(前略)当社にはオビシャの行事が伝えられ、江戸時代末までは、毎年2月11日に諏訪大社での狩猟の豊かさを祈る御頭祭を模して神前に猪・鹿の頭を供え、豊作を祈りながら弓で的を射て、その年の豊作を占う的射と、神前に供えたものを神とともに食する共同飲食が行われたと伝えられています。
神前に供えたものを神とともに食する共同飲食が行われたと伝えられています。
現在は毎年1月11日にオビシャが行われています。
(案内板より)
(前略)当社にはオビシャの行事が伝えられ、江戸時代末までは、毎年2月11日に諏訪大社での狩猟の豊かさを祈る御頭祭を模して神前に猪・鹿の頭を供え、豊作を祈りながら弓で的を射て、その年の豊作を占う的射と、神前に供えたものを神とともに食する共同飲食が行われたと伝えられています。
神前に供えたものを神とともに食する共同飲食が行われたと伝えられています。
現在は毎年1月11日にオビシャが行われています。
(案内板より)
たまたま出会ったおじさん(地元民ではない)が撮ってくれました
たまたま出会ったおじさん(地元民ではない)が撮ってくれました
風祝一族の末裔である東風谷(こちや)家は、代々風を鎮める祭祀を担ってきた。
その祭場が風祝塚(笠無明神)であり、古くは鎮風の祭が行われたという。
のちに周辺は田畑へと開墾されたが、風祝家は現在も続いており、塚と共にその伝統を伝えている。」
(案内板より)
#東風谷家文書
「風祝塚」「風無(笠無、かさなし)明神」とも呼ばれる。
二枚目: 昭和初期(1930年代後半か)の風祝塚。天照大神碑は明治・大正期に建てられたもので、戦後に撤去されたらしい。
#東風谷家文書
風祝一族の末裔である東風谷(こちや)家は、代々風を鎮める祭祀を担ってきた。
その祭場が風祝塚(笠無明神)であり、古くは鎮風の祭が行われたという。
のちに周辺は田畑へと開墾されたが、風祝家は現在も続いており、塚と共にその伝統を伝えている。」
(案内板より)
#東風谷家文書
天正十年三月、織田軍は諏方上宮(諏訪上社)を焼き討ちにした。その後、信長公が法華寺に滞在した際、東風谷の祝が「年を越すこと叶ふまじ(今年を越えて生きることはない)」と予言した。同年六月、本能寺で討たれた。人々はこれを大明神の神罰だと噂した。
(『諏訪古伝集』より)
#東風谷家文書
天正十年三月、織田軍は諏方上宮(諏訪上社)を焼き討ちにした。その後、信長公が法華寺に滞在した際、東風谷の祝が「年を越すこと叶ふまじ(今年を越えて生きることはない)」と予言した。同年六月、本能寺で討たれた。人々はこれを大明神の神罰だと噂した。
(『諏訪古伝集』より)
#東風谷家文書