神仏習合の時代伊勢神宮奥の院と称していたが、今はかつての賑わいもなくかなり参詣者が少ないのが寂しい。三重県。
「創建の時代は詳かでないが、弘法大師の中興と稱し、古來神宮に参拝する者多くは本寺に参詣したもので、廣くその名が知られて居る。本堂は摩尼殿と稱し、桁行七間、梁間六間、単層、屋根四注造柿茸で、本尊虚安蔵菩藤が安置されて居る。慶長十四年池田輝政の造営にかゝり、元禄十四年徳川桂昌院の修理を経たものである。屋根は極めて厚く軒端に鋭き反が有り、雄大の氣宇を示し、その構造様式はよく桃山時代の特徴を現はして居る」(『日本案内記 中部篇』鉄道省、博文館、1931)。
神仏習合の時代伊勢神宮奥の院と称していたが、今はかつての賑わいもなくかなり参詣者が少ないのが寂しい。三重県。
「創建の時代は詳かでないが、弘法大師の中興と稱し、古來神宮に参拝する者多くは本寺に参詣したもので、廣くその名が知られて居る。本堂は摩尼殿と稱し、桁行七間、梁間六間、単層、屋根四注造柿茸で、本尊虚安蔵菩藤が安置されて居る。慶長十四年池田輝政の造営にかゝり、元禄十四年徳川桂昌院の修理を経たものである。屋根は極めて厚く軒端に鋭き反が有り、雄大の氣宇を示し、その構造様式はよく桃山時代の特徴を現はして居る」(『日本案内記 中部篇』鉄道省、博文館、1931)。
如来堂と御影堂の背後に隠れるように設けられた麗しき池泉庭園。自然の山水に佇む山居の心地を感じさせる。三重県。
如来堂と御影堂の背後に隠れるように設けられた麗しき池泉庭園。自然の山水に佇む山居の心地を感じさせる。三重県。
明治天皇の行在所となった明治期新築の書院、実に端正な造りで思わず息を潜めた。三重県。
明治天皇の行在所となった明治期新築の書院、実に端正な造りで思わず息を潜めた。三重県。
法主が門信徒と対面する場所だった格式高き建築。三重県。
法主が門信徒と対面する場所だった格式高き建築。三重県。
左にある如来堂が伽藍の本堂だが、規模も信仰の中心もこちら御影堂が上なので実質的な本堂格と言ってもいいかも。三重県。
「桁行9間、梁間9間、正面に3間の向拝を設け、一重、入母屋造り、屋根は本瓦葺き。大和様建築物で、725畳の畳をひく内部正面に親鸞上人の木像を安置し、一山の信仰の中心になっている。寛文6年(1666)、当時の津藩主藤堂高次が造営・寄進したものである」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
左にある如来堂が伽藍の本堂だが、規模も信仰の中心もこちら御影堂が上なので実質的な本堂格と言ってもいいかも。三重県。
「桁行9間、梁間9間、正面に3間の向拝を設け、一重、入母屋造り、屋根は本瓦葺き。大和様建築物で、725畳の畳をひく内部正面に親鸞上人の木像を安置し、一山の信仰の中心になっている。寛文6年(1666)、当時の津藩主藤堂高次が造営・寄進したものである」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
正門にあたる五間三戸の立派な二重門、門を通ると正面に御影堂が待ち構える。三重県。
正門にあたる五間三戸の立派な二重門、門を通ると正面に御影堂が待ち構える。三重県。
壮大な禅宗様仏堂、外観は素木造りで控え目の外観だが内部は金箔が惜しみなくふんだんに使われ圧巻。三重県。
「桁行5間、薬間4間、入母屋造りの屋根にもこしをつけ、正面に唐破風を施した唐様建物。享保5年(1720)の建立で、証拠如来とも呼ばれる阿弥陀如来像が安置されてある」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
壮大な禅宗様仏堂、外観は素木造りで控え目の外観だが内部は金箔が惜しみなくふんだんに使われ圧巻。三重県。
「桁行5間、薬間4間、入母屋造りの屋根にもこしをつけ、正面に唐破風を施した唐様建物。享保5年(1720)の建立で、証拠如来とも呼ばれる阿弥陀如来像が安置されてある」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
