読んだ本とか、考えごととか。読書に限らず「読む」という人間のふるまい、想像なんかに興味があります。雑煮のようなアカウントです。
conocybe(コガサタケ)
コクヨ 鉛筆シャープ 0.7
マルマン スケッチブック SOHO501 B5
エビマヨよりも皿がメインになってしまった感が。FouFouさんは、怪談界隈の聖地にもなりつつあるそうな。チャーハンも美味しいのでぜひ。最近あんまり本を読んでないな。
コクヨ 鉛筆シャープ 0.7
マルマン スケッチブック SOHO501 B5
エビマヨよりも皿がメインになってしまった感が。FouFouさんは、怪談界隈の聖地にもなりつつあるそうな。チャーハンも美味しいのでぜひ。最近あんまり本を読んでないな。
作り手の制作に関わる時間、作品を通して紡がれる人間関係、私生活など含め、ひとつの演劇が練り上げられていく。確かにそれらの時間が作り手にはリアルでカラフルなんだけれど、いずれ作品が立ち上がってくると、それまでの過程は作品の背景に隠れ、綺麗にパッケージされる。
作り手の制作に関わる時間、作品を通して紡がれる人間関係、私生活など含め、ひとつの演劇が練り上げられていく。確かにそれらの時間が作り手にはリアルでカラフルなんだけれど、いずれ作品が立ち上がってくると、それまでの過程は作品の背景に隠れ、綺麗にパッケージされる。
安部公房『都市への回路』より。比喩が用いられる際に、生理的な感覚に訴える言葉が目立つという指摘に対して、五感で切り出されるものには限界があり、言葉による概念は多様で精密である。しかし再び単純な五感の次元に引き戻さないと、イメージとしては共有されにくいと。
あまりにも概念的な記述になればそのシンボリックさが際立って、イメージとして共有されずに、ものごとの神秘化による混乱が生じる。生理的な共通言語を介して、あり得ないけれども想像はできるといった感覚を読者に抱かせる。
安部公房『都市への回路』より。比喩が用いられる際に、生理的な感覚に訴える言葉が目立つという指摘に対して、五感で切り出されるものには限界があり、言葉による概念は多様で精密である。しかし再び単純な五感の次元に引き戻さないと、イメージとしては共有されにくいと。
あまりにも概念的な記述になればそのシンボリックさが際立って、イメージとして共有されずに、ものごとの神秘化による混乱が生じる。生理的な共通言語を介して、あり得ないけれども想像はできるといった感覚を読者に抱かせる。
著者も書いているように書店員本として読むと物足りなさを感じると思う。直近で『箱男』を読んだせいか、書店のカウンターがこちら側を覗く箱みたいに見える。彼らの書き記すメモを覗きたいという思いは確かにあるかもしれない。
著者の故郷である利尻島の記憶が、人を起点に引き出されていく。「書店は、故郷だ。」流れ流れて本屋となった著者はそう言及する。あらゆる言葉が一時的に書店という場所にとどめられ、いろんな手に渡っていく。
他者の言葉をヤドカリみたく借りてみよう。
著者も書いているように書店員本として読むと物足りなさを感じると思う。直近で『箱男』を読んだせいか、書店のカウンターがこちら側を覗く箱みたいに見える。彼らの書き記すメモを覗きたいという思いは確かにあるかもしれない。
著者の故郷である利尻島の記憶が、人を起点に引き出されていく。「書店は、故郷だ。」流れ流れて本屋となった著者はそう言及する。あらゆる言葉が一時的に書店という場所にとどめられ、いろんな手に渡っていく。
他者の言葉をヤドカリみたく借りてみよう。
箱は覗いている自分の無防備な姿を隠しているのだろうか。おそらく、見る/見られるの主従関係に入ってしまうとたちまち、箱男の匿名性が失われて自分が浮かび上がる。かつてスマホの画面に写り込んだ自分の顔を描いたことがある。
画面越しに投稿するのも「覗く」に似た行為なのかもしれない。投稿主であるはずの自分の存在が薄くなる。すると急に画面が暗くなって、自分の顔と目が合って、見る/見られるの関係に。
箱は覗いている自分の無防備な姿を隠しているのだろうか。おそらく、見る/見られるの主従関係に入ってしまうとたちまち、箱男の匿名性が失われて自分が浮かび上がる。かつてスマホの画面に写り込んだ自分の顔を描いたことがある。
画面越しに投稿するのも「覗く」に似た行為なのかもしれない。投稿主であるはずの自分の存在が薄くなる。すると急に画面が暗くなって、自分の顔と目が合って、見る/見られるの関係に。
幼少期を思い返すと、自分というものが親の言葉によって徐々に形成されていく。自分の預かり知らぬところで、自分というものが語られ、共有される。他言語への通訳と違って母語となると、自分は徐々にそれを理解していくから、自然と語られたことについて受け入れ、自ら演じようとしてしまう。
幼少期を思い返すと、自分というものが親の言葉によって徐々に形成されていく。自分の預かり知らぬところで、自分というものが語られ、共有される。他言語への通訳と違って母語となると、自分は徐々にそれを理解していくから、自然と語られたことについて受け入れ、自ら演じようとしてしまう。
