- W. Tillmans
https://www.korpus.org
内容紹介はこちら:
korpus.org/archives/4135
タイトルが示す通り、観客たちの経験に注目して人形浄瑠璃の「近代」の始まりを描いています。
大きな括りでまとめると、日本の「古典芸能」を観客史の視点からとらえ直す試みと要約できるかもしれません。目次を添付しますので、少しでも興味をもった人は手にとってみてください!
open.substack.com/pub/emiliaze...
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終演後にパンフレットを読み、全然話を追えてなかったことに気がついた。
でもだからといって退屈したかというと、そんなことはない。少し詰め込み過ぎのような気もするけれども、同時代性を感じさせてくれる作品だった。
マルクス・ゼルクと組む前のスザンネ・ケネディの舞台作品を思い出したが、どちらも現代社会をサバイブする女性の身体のありようを解析するトランスメディア・パフォーマンスだからだろう。
ちなみに人形浄瑠璃と現代文化の接点を考えるヒントも、そこにあると思っている。人形浄瑠璃もまた演劇ではなく、トランスメディア・パフォーマンスだから。
終演後にパンフレットを読み、全然話を追えてなかったことに気がついた。
でもだからといって退屈したかというと、そんなことはない。少し詰め込み過ぎのような気もするけれども、同時代性を感じさせてくれる作品だった。
マルクス・ゼルクと組む前のスザンネ・ケネディの舞台作品を思い出したが、どちらも現代社会をサバイブする女性の身体のありようを解析するトランスメディア・パフォーマンスだからだろう。
ちなみに人形浄瑠璃と現代文化の接点を考えるヒントも、そこにあると思っている。人形浄瑠璃もまた演劇ではなく、トランスメディア・パフォーマンスだから。
自分は言語それ自体が面白くない小説はまるで読めなくて、キャラクターが魅力的だったりストーリーが面白かったりすると、かえって退屈してしまう(言語が透明化しがちなので)。だから著者の文学観とはほとんど接点がない気がするけれども、そこで語られる状況の変化を映画の状況と比べながら面白く読んだ。
自分は言語それ自体が面白くない小説はまるで読めなくて、キャラクターが魅力的だったりストーリーが面白かったりすると、かえって退屈してしまう(言語が透明化しがちなので)。だから著者の文学観とはほとんど接点がない気がするけれども、そこで語られる状況の変化を映画の状況と比べながら面白く読んだ。
五十嵐監督の単独作は2つ(『息を殺して』と最新作)しか見ていないので断言すのは憚られるけれども、いずれの作品でも際立っているのは、ある特定の事柄を描くまいとする強靭な意志である。『息を殺して』は工場を舞台に選んでいながら「労働」を描くことを頑なに拒み、最新作は夫婦の関係を主題としていながら彼らの「生活」を描くことだけはしまいと固く心に決めているようだ。これらの作品の研ぎ澄まされた映像美学はこの拒否と表裏一体だと思う。たぶんそのせいで、どちらの作品も「空気が薄い」感じが拭えない。『泳ぎすぎた夜』ではそんなことはなかったのだが。
五十嵐監督の単独作は2つ(『息を殺して』と最新作)しか見ていないので断言すのは憚られるけれども、いずれの作品でも際立っているのは、ある特定の事柄を描くまいとする強靭な意志である。『息を殺して』は工場を舞台に選んでいながら「労働」を描くことを頑なに拒み、最新作は夫婦の関係を主題としていながら彼らの「生活」を描くことだけはしまいと固く心に決めているようだ。これらの作品の研ぎ澄まされた映像美学はこの拒否と表裏一体だと思う。たぶんそのせいで、どちらの作品も「空気が薄い」感じが拭えない。『泳ぎすぎた夜』ではそんなことはなかったのだが。
この作品を論じるなら『あみこ』との違いを確認する必要がある。『あみこ』を見たとき、ひどく退屈したのを覚えている。なぜかというと、典型的な「逆張り」映画だっから。逆張り的な態度が退屈なのは、主流派に反旗を翻すかにみえて、それに依存しているからである。『21世紀の女の子』に寄せた短編でも、まだそこから脱却できてはいなかった。
『ナミビアの砂漠』には、逆張り的なところがほとんどない。ちゃんと自分の足で立っている。監督の努力と勉強の賜物だと思う。
この作品を論じるなら『あみこ』との違いを確認する必要がある。『あみこ』を見たとき、ひどく退屈したのを覚えている。なぜかというと、典型的な「逆張り」映画だっから。逆張り的な態度が退屈なのは、主流派に反旗を翻すかにみえて、それに依存しているからである。『21世紀の女の子』に寄せた短編でも、まだそこから脱却できてはいなかった。
『ナミビアの砂漠』には、逆張り的なところがほとんどない。ちゃんと自分の足で立っている。監督の努力と勉強の賜物だと思う。
この世界で自由であるための労働の書。生きることはままならなさと同義である。身体はいうことをきかないし、お金はつねに足りない。社会の仕組みは一挙手一投足を縛りつける。それでもそのままならなさの直中で可能なことはあり、仲間たちとオルタナティブな価値を生み出すことはできる。そのために欠かせないのが「妄想」という燃料である。
この本はいかにも日記のような顔をしているけれど、時系列は無視して行き当たりばったりにページを開いて構わない。どのページを開いても語られているのは同じひとつのことがらなのだから。こんなに「役に立つ」本も少ないと思う。
www.boid-s.com/8269
この世界で自由であるための労働の書。生きることはままならなさと同義である。身体はいうことをきかないし、お金はつねに足りない。社会の仕組みは一挙手一投足を縛りつける。それでもそのままならなさの直中で可能なことはあり、仲間たちとオルタナティブな価値を生み出すことはできる。そのために欠かせないのが「妄想」という燃料である。