如来堂と正対し、その専用門の位置付けだろう。かなり格好いい。三重県。
「正面7.4m、側面 6.4.mの、切妻造りの四脚門で。天保15年(1844)に上棟され、扉や柱間に見事な彫刻が施されてあるのが特色」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
如来堂と正対し、その専用門の位置付けだろう。かなり格好いい。三重県。
「正面7.4m、側面 6.4.mの、切妻造りの四脚門で。天保15年(1844)に上棟され、扉や柱間に見事な彫刻が施されてあるのが特色」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
京都の本願寺に知名度で劣ってしまうが、壮大な伽藍は勝るとも劣らず。三重県。
「山号は高田山。真宗高田派の大本山で、専修阿弥陀寺または無量光寺ともいい、俗に一身田御殿とよばれ、伊勢第一の名刹として広く知られている。寺は、嘉禄元年(1225)宗祖の親鸞上人が、今の栃木県芳賀郡二宮町高田に真宗の根本道場を建立し、専修寺を称したのが開基とされる。寛正6年(1465)、10世真慧上人がさらに宗派の興隆を図って都に近い現在地に寺基を移した。以後士庶の帰依を集めて宗風ますますあがり、700年余の法灯連綿として今日に及んでいる」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
京都の本願寺に知名度で劣ってしまうが、壮大な伽藍は勝るとも劣らず。三重県。
「山号は高田山。真宗高田派の大本山で、専修阿弥陀寺または無量光寺ともいい、俗に一身田御殿とよばれ、伊勢第一の名刹として広く知られている。寺は、嘉禄元年(1225)宗祖の親鸞上人が、今の栃木県芳賀郡二宮町高田に真宗の根本道場を建立し、専修寺を称したのが開基とされる。寛正6年(1465)、10世真慧上人がさらに宗派の興隆を図って都に近い現在地に寺基を移した。以後士庶の帰依を集めて宗風ますますあがり、700年余の法灯連綿として今日に及んでいる」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』人文社、1985)。
楼門に「菅聖廟」額を掲げてるのが印象的で、その背面に置かれた獅子狛犬像も好み。三重県。
「創祀の年代は明らかでないが、平安末期、上野山(上野城跡)に平清盛が建てた平楽寺の、伽藍神として奉祀されたのが始まりといわれる。天正13年城主筒井定次によって今の場所に再興され、寛永14年(1637)藩主藤堂氏の手で諸社殿が造営された。以後、藤堂家の祈願社となり、社領18石を有して栄え、明治に及んだ。また芭蕉が、処女作の「貝おほひ」を立志祈願のため奉納したのはこの神社で、芭蕉29歳のときであった。〔祭神〕昔原道真」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』、人文社、1985)。
楼門に「菅聖廟」額を掲げてるのが印象的で、その背面に置かれた獅子狛犬像も好み。三重県。
「創祀の年代は明らかでないが、平安末期、上野山(上野城跡)に平清盛が建てた平楽寺の、伽藍神として奉祀されたのが始まりといわれる。天正13年城主筒井定次によって今の場所に再興され、寛永14年(1637)藩主藤堂氏の手で諸社殿が造営された。以後、藤堂家の祈願社となり、社領18石を有して栄え、明治に及んだ。また芭蕉が、処女作の「貝おほひ」を立志祈願のため奉納したのはこの神社で、芭蕉29歳のときであった。〔祭神〕昔原道真」(『郷土資料事典・観光と旅 三重県 改訂新版』、人文社、1985)。
なぜ赤城神社が二ノ宮なのかというこの伝説話はけっこう好き。しかし織るということはもしかして女神様?群馬県。
「上野国二の宮とされるが、これについては次のような伝説がある。もと赤城神は一の宮であったが、機を織っているとき「くだ」が不足し、貫前神(富岡市)に借りて織りあげたので、織物が上手で財持ちである貫前神に一の宮をゆずってしまったという。社歴は古く、崇神天皇の時代の草創というから、今から1,800年余り前のことになる。それはともかくとして、赤城神の名が歴史書に見えはじめるのは仁和天皇の承和6年(839)」(『郷土資料事典・観光と旅 群馬県 改訂新版』、人文社、1985)。
