イカノボシ
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AFV模型/M4シャーマン戦車 Posfie https://posfie.com/@ikanoboshi https://m4sherman.ari-jigoku.com/index.htm
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M36系の制式な装甲屋根は上部ドアが前方に向けて開きますが、映像のM36B1の屋根は後方に向けて開いています。又、前方や側方の庇が無い簡素な構造で、左前部に機銃を追加しているため、その部分は覆われていないようです。

大戦中のM36は1944年12月生産車でも未だ屋根が付いていないので、制式な装甲屋根は1945年5月以降に生産されたM36/M36B2から(E9仕様のスペースドVVSSやマズルブレーキと共に)導入されたようです。それ以前に生産されたE9仕様では無いM36やM36B1にも設置されている例が有りますが、それらは恐らく大戦後に後付けされたものと推察します。
https://flic.kr/s/aHsmkCdPhJ
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1日1ミリ。1942年5月。LRDG(R-パトロール隊)のティータイム。ニュージーランドはイギリスの植民地であったことから紅茶文化があり、ニュージーランド英語で”tea”は軽食を伴うお茶の時間という意味があるそうだ。
10時半のモーニングティー休憩だろうか。Chevrolet 1533X2のテールゲートが即席の食卓となりイギリス軍と同じ白いホーローカップが隊員の人数分並んで紅茶が淹れられる。背後にちらりと見える焼けこげた4ガロン缶(一斗缶)をストーブにしてお湯を沸かしたのだろう。
写真:IWM (E 12406)
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第654戦車駆逐大隊所属のM36B1。1945年、ドイツ・テューリンゲン州タンバッハで撮影された米軍の記録映像。

登録番号40190913、フィッシャー製1944年10月生産車。全187輌中、14輌目に当たります。主砲にはハット型とも呼ばれる先端の径が小さくなったネジ山保護リング付き。M36では先端の径が異なる2種類のネジ山保護リングが確認出来ますが、M36B1は生産開始当初からハット型を装備していたようです。砲塔上部には現地製作らしき屋根が追加されています。防盾の照準孔の上には(同部隊のM36B1の有名な個体でも見られる)ハーケンクロイツのキルマークが5枚貼り付けられています。
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アバディーン試験場でのT71。車体側面に書かれた数字が「395」と読めるので、登録番号40177395、フィッシャー製1944年5月生産車と推察。側面ボスが廃止された車体、円筒型の前照灯ソケット、垂直に設置された前照灯プラグホルダー、大径のマーズ型サイレン、車体前面右上部に設置されたアンテナブラケットといったフィッシャー製T71/M36の特徴がよく判ります。

この個体のリターンローラーアームは水平型と斜め持ち上げ型が混在しています。元のM10A1車体は1944年1月にフィッシャーでT71用として(砲塔無しで)生産されているので、恐らくその頃に斜め持ち上げ型アームが導入されたものと推察します。
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1日1ミリ。1941年1月。アフリカのリビア砂漠にて自由フランス軍の兵士との記念撮影するLRDG(Long Range Desert Group)の隊員。
LRDGは砂漠地帯の長距離パトロールと諜報を任務として、当初は一部の将校を除き100%ニュージーランド人で構成されていた。肉体的な強靭さと人里離れた場所での孤独にも強い資質がニュージーランドの農民(牧畜?)にあるとして中東に展開していた第2ニュージーランド師団から隊員の志願を募った。後のトラックは砂漠迷彩を施し、サンドチャンネルをカーゴに積んだシボレーWB(30CWT)
写真:ニュージーランド国立図書館アーカイブno.DA-00877-F
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『The Pacific』に登場したM4A2のレプリカに似ている気がするので、製造元が同じなのかも知れませんね。M4A2(76)W VVSSはソ連軍のみに供与されたので、10年ほど前にバレンツ海から引き揚げられた車輛以外は現存が確認されていない状態です。
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デフカバーが変な形ですし、車体下部がリベット接合になっているのも奇妙です。VVSSも妙に腰高。実車では無く、レプリカですね。
youtu.be/d3tWFDCz3TY
Sherman on a Full Monty, that’s a first. The September Full Monty Day
YouTube video by Tanks-alot
youtu.be
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1日1ミリ。モンテ・カッシーノ修道院の廃墟に立ちつくす聖ベネディクトゥス。
1943年、イタリアのサレルノに上陸した連合軍に対してドイツ軍はローマの南方を防御する要塞線をカッシーノ周辺に配置する。カッシーノの街を見下ろす丘の頂上には中世以来の修道院があり、険しい斜面と城壁がさながら天然の要害となっていたため、連合軍はここがドイツ軍に利用されることを懸念した。偵察機から修道院の中庭にドイツ軍の制服が干してあるのが見えたという情報もあり、(実際にはドイツ兵士はいなかったのだが)遅かれ早かれ修道院の建物はドイツ軍が占拠して麓の街の監視や砲撃に使用される恐れがあるとして、未然に破壊することに踏み切る。
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同じ場所での写真。手前のM36はフィッシャー製M10A1からの改修車。2番目はM36B1。3番目と4番目のM36はフォード製M10A1からの改修車(起動輪もフォード型?)。履帯は鋼製のT54E1が主体で、4番目のM36のみ平坦ラバーのT51を装着しています。
https://flic.kr/p/fqrXoD https://flic.kr/p/fqGd2f
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第771戦車駆逐大隊所属のM36B1。1945年、ドイツ・バイエルン州オルテンブルクのマルクト広場で撮影。

