呉越のことのは
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白川祐( https://bsky.app/profile/shirakawayou.com )のサブアカウント。呉越春秋と越絶書の日本語訳を投稿します。
#呉越春秋 楚の三侯から霊王に至るまで伝わり、自ら楚に代々伝わるものだと称しました。思うに桃弓棘矢で隣國に備えたのです。
January 19, 2026 at 12:27 PM
#越絶書 越絶荊平王內伝第二
昔、楚の平王の臣に伍子奢というものがあった。奢は王に罪を得て、まさに殺されようとすると、その二人の子は逃走し、呉子尚は呉に奔り、伍子胥は鄭に奔った。
January 18, 2026 at 11:13 AM
#呉越春秋 琴氏はそこで弓を横にし臂を着け、機を施し枢を設け、これに力を加え、そののち諸侯を征服することができました。琴氏はこれを楚の三侯に伝えました。いわゆる句亶、鄂、章であり、人は麋侯、翼侯、魏侯と号しました。
January 17, 2026 at 11:35 AM
#越絶書 小さな記述は意味が通じず、ある程度の偏りがある。明らかに説く者が専らにしていなかったので、ゆえに選定は重複し、中外編が作られたのである」
January 16, 2026 at 1:21 PM
#呉越春秋 その道を羿に伝え、羿は逄蒙に伝え、逄蒙は楚の琴氏に伝えましたが、琴氏は弓矢は天下を威服するのに足りないと思いました。この時、諸侯は互いに撃ち合い、兵刃は交錯し、弓矢の威力では征服することはできませんでした。
January 15, 2026 at 12:05 PM
#越絶書 これを説く者は、夫子が詩・書を策定し経書や易を成したのを見て、また小芸が重複しているのを知った。また各々の弁士が述べるところは、越の優れた功績とは切り離せない。
January 14, 2026 at 12:58 PM
#呉越春秋 ここにおいて、神農・黄帝は木に弦を張り弧を作り、木を削って矢を作り、弧矢の利点は四方を威圧しました。黄帝の後、楚には弧父がいました。弧父は、楚の荊山に生まれ、生まれて父母を見ることがなく、子供の時、弓矢を習い、射て外すことはありませんでした。
January 13, 2026 at 11:30 AM
#越絶書 答えて言った
「経は事を論じ、伝は意を述べ、外は一人の所作ではなく、頗る万物を覆っている。或いは呉越のことだけではなく、同じ類のものを引用して意を託した。
January 12, 2026 at 1:21 PM
#呉越春秋 孝子は、父母が禽獣に食べられるのを見るに忍びず、ゆえに彈を作ってこれを守り、鳥獣の害を絶やしました。ゆえに歌に「竹を断ち、木につなげ、土を飛ばし、害を逐う」というのは、このことをいうのです。
January 9, 2026 at 11:18 AM
#越絶書 後世の人がこれを述べ説き、そこでしだいに中外篇ができたのである。
問うて言った
「或いは経といい或いは伝といい、或いは内といい或いは外というのはどういうことか」
December 22, 2025 at 11:08 AM
#呉越春秋 「孝子の弾弓とはどういうものか」
音は言った
「昔、人民は質朴で、飢えては鳥獣を食べ、渇いては霧や露を飲み、死ね白茅で包み、野に投じられました。
December 21, 2025 at 12:55 PM
#越絶書 過分なく偏りなく、本末を引き出した。己の過ちがないことを明らかにし、ついに力を出し尽くした。まことによく智を極めたが、身をもってこれに当たるに足りず、誉れを求めることを嫌い、そのために姓名をしるし、自分を指すに値するとしなかったのである。
December 17, 2025 at 11:50 AM
#呉越春秋 越王は言った
「しかしあなたに一つ二つ聞かせてほしい」
音は言った
「私は、弩は弓から生じ、弓は弾弓から生じ、弾弓は古の孝子から始まったと聞いております」
December 16, 2025 at 11:02 AM
#越絶書 命のない危うい国で、長生きすることを顧みず、切々と争い諫め、ついに聴かれなかった。憂いが至り患いが至り、怨恨して文を作った。
December 15, 2025 at 12:27 PM
#呉越春秋 越王は音を招いて問うて言った
「私は、お前が射術が得意だと聞いているが、その道はどのようにできたのか」
音は言った
「私は、楚の田舎者で、かつて射術を歩んできましたが、未だその道を知り尽くすことができません」
December 14, 2025 at 12:34 PM
#越絶書 そもそも人の情というのは、安泰ならば作らず、窮すれば怨み、恨めば作ることのであり、詩人が職を失って怨み、憂い嘆いて詩を作るようなものである。子胥は忠義を懐き、君が讒言に迷い社稷が傾くのを忍びなかった。
December 13, 2025 at 10:56 AM
#呉越春秋 そこで部隊長や達人に命じてこれに習わせ、軍士に教えさせた。この時皆越女の剣を称えた。
ここで范蠡はまた射術が得意な陳音という者を進めた。音は楚の人であった。
December 12, 2025 at 11:37 AM
#越絶書 先聖賢者について記述した者が、作ったものが自ら称し姓名を列記するに足らないのであれば、どうして自分を指すに値するだろうか。一説に子胥が作ったものではないかという。
December 11, 2025 at 12:58 PM
#呉越春秋 この道は、一人が百人に当たり、百人が万人に当たるものです。王がこれを試したいと思えば、そのしるしはすぐに現れるでしょう」
越王は大いに喜び、そこで娘に号を与え、号して「越女」といった。
December 10, 2025 at 12:37 PM
#越絶書 当時、聖人(孔子)は六芸を教授し、五経を刪定し、七十二賢人がおり、学徒三千を養い、魯の闕門で学問を講習した。越絶は小芸の文であり、固より四方に行き渡るに値しない。
December 9, 2025 at 11:22 AM
#呉越春秋 形を追い影を追うのは、光を彷彿とさせます。息を吸って吐いても、法規禁令にふれません。縦横でも逆順でも、まっすぐ行って戻っても音は聞こえません。
December 8, 2025 at 12:10 PM
#越絶書 この時子貢は魯の使者となり、あるときは斉に至り、あるときは呉に至った。その後、事を語るのに呉越をもって喩えとなし、国人が記述を承け、ゆえにただ記述が呉越のことにあるのである。
December 7, 2025 at 1:10 PM
#呉越春秋 形成を布き運気を待ち、精神と共に行き、暗くても日が出ているようで、兎のように飛び跳ねます。
December 6, 2025 at 12:42 PM
#越絶書 あるいは子貢が作ったともされるが、まさに記述内容は四方に行き渡っていたはずであり、ただ呉越のみであるべきではなかった。記述が呉越のことであるのも、また理由があった。
December 5, 2025 at 11:22 AM
#呉越春秋 およそ手で武器を操って戦う道は、内に精神を充実させ、外に安らかな様子を示し、見る分には美しい婦人のようですが、撃ち取るには恐ろしい虎のようです。
December 4, 2025 at 12:56 PM