なぜ赤城神社が二ノ宮なのかというこの伝説話はけっこう好き。しかし織るということはもしかして女神様?群馬県。
「上野国二の宮とされるが、これについては次のような伝説がある。もと赤城神は一の宮であったが、機を織っているとき「くだ」が不足し、貫前神(富岡市)に借りて織りあげたので、織物が上手で財持ちである貫前神に一の宮をゆずってしまったという。社歴は古く、崇神天皇の時代の草創というから、今から1,800年余り前のことになる。それはともかくとして、赤城神の名が歴史書に見えはじめるのは仁和天皇の承和6年(839)」(『郷土資料事典・観光と旅 群馬県 改訂新版』、人文社、1985)。
温泉も料理も唸らせてくれるし奥ゆかしさをも感じさせるこの旅館には脱帽。群馬県。
「宿は、温泉街の中心にある『湯畑』から、共同浴場『大滝乃湯』へ行く滝下通りにあり、木造三階建の和風旅館だ。自慢の風呂は『天然岩風呂』。豊かな湯が玉だれの滝となって一二〇〇年の間、湯船を満し続けているという名湯だ。三階の展望のよい総檜風呂では木の香につつまれて。上品な味わいの京風懐石料理も楽しみだ」(『名物風呂の宿』野口冬人、保育社、1987)。
#旅宿 (136)
温泉も料理も唸らせてくれるし奥ゆかしさをも感じさせるこの旅館には脱帽。群馬県。
「宿は、温泉街の中心にある『湯畑』から、共同浴場『大滝乃湯』へ行く滝下通りにあり、木造三階建の和風旅館だ。自慢の風呂は『天然岩風呂』。豊かな湯が玉だれの滝となって一二〇〇年の間、湯船を満し続けているという名湯だ。三階の展望のよい総檜風呂では木の香につつまれて。上品な味わいの京風懐石料理も楽しみだ」(『名物風呂の宿』野口冬人、保育社、1987)。
#旅宿 (136)
屋敷林に囲まれて今にも人が住んでそうな感じの古民家の芝棟に癒される。群馬県。
「名主や組頭を勤めた家。広間型三間取り平面。土間が広く桁行の約二分の一を占める。上屋と下屋からなる構造で、四方の下屋を取りこむ。上屋柱の省略が少なく、土間には独立柱としてたつ。広間・座敷境に差鴨居を使用し進んだ構法。北関東平地の中規模な民家の代表例」(『日本の民家 第1巻』学習研究社、1981)。
屋敷林に囲まれて今にも人が住んでそうな感じの古民家の芝棟に癒される。群馬県。
「名主や組頭を勤めた家。広間型三間取り平面。土間が広く桁行の約二分の一を占める。上屋と下屋からなる構造で、四方の下屋を取りこむ。上屋柱の省略が少なく、土間には独立柱としてたつ。広間・座敷境に差鴨居を使用し進んだ構法。北関東平地の中規模な民家の代表例」(『日本の民家 第1巻』学習研究社、1981)。
ひっそりとしたかつての村社だが、全体雰囲気は最高レベル。奈良県。
「西大寺の鎮守であつたと思はれ、三間社流造、室町時代中期の遺構である」(『日本案内記 近畿篇 下』鉄道省、博文館、1933)。
ひっそりとしたかつての村社だが、全体雰囲気は最高レベル。奈良県。
「西大寺の鎮守であつたと思はれ、三間社流造、室町時代中期の遺構である」(『日本案内記 近畿篇 下』鉄道省、博文館、1933)。
現存建築はいずれも江戸以降のもので、見どころは少ないが、本堂から飛地境内にある奥の院へは奈良らしい静かな街路地が続き割といい。奈良県。
「西大寺は天平神護元年、稱徳天皇の勅願により常騰の開基にかゝり高野寺と稱した。東大寺と相對し、七大寺の一として多数の堂塔を有し盛大を極めて居た。然るに承和十三年以來數度の火災に遭ひて、堂塔佛像等多く滅燼した。鎌倉時代に至り叡尊(興正菩薩)當寺に住して戒律を護持し、寺門の興隆に勉め朝廷の歸依を得て諸堂再建せられたが、文亀二年の火災にまた多くこれを焼失してより再び衰へ、以て今日に至って居る」(『日本案内記 近畿篇 下』鉄道省、博文館、1933)。
現存建築はいずれも江戸以降のもので、見どころは少ないが、本堂から飛地境内にある奥の院へは奈良らしい静かな街路地が続き割といい。奈良県。