M36B1の記録写真は少なく、戦地に送られた車輛で登録番号が読み取れるものはかなり貴重だと思います。登録番号40190927、フィッシャー製1944年10月生産車。全187輌中、28番目に当たる初期生産車。履帯は拡張エンドコネクター付きで、転輪は大径ハブの溶接スポーク型(クローズドスポーク型)。同時期のフィッシャー製シャーマンで、大径ハブのディッシュ型と共に一般的に使用された転輪です。前から5番目の転輪は小径ハブのプレススポーク型に交換されているようです。
https://www.flickr.com/photos/scdike/9465654399/
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塗装図では直視バイザー付き車体になっていますが、ALCOはM4A2からM4へ生産を移行した際に直視バイザーを廃止したようです。C-14はタミヤM4のマーキング例にもなっている個体ですね。
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ALCO製M4の初期生産車。
車体上部後端が傾斜しており、エアクリーナーは円筒型。車体後部吊り上げリングはパッド付きの鋳造品。プルマン製M4も後端が傾斜した車体ですが、エアクリーナーは角型で、初期生産車で既にパッドの無い吊り上げリングを使用しています。砲塔はALCOで一般的に使用したゼネラル・スチール・キャスティング・エディストーン工場製で、ピストルポートの右下に「D50878 [GSCのロゴ] E」と鋳込まれています。同仕様の砲塔がフォート・ベニングに現存するALCO製M4 1943年4月生産車に搭載されています。
https://flic.kr/s/aHskGKV3PV
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1日1ミリ。カッシーの戦いの後、廃墟というか殆ど地面になってしまったカッシーノの街に放置されたシャ=マン戦車(M4A2) 1944年5ー6月頃だろうか。被弾して内部火災を起こしたのか砲塔とエンジンルーム周りが熱で激しく錆びている。エンジンデッキの三角のハッチストッパーや車体後部のジェリ缶ラック、そして独特の「キウイ迷彩」からニュージーランド軍の車両と推測する。3月にカッシーの街で市街戦を行った第19機甲連隊、もしくは後任の第20機甲連隊。
オリジナルのカラー写真:撮影はDavis Frank J
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M36B1
履帯は3DPパーツの説明書には片側80枚とあるが、それはM4A4の場合と思われる(未実証)
M36のキットは78枚、M10は77枚、今回のベストは76枚。
シャーマン系の履帯はほとんど弛まないのが正しい。
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M36B1
M10の装填手を載せてみた
腕の位置を下げないと砲弾が干渉する
まだ付けていないが開いた即応弾のキャンバスカバーもおそらく
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GSCは戦車の車体や砲塔のような特に大きな部品を鋳造する能力を持った米国でも当時有数の業者ですね。フィッシャーとは繋がりが深かったようで、シャーマンの76mm砲塔やM26の車体前部(ベンチレーターカバーが四角いタイプ)、砲塔等も供給しています。三角のグリルストッパーはイタリア戦線のM4A2では一般的なものだったようです。
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1枚目と2枚目はモンテ・カッシーノで撃破されたポーランド軍M4A2の同一個体で、アンテナブラケットの蓋の上にアンテナが設置されています。今も残っているのはアンテナ基部を取り付ける台座(Mounting)だと思います。この台座には厚みのあるものと薄いものとがあったようで、4枚目のM4A4には厚みのあるものが付いているようです。前掲のM4A4に残っているのはこの台座では無いかと思います。
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フィッシャー製M4A2。砲塔リング跳弾板は同社特有の板を曲げ加工して製作されたもので、後端の角に継ぎ目が有ります(鋳造製の跳弾板には継ぎ目が無い)。

