デンシノオト
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デンシオト・新ブルアカアカウント・2025
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自分は最近体調が良くなくあまり出かけられない。映画も美術も体力を使うので鑑賞どころではなくなる。歳をとるということを痛感する。だからこそネットが大切なのだか、だからこそ通俗・本音で下品で汚染されると困る。
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Xとブルスカで同じワードで検索してみるとそれぞれがまったく別の投稿内容が多くて驚く。Xは非難中傷が多い。冷笑も。おそらく今の日本人の平均的な「そう思っている」反応なのだろう。だから自分はそこには属したくないと思った。同じ日本人でもその場所にはいたくない。
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問題は広告として使われる場合、この種の権利許諾は敏感になるはずだが、それでもスルーされてしまった点だ。「江口寿史」だからだろうか。それともトレースは公然の秘密だったのだろうか。だが後の回収のリスクを考えればさすがに知っていてスルーはしないだろう。となればやはり作家としてん知名度があり、「信用されていた」からだろうか。
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自分は江口寿史のファンではないけど、彼のファンがショックを受けていると思うと辛い。この件はどうにも擁護が難しいからだ。
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江口寿史、トレースが悪いのではなく権利関係と許諾の問題でモデルをつけて元の写真を撮影すればよかった。だがその元となる写真を撮るには衣装のスタイリストもいるだろうし、衣装の提供もいるし、小物も必要になるし、メイクもメアメイクも必要になるし、当然スタジオもカメラマンも必要になるし、それをすべて段取りするコーディネイターも必要となるし、アートディレクターも必要となる。つまりファッション誌の写真一枚撮るにも、ここで書く以上の人と手間がかかっているので、そのままトレースしてしまっては、作家としての倫理以前に権利の侵害としか思えない。やはり相当に問題があると思う。
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クールダウンが必要なんだと思う。Twitter(X)は人のテンションを静かにそして確実に上げてしまう。Twitter(X)にアディクトした人はその静かな興奮状態がずっと続く。これは心身を病むのではないか。
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ファンメイドの動画と思うけど、とにかくかっこよかった。モノクローム。

Station to Station - David Bowie - Isolar tour 1976
www.youtube.com/watch?v=qF7l...
Station to Station - David Bowie - Isolar tour 1976
YouTube video by efx 018
www.youtube.com
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自分もまたTwitterによって生まれてしまった承認欲望を自覚し距離を取るべきなのだ。加速する欲望は実は加速していない。停滞している。TwitterからXにかけてそういった状態の中生きてきたように思う。
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自分にとって新しい音楽について知る一番のメディアは、なんだかんだでX(Twitter)でもあることに変わりはない。その部分では情報量が圧倒的だ。

しかし問題は音楽について知る「だけ」ではなく、社会の負の側面も大量に摂取することになる点だ。その結果、精神が疲弊する。まさに本末転倒である。だからこそいったんはX(Twitter)を生活の中心(本当にそうだった!情けない!)から降ろす必要がある。
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もちろんTwitterをそこまで理想化してはならないし、Twitterの時代から十分に人の欲望をブーストしていたことは事実だ。そもそも炎上という言葉と現象はTwitter時代に始まったものである。だがそこに具体的な金銭のやり取りは存在しなかった。要するに何らかの条件下での「課金」はなかった)はなかった。

となるとイーロン・マスクはもともとあったTwitterの承認と欲望のシステムをより加速させて、そこに金銭の報酬を得る仕組み変えていったといえる。彼はやはり天才的な一面がある。問題は金を生むシステムではない。金=課金によって承認と欲望が満たされるという仕組みにTwitterを組み替えた。
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Twitterは何だかんだで「あってよかった」ものではあったが、イーロンが改悪したXは「あってはならない」ものになりつつある気がする。なぜか。

それは個人の欲望をよりブーストさせる構造になっているからだ。つまりTwitterになくてXにあるものは、イーロン・マスクの「思想」であって、それこそがXというプラットフォームの本質を支えているものに思える。だからこそ彼は「X」と名付けたのではないか。

逆にいえばTwitterにあってXにないものといえば、インターネットの初期もしくは原初にあって平等の思想だろう。この差異はとても大きく、深い溝がある。
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テクノポップと日本というテーマはやはり一種のナショナリズムの問題にどうしても行き着いてしまう。オリエンタズムの自覚的な援用としてのYMO、海外の文化の洒脱の流用としてのプラスチックス、日本=戦前への自嘲的な引用としてのP-MODEL、ヒカシュー、そしてゲルニカ。すべては日本という「悪い場所」から、ポップ音楽をどう鳴らすのかという一種の「開きなおり」だったと今は思う。この開き直り=自嘲性が非常に80年代的であり、一種のナショナリズムの抑圧であったと思う。しかしその自嘲的コンセプトが90年代の日本でベタに流用されることで「J」としての刻印を再烙印されるようになった。というのが日本の音楽と思う。
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現実に対する根本的な楽観主義と現実に対する不満が共存しているのあ日本であり、この矛盾する状態を解消するのが気休めとして虚構となるわけだ。本来は神との契約が結ばれ、そこから現実の行動が始まるはずが、まさに契約と現実の問題を蔑ろに最後の最後で「神頼み」にして現実から逃避する。