この本はいかにも日記のような顔をしているけれど、時系列は無視して行き当たりばったりにページを開いて構わない。どのページを開いても語られているのは同じひとつのことがらなのだから。こんなに「役に立つ」本も少ないと思う。
www.boid-s.com/8269
この日はいかにも京都らしい底冷えのする寒さ。しかし西部講堂には空調がまったくない。灯油ストーブはいくつか置かれているが、極寒。セーター重ね着はもちろん、手袋、マフラーで防寒して上映に臨んだ。
『TOCHKA』について、この映画のトーチカは映画館のようだとよく語られるが、今回の上映では比喩ではなく、本当に旭川の風吹き荒ぶ海岸にあるトーチカの中で映画を見ているかのようだった。
そして西部講堂の音響が尋常じゃなかった。もちろん準備してはいたものの、トークで実際に話したことは、この音響に身を任せるなかで思いついたことだった。
こんなことは初めて。
この日はいかにも京都らしい底冷えのする寒さ。しかし西部講堂には空調がまったくない。灯油ストーブはいくつか置かれているが、極寒。セーター重ね着はもちろん、手袋、マフラーで防寒して上映に臨んだ。
『TOCHKA』について、この映画のトーチカは映画館のようだとよく語られるが、今回の上映では比喩ではなく、本当に旭川の風吹き荒ぶ海岸にあるトーチカの中で映画を見ているかのようだった。
そして西部講堂の音響が尋常じゃなかった。もちろん準備してはいたものの、トークで実際に話したことは、この音響に身を任せるなかで思いついたことだった。
こんなことは初めて。
たぶん根本的な問題は、タイトルと映画本体で語りの視点がズレてしまったこと。
タイトルが示唆するのは、コーダであるひとりの人物(ぼく)を語り手とする映画のはず。
しかし本編では、「聴こえる人たちの世界」と「聴こえない人たちの世界」を自在に行き来し、両者を架橋する語りの視点が採用されている。
それはコーダの視点とはまったく異なる。
ここは主人公の視点にこだわるべきではなかったか。
この視点の選択のせいで、「聴こえない人たちの世界」が、ろう者を描いた従来の多くの映画と同様に、「欠如」によって定義されることになってしまった。
じつにもったいない。
たぶん根本的な問題は、タイトルと映画本体で語りの視点がズレてしまったこと。
タイトルが示唆するのは、コーダであるひとりの人物(ぼく)を語り手とする映画のはず。
しかし本編では、「聴こえる人たちの世界」と「聴こえない人たちの世界」を自在に行き来し、両者を架橋する語りの視点が採用されている。
それはコーダの視点とはまったく異なる。
ここは主人公の視点にこだわるべきではなかったか。
この視点の選択のせいで、「聴こえない人たちの世界」が、ろう者を描いた従来の多くの映画と同様に、「欠如」によって定義されることになってしまった。
じつにもったいない。
支配的体制はどのようにして覆されるのか。
それを改めて示してくれた。
その道筋はどんな政治体制でも本質的には変わらないだろう。
いかなる政治体制も永続することはない。
そのことを忘れないこと。
支配的体制はどのようにして覆されるのか。
それを改めて示してくれた。
その道筋はどんな政治体制でも本質的には変わらないだろう。
いかなる政治体制も永続することはない。
そのことを忘れないこと。
いろいろと考える材料のある作品だった。
出演している役者たちの顔がいい。ひとりひとり個性的で魅力がある。
日本を舞台とするフィクション映画の「本当らしさ」(リアリティ)のコードがすっかり更新されているのも印象的。最近の日本映画のいくつかで試みられてきたコードの刷新が完全に完了した感じがある。
ただそれで映画がエキサイティングになっているかといえば、それはまた別問題。
しかしここにあるような映像と音響と音楽がこれからは「映画」と呼ばれるようになるのかも知れないとも感じた。
いろいろと考える材料のある作品だった。
出演している役者たちの顔がいい。ひとりひとり個性的で魅力がある。
日本を舞台とするフィクション映画の「本当らしさ」(リアリティ)のコードがすっかり更新されているのも印象的。最近の日本映画のいくつかで試みられてきたコードの刷新が完全に完了した感じがある。
ただそれで映画がエキサイティングになっているかといえば、それはまた別問題。
しかしここにあるような映像と音響と音楽がこれからは「映画」と呼ばれるようになるのかも知れないとも感じた。
www.korpus.org/archives/4464
次作がどうなるのかわかりませんが、監督の仕事からまた目が離せなくなってきました。
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次作がどうなるのかわかりませんが、監督の仕事からまた目が離せなくなってきました。
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korpus.org/archives/4135
タイトルが示す通り、観客たちの経験に注目して人形浄瑠璃の「近代」の始まりを描いています。
大きな括りでまとめると、日本の「古典芸能」を観客史の視点からとらえ直す試みと要約できるかもしれません。目次を添付しますので、少しでも興味をもった人は手にとってみてください!
内容紹介はこちら:
korpus.org/archives/4135
タイトルが示す通り、観客たちの経験に注目して人形浄瑠璃の「近代」の始まりを描いています。
大きな括りでまとめると、日本の「古典芸能」を観客史の視点からとらえ直す試みと要約できるかもしれません。目次を添付しますので、少しでも興味をもった人は手にとってみてください!