砲塔はフィッシャーで一般的に使用したゼネラル・スチール・キャスティング・エディストーン工場製。ピストルポートの右下に「D50878(ローバッスル砲塔の部品番号) [GSCのロゴ] E(エディストーンの頭文字)」と鋳込まれています。砲塔側面の吊り上げリングが低い位置に移設済みなので、生産時期的に車体は角型溶接フードを持つタイプと推察。三角に曲げられた帯板はエンジングリルドアのストッパーで、中東の基地で後付けされたもののようです。
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田宮俊作が愛したカメラを買った話/ニッカ3S with NIKKOR-H・C 5cm F2 #コラム #nippper #プラモデル
田宮俊作が愛したカメラを買った話/ニッカ3S with NIKKOR-H・C 5cm F2
 私にクラシックカメラの趣味はない。しかし、いま私の机の上には動かないカメラがある。モデルグラフィックス2025年11月号の巻頭広告を見てしまったからだ。「地道な取材と考証はこれからも」というキャッチコピーの下には、田宮俊作をの名をいっさい出さず、この世を去った彼の仕事とこれからのタミヤのことが滔々と書かれている。正直、今号の「本体」はこの広告そのものだと言っていいと思った。田宮俊作がさまざまな土地で取材をしている風景を写したスナップの真ん中に、氏の愛機が置いてある。ぱっと見はライカだが、よく見るとそこに刻まれているのは“nicca”の銘。私は同じ機種、同じレンズのセットを探し、ヤフオクで落札した。  ライカの祖型を設計したのはオスカー・バルナックであり、彼の名を冠して初期の小型ライカは「バルナック型」と呼ばれる。映画用の35ミリフィルムを写真に転用する小型の金属カメラは、現在に続くカメラの原型となり、20世紀の記録様式を変えてしまった。戦中から日本のカメラメーカーは軍需や報道用途のためにその精巧なコピーを作り、戦後は民間向けにその改良と精度向上に血道を上げた。結果として日本の光学技術と生産精度は本家にも引けを取らぬ評価を勝ち取り、(一眼レフの設計製造に舵を切るという大きな転換点を経て)日本のカメラが世界におけるトップシェアを築く礎となった。  1952年に発売されたニッカ3Sを田宮俊作が愛用していたという事実は、まるでタミヤの歴史を語っているかのようでとても興味深い。彼が育て上げたタミヤのプラスチックモデルもまた、海外の製品を模倣するところから始まった。アメリカで流行していたスロットカーを参考にしながら改良を重ね、やがて戦車模型や自動車模型で独自のリアリティを獲得し、世界に冠たるブランドへと成長させていった。彼はニッカ3Sを携えて海を渡り、戦車を撮り、航空機を撮り、生産ラインを見学し、図面を引いて金型を彫った。このカメラのシャッターを切るたびに記録されたのは、つまり日本の模型の未来だったのである。  私が手に入れた個体はフィルムを装填する以前の問題だと明らかにわかるほどシャッターの調子が悪く、前オーナーの整備はスプリングにテンションをかけすぎだと感じた。同時に後幕を引き込むリボンは経年劣化によって切れる運命にあったのだろう。分解しながらガバナーの動きを確かめ、なんどか空シャッターを切っているうちに後幕は走らなくなってしまった。 幸いなことに、このカメラの構造は精緻でありながらごくシンプルなもので、メンテナンスについての記録も、プロフェッショナルによる修理サービスも簡単に見つかる。私はいつかこのカメラを復活させ、乾いたシャッター音を聞くことになるだろう。バルナックの偉大なる発明とから始まった小型カメラの物語が、惚れ惚れするほど精巧な"模型"であるニッカ3Sを通じて、タミヤの歩んできた軌跡と響き合う。この重層的な技術史と文化史のクロスポイントは、模型を愛する者にとって特別な重みを持っているはずだ。
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1、2枚目はALCO製M4ベースのIC(1943年9月生産車)、3、4枚目はALCO製M4コンポジットベースのハイブリッドIC(同12月生産車)です。両車とも砲塔本体は右前部が増厚され、ピストルポートが廃止された後期型ローバッスル砲塔ですが、ガンシールドの仕様が異なります。ALCOは10月にコンポジット車体に移行していますが、11月や12月生産車でも未だM34A1初期型砲架が見られるので、溶接車体だとほぼ全車が初期型だったものと推察します。塗装の判別は難しいですね。当時のカラーフィルムはオリーブドラブが黒っぽく見えることが多いですし、英軍オリーブドラブ単色の可能性が高いのでは無いでしょうか。
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車体上部後端が傾斜しているので、ベースとなったM4の生産工場はALCOかプルマンのいずれか(プレスド・スチール・カーとボールドウィンは後端が垂直)。ALCOとプルマンでは車体前面右側のアンテナブラケットの形状が異なりますが、偽装網に隠れて見えない状態。

砲塔のガンシールド(防盾基部)は右側面が増厚されたM34A1後期型。このタイプはプルマンでは1943年6月生産車で確認出来るのに対し、ALCOでは導入時期がかなり遅かったようで、同10月~12月生産のM4コンポジットでも未だ初期型(1枚目)と後期型(2枚目)が混在しています。従って記録写真の個体はプルマン製M4ベースの可能性が高いと思います。
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エリザ「この起動輪は考証的におかしいですわよ」
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クライスラーは1942年10月頃にM3型起動輪から独自の鍛造製起動輪に移行し、シャーマンの生産終了まで使用し続けたので、工場でフォード型起動輪を装備したことは無い筈です。M4A3やM36以外の車輛が実戦でこの起動輪を使用していること自体が珍しいと思います。フォードは1943年9月にシャーマンの生産から撤退したので、予備部品として供与されたのでしょうかね。