比較言語学(comparative linguistics)が専門です。スラヴ語(ロシア語など)をはじめ、多言語マニアです。
第13回東京大学南原繁記念出版賞受賞
趣味は語学|読書|温泉|野球|カラオケ(特にback number)|競馬(見るだけ)|ジャグリング|マッサージ(する方)|モンハン|ポケモンなどなど。
4/24発売予定で、既にAmazonから予約可能です。拡散にどうぞご協力よろしくお願いいたします!
www.amazon.co.jp/dp/406539513...
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「嫌いなの知ってた」と言われた人が嫌いになったきっかけははっきりしていて、一度国語で負けた時に成績表の前で「一矢報いた!」と大喜びしていたからですね。わたしがそこにちょうど通りかかるという不幸がなければもう少しマシだった気がするんですが、性格が絶望的に合わないという感覚はあるんで、遅かれ早かれ、だったでしょうね。
「嫌いなの知ってた」と言われた人が嫌いになったきっかけははっきりしていて、一度国語で負けた時に成績表の前で「一矢報いた!」と大喜びしていたからですね。わたしがそこにちょうど通りかかるという不幸がなければもう少しマシだった気がするんですが、性格が絶望的に合わないという感覚はあるんで、遅かれ早かれ、だったでしょうね。
ついでにアパートを見るということで両親もついてきてくれていたのですが、父が先にわたしの受験番号を見つけちゃったんですよ。大喜びしていて。胴上げもしてもらいました。
点数的には余裕でしたし、3年の時はずっとA判定だったんで今思い返すと落ちる方がおかしいくらいだったんですが、当時は不安で仕方なかったですね。
高校も受験休みだったから担任への連絡は休み明けでいいか〜とか考えてたら心配した担任から電話が来たなんてこともありました。元気にしてるかな、あの人。
ついでにアパートを見るということで両親もついてきてくれていたのですが、父が先にわたしの受験番号を見つけちゃったんですよ。大喜びしていて。胴上げもしてもらいました。
点数的には余裕でしたし、3年の時はずっとA判定だったんで今思い返すと落ちる方がおかしいくらいだったんですが、当時は不安で仕方なかったですね。
高校も受験休みだったから担任への連絡は休み明けでいいか〜とか考えてたら心配した担任から電話が来たなんてこともありました。元気にしてるかな、あの人。
あと、意外と完全な左利きっていないんじゃないでしょうか。わたしは祖母の方針もあって一部矯正されており、箸、おたま、鋏などは右で使えます。鉛筆だけは矯正しようとしてもできなかったそうです。箸は右に矯正したら下手になったと言われました。泣いていいですか?
実は利き手ってかなりいろいろなものにあります。右利きの人が気づきにくいところだと改札とか。
あと、意外と完全な左利きっていないんじゃないでしょうか。わたしは祖母の方針もあって一部矯正されており、箸、おたま、鋏などは右で使えます。鉛筆だけは矯正しようとしてもできなかったそうです。箸は右に矯正したら下手になったと言われました。泣いていいですか?
実は利き手ってかなりいろいろなものにあります。右利きの人が気づきにくいところだと改札とか。
そういえば、最近の球児は帽子のツバを曲げませんよね。我々の頃は曲げるのが普通でした。
そういえば、最近の球児は帽子のツバを曲げませんよね。我々の頃は曲げるのが普通でした。
質的研究と量的研究は対立しているように語られることも多いのですが、二律背反というわけではないので、両方やれよで済んでしまったりします。
量的研究では個々の事例が尊重されないというのはその通りなのですが、それを感情的に強調されるとどうにもしらけてしまいますね。
質的研究と量的研究は対立しているように語られることも多いのですが、二律背反というわけではないので、両方やれよで済んでしまったりします。
量的研究では個々の事例が尊重されないというのはその通りなのですが、それを感情的に強調されるとどうにもしらけてしまいますね。
わたしはこの所謂「原郷」を学問的に扱うのは不可能だと考えています。端的に言って、信仰心なしでは確たる結論が出せないテーマです。
最後の方を読む限り、著者もこの辺の「学説」が信仰心の産物だということは認識していますが、そこで「でもどうにか克服できるはず」に行ってしまうのがわたしと違うところですね。わたしは「ならば学問として扱う価値なし」という方に行きます。
全体として、研究の入門書というよりは、民族系統と言語系統を混同するといかに厄介で面倒な問題になるかということを示したことに意義があるような気がします。
わたしはこの所謂「原郷」を学問的に扱うのは不可能だと考えています。端的に言って、信仰心なしでは確たる結論が出せないテーマです。
最後の方を読む限り、著者もこの辺の「学説」が信仰心の産物だということは認識していますが、そこで「でもどうにか克服できるはず」に行ってしまうのがわたしと違うところですね。わたしは「ならば学問として扱う価値なし」という方に行きます。
全体として、研究の入門書というよりは、民族系統と言語系統を混同するといかに厄介で面倒な問題になるかということを示したことに意義があるような気がします。
ですがこれ、同時に詳しく根拠を述べないと、十分な根拠があるのか、それとも信仰心の産物なのか、読者には区別がつかないよな、といつも思います。そして、わたしが背景知識を補って判定できる範囲では、後者の方が体感的には多いです。
ですがこれ、同時に詳しく根拠を述べないと、十分な根拠があるのか、それとも信仰心の産物なのか、読者には区別がつかないよな、といつも思います。そして、わたしが背景知識を補って判定できる範囲では、後者の方が体感的には多いです。
参考にはなったのですが、殆どギリシア語の個別的な話で、これに「歴史言語学の方法」という書名を付けるのは...と思いました。
参考にはなったのですが、殆どギリシア語の個別的な話で、これに「歴史言語学の方法」という書名を付けるのは...と思いました。
ただ、このシリーズはカジュアルに古典を読むためのものなので、詳細なコメンタリーの類が欲しい場合にはあまり向きません。母音の長短も表記されていません。
Arma virumque canō trōiae quī prīmus ab ōrīs...と始まります。ラテン語で規範的とされているのはキケロの散文ですが、やはり韻文も良いものです。冒頭数行だけでも覚えておくと知ったかぶりができます。わたし自身はラテン語は得意ではありません。
ただ、このシリーズはカジュアルに古典を読むためのものなので、詳細なコメンタリーの類が欲しい場合にはあまり向きません。母音の長短も表記されていません。
Arma virumque canō trōiae quī prīmus ab ōrīs...と始まります。ラテン語で規範的とされているのはキケロの散文ですが、やはり韻文も良いものです。冒頭数行だけでも覚えておくと知ったかぶりができます。わたし自身はラテン語は得意ではありません。