「西大寺は天平神護元年、稱徳天皇の勅願により常騰の開基にかゝり高野寺と稱した。東大寺と相對し、七大寺の一として多数の堂塔を有し盛大を極めて居た。然るに承和十三年以來數度の火災に遭ひて、堂塔佛像等多く滅燼した。鎌倉時代に至り叡尊(興正菩薩)當寺に住して戒律を護持し、寺門の興隆に勉め朝廷の歸依を得て諸堂再建せられたが、文亀二年の火災にまた多くこれを焼失してより再び衰へ、以て今日に至って居る」(『日本案内記 近畿篇 下』鉄道省、博文館、1933)。
名だたる寺院が多い奈良にあって今もひっそりと佇む姿が好ましい。奈良県。
「俗に隅寺と稱した。天平年間に光明皇后の本願によりて創建され、留學僧玄昉歸朝の後嘗てこゝに住したので玄昉を開基となす。鎌倉時代の遺構である講堂は元経蔵である、三間二面、單層四注造本瓦葺の建築で、木割太く、天竺様繰形が用ゐられて居る」(『日本案内記 近畿篇 下』鉄道省、博文館、1933)。
名だたる寺院が多い奈良にあって今もひっそりと佇む姿が好ましい。奈良県。
「俗に隅寺と稱した。天平年間に光明皇后の本願によりて創建され、留學僧玄昉歸朝の後嘗てこゝに住したので玄昉を開基となす。鎌倉時代の遺構である講堂は元経蔵である、三間二面、單層四注造本瓦葺の建築で、木割太く、天竺様繰形が用ゐられて居る」(『日本案内記 近畿篇 下』鉄道省、博文館、1933)。
平城宮東院庭園の斜め向かいにあり、社地はかつての東院の一部と見られる。端正な流造の社殿は見飽きないほど好き。そもそも社号も渋好きて古社の風韻を強く感じる。定点観測ではないが2枚の写真はちょうど12年隔てた。奈良県。
「高皇産霊尊・太玉命・思兼命の三柱を祀っている。法華寺の近くに、宇雨多利といわれる西裏田がある。もと大社で盛大な社頭であったが、衰微して春日大社の境内に遷され、さらに井栗社と称した。今は法華寺桜梅谷に本殿があり、三間社・流造・檜皮葺の室町期のもの。応神天皇の御代に、武内宿禰が勅命によって勧請したという伝えがある」(『大和の古社』乾健治、学生社、1976)
平城宮東院庭園の斜め向かいにあり、社地はかつての東院の一部と見られる。端正な流造の社殿は見飽きないほど好き。そもそも社号も渋好きて古社の風韻を強く感じる。定点観測ではないが2枚の写真はちょうど12年隔てた。奈良県。
「高皇産霊尊・太玉命・思兼命の三柱を祀っている。法華寺の近くに、宇雨多利といわれる西裏田がある。もと大社で盛大な社頭であったが、衰微して春日大社の境内に遷され、さらに井栗社と称した。今は法華寺桜梅谷に本殿があり、三間社・流造・檜皮葺の室町期のもの。応神天皇の御代に、武内宿禰が勅命によって勧請したという伝えがある」(『大和の古社』乾健治、学生社、1976)
大きな遺跡地で、しかも真ん中に私鉄の線路が貫いてるので、結構面白い。まだまだ発掘と復元が続いてるので、将来が楽しみ。奈良県。
「和銅3年(710)、元明天皇によって飛鳥藤原宮から遷された平城京は、7代74年間の都であった。唐の長安に倣い路を碁盤の目のように配し、その中央北部に南面して建てられたのが平城宮である。都が平安京に移ってからは田園の中に埋もれいったのであるが、明治32年(1899)にその一部が1100年の眠りから覚め、以後、昭和になって発掘に力が入れられ、奈良国立文化財研究所による調査と復元が今も進んでいる」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。
大きな遺跡地で、しかも真ん中に私鉄の線路が貫いてるので、結構面白い。まだまだ発掘と復元が続いてるので、将来が楽しみ。奈良県。
「和銅3年(710)、元明天皇によって飛鳥藤原宮から遷された平城京は、7代74年間の都であった。唐の長安に倣い路を碁盤の目のように配し、その中央北部に南面して建てられたのが平城宮である。都が平安京に移ってからは田園の中に埋もれいったのであるが、明治32年(1899)にその一部が1100年の眠りから覚め、以後、昭和になって発掘に力が入れられ、奈良国立文化財研究所による調査と復元が今も進んでいる」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。