無から生成された文章よりも誰かの熱量によって生み出されたものが、他者に響いたりするし、その熱量に人は信頼を置くのだろう。直近の有隣堂YouTubeを視聴して。
無から生成された文章よりも誰かの熱量によって生み出されたものが、他者に響いたりするし、その熱量に人は信頼を置くのだろう。直近の有隣堂YouTubeを視聴して。
新鮮な空気が身体に循環されたのか、部屋に戻るとなんとも言えない匂い、どんよりとした空気が襲ってきた。慣れは怖い、そのどんよりが普通になってくる。
ひとたび光が当たり始めると、これまで見て見ぬふりをしていたところまで照らされる。少しずつでも変えていかないと。
新鮮な空気が身体に循環されたのか、部屋に戻るとなんとも言えない匂い、どんよりとした空気が襲ってきた。慣れは怖い、そのどんよりが普通になってくる。
ひとたび光が当たり始めると、これまで見て見ぬふりをしていたところまで照らされる。少しずつでも変えていかないと。
子どもの頃、ボールを離してしまって、止めに行こうとして車とぶつかりそうになった経験、それがいろんな衝突しそうな場面に顔を出すのだろうか。それほど深刻な出来事でもなかったのに、知らないおじさんに怒られたのが強烈に残ったのか。
子どもの頃、ボールを離してしまって、止めに行こうとして車とぶつかりそうになった経験、それがいろんな衝突しそうな場面に顔を出すのだろうか。それほど深刻な出来事でもなかったのに、知らないおじさんに怒られたのが強烈に残ったのか。
わからないを保持しつつ、わからなさに導かれるまま読み進めていく。学びという時間的な現象も、わからなさを起点にとりあえず身を投じてみるところから始まる。突き詰めれば、生きるということ自体、そうだと思う。
最初から得られるものが分かっている、金額に見合ったもので不変のもの、そういった等価交換の無時間モデルが蔓延している。時間的な現象がプツッと分かれるようで、生と死についても数だけの問題に終始する。
わからないを保持しつつ、わからなさに導かれるまま読み進めていく。学びという時間的な現象も、わからなさを起点にとりあえず身を投じてみるところから始まる。突き詰めれば、生きるということ自体、そうだと思う。
最初から得られるものが分かっている、金額に見合ったもので不変のもの、そういった等価交換の無時間モデルが蔓延している。時間的な現象がプツッと分かれるようで、生と死についても数だけの問題に終始する。
郵便ポストみたいな人物についての小説を買う。郵便という信頼で成り立つシステム、そのプロセスが得体の知れない存在であれば、急におかしなものに変貌する。送り主と宛名が同居する切符のようなものが、全く意味をなさない場所で自由に改変されて扱われる。本来想像する必要のない隙間に現れた人間。
郵便ポストのようにこちら側に口が開いている。いろんな誰かの情報が入ってくるだけ。その人物は匿名で、ただその誰彼の情報を覗き見るかのように抱え込む。宛名の実態がよくわからない架空請求やDMみたいに、名前はただの飾りでしかなくて、ほぼもぬけの殻のレンタルオフィスそのもの。
郵便ポストみたいな人物についての小説を買う。郵便という信頼で成り立つシステム、そのプロセスが得体の知れない存在であれば、急におかしなものに変貌する。送り主と宛名が同居する切符のようなものが、全く意味をなさない場所で自由に改変されて扱われる。本来想像する必要のない隙間に現れた人間。
郵便ポストのようにこちら側に口が開いている。いろんな誰かの情報が入ってくるだけ。その人物は匿名で、ただその誰彼の情報を覗き見るかのように抱え込む。宛名の実態がよくわからない架空請求やDMみたいに、名前はただの飾りでしかなくて、ほぼもぬけの殻のレンタルオフィスそのもの。
離婚調停で有利な方向にもっていこうとする夫は、妻の行動を切り貼りして、彼女の情緒不安定さを主張する。妻は、自分の抱いた不気味さを確かめるかのように、自分の感覚と経験、社会的な出来事を自然と結びつけてしまう。
「まじめ」の側から「ふまじめ」を説明しようとするほど滑稽なことはない。何かしらの物語にして自分というものを保持しようとする人間の本質と、そういった固着から脱したい、自らを変化に晒して傷つこうとする人間の宿命と。
離婚調停で有利な方向にもっていこうとする夫は、妻の行動を切り貼りして、彼女の情緒不安定さを主張する。妻は、自分の抱いた不気味さを確かめるかのように、自分の感覚と経験、社会的な出来事を自然と結びつけてしまう。
「まじめ」の側から「ふまじめ」を説明しようとするほど滑稽なことはない。何かしらの物語にして自分というものを保持しようとする人間の本質と、そういった固着から脱したい、自らを変化に晒して傷つこうとする人間の宿命と。
芸術と社会との関係みたいなことに興味を持ち出したきっかけの本。当時は具体的な作家の活動しか内容的にうまく吸収できなかった。
「「わからなさ」をいただく」たやすく乗り越えていく感じ。ギュッと包み込んでくるものへの抵抗、自分の内に宿った小さな棘、そのわからなさを抱えたまま自ら開いていく「生の技法」
