 at 11:16 AM