何らかの物語にまとめ上げるような内への引き留めでなく、わからなさを起点にそれぞれに開かれていく、外へのこじ開け。本文で紹介されていた、伊達伸明「とつとつな音」という詩の言葉がグッときた。
芸術と社会との関係みたいなことに興味を持ち出したきっかけの本。当時は具体的な作家の活動しか内容的にうまく吸収できなかった。
「「わからなさ」をいただく」たやすく乗り越えていく感じ。ギュッと包み込んでくるものへの抵抗、自分の内に宿った小さな棘、そのわからなさを抱えたまま自ら開いていく「生の技法」
何らかの物語にまとめ上げるような内への引き留めでなく、わからなさを起点にそれぞれに開かれていく、外へのこじ開け。本文で紹介されていた、伊達伸明「とつとつな音」という詩の言葉がグッときた。
わからないもの、引っかかっているもの、いろんな時間を抱えて、行ったり来たりする。わからないものをわからないまま留めておくことができるのは凄いことだし、それが学びの原動力にもなる。いまはそれが耐えられないのか、得られたはずのものが得られなかったという声が大きい。
わからないもの、引っかかっているもの、いろんな時間を抱えて、行ったり来たりする。わからないものをわからないまま留めておくことができるのは凄いことだし、それが学びの原動力にもなる。いまはそれが耐えられないのか、得られたはずのものが得られなかったという声が大きい。
例にある本屋を活用できる人が集まったらそれはそれでいいだろうけど、あまりにも単純すぎるし、小難しい単語ばかり並べて空中戦を繰り広げて、ビュアーから拍手喝采みたいな他人の言葉が飛び交う非日常より、日常の領域から自分たちの言葉を紡ぎながら、適度な入射角と距離感で世界と繋がる方がいい。
例にある本屋を活用できる人が集まったらそれはそれでいいだろうけど、あまりにも単純すぎるし、小難しい単語ばかり並べて空中戦を繰り広げて、ビュアーから拍手喝采みたいな他人の言葉が飛び交う非日常より、日常の領域から自分たちの言葉を紡ぎながら、適度な入射角と距離感で世界と繋がる方がいい。
呼吸が筋肉の収縮と弛緩による受動的なもので、その呼吸筋を動かすためのエネルギーが、ATPの分解によって生成されているなら、人間の存在自体かなり委ねられているものなんだなと。検査で「楽な呼吸をしてください」と言われ、吸って吐いてとわかるのは、楽な呼吸か?と妙に力が入る。
呼吸が筋肉の収縮と弛緩による受動的なもので、その呼吸筋を動かすためのエネルギーが、ATPの分解によって生成されているなら、人間の存在自体かなり委ねられているものなんだなと。検査で「楽な呼吸をしてください」と言われ、吸って吐いてとわかるのは、楽な呼吸か?と妙に力が入る。
「触視的平面の時代において、ひとは『にせもの』の彼方に『ほんもの』があるはずだと考えない。現代は、『にせもの』が『にせもの』として触られ、操作され、加工され、多くのひとがその操作そのものに快楽を覚える時代であり、また『にせもの』を触っているだけでもいつか『ほんもの』に届くはずだと信じられる時代」(p.388)
「読む」という行為も、触視的平面の時代の変化を受けている気がする。こちら側から操作可能になったが故に、向こう側の見えない領域を想像する必要がなくなる。画面上で複数の時間をパッチワーク的に紡ぎ合わせる無時間モデル的な世界観。
「触視的平面の時代において、ひとは『にせもの』の彼方に『ほんもの』があるはずだと考えない。現代は、『にせもの』が『にせもの』として触られ、操作され、加工され、多くのひとがその操作そのものに快楽を覚える時代であり、また『にせもの』を触っているだけでもいつか『ほんもの』に届くはずだと信じられる時代」(p.388)
「読む」という行為も、触視的平面の時代の変化を受けている気がする。こちら側から操作可能になったが故に、向こう側の見えない領域を想像する必要がなくなる。画面上で複数の時間をパッチワーク的に紡ぎ合わせる無時間モデル的な世界観。
時間的な現象をある一点で捉えたり、交換可能なものとして捉える傾向にあるのは、幼い頃から誰しもが消費主体として振る舞うことを求められているからなのか。購入する前後で買い手が変化しては交換関係が成り立たないし、消費主体は変化しないことが前提となっている。
ある一点から全てを判断するのは、あるポストの内容や倫理観をその全人格に当てはめようとする振る舞いに類似する。タイパやコスパのような無時間モデルがあらゆる範囲に広がる。
時間的な現象をある一点で捉えたり、交換可能なものとして捉える傾向にあるのは、幼い頃から誰しもが消費主体として振る舞うことを求められているからなのか。購入する前後で買い手が変化しては交換関係が成り立たないし、消費主体は変化しないことが前提となっている。
ある一点から全てを判断するのは、あるポストの内容や倫理観をその全人格に当てはめようとする振る舞いに類似する。タイパやコスパのような無時間モデルがあらゆる範囲に広がる。