庚申堂も旅籠もあってそれだけで立ち寄る価値あり。岐阜県。
「中山道を旅した人はようやく木曽路を抜けて美濃の野路に出たと思ったら、大井宿から御嵩宿まで八里に余る(三十四㌔余)山坂を上下するので疲れ切った。そこで幕府はその間に大湫の宿を慶長十年(1605)に設けたが、まだ苦労が残るので、慶長十五年(1610)にその先にいま一つ、細久手宿を追加設置したから、細久手宿はいわば大湫宿の補足に過ぎない。しかも標高四百㍍の高地で、四方山に囲まれた狭いところだからすべて貧しく、鉄路が出来て旅人の往来もほとんど絶えた明治以降、じり貧になる一方であった」(『新住宅1990年9月号』新住宅社)。
庚申堂も旅籠もあってそれだけで立ち寄る価値あり。岐阜県。
「中山道を旅した人はようやく木曽路を抜けて美濃の野路に出たと思ったら、大井宿から御嵩宿まで八里に余る(三十四㌔余)山坂を上下するので疲れ切った。そこで幕府はその間に大湫の宿を慶長十年(1605)に設けたが、まだ苦労が残るので、慶長十五年(1610)にその先にいま一つ、細久手宿を追加設置したから、細久手宿はいわば大湫宿の補足に過ぎない。しかも標高四百㍍の高地で、四方山に囲まれた狭いところだからすべて貧しく、鉄路が出来て旅人の往来もほとんど絶えた明治以降、じり貧になる一方であった」(『新住宅1990年9月号』新住宅社)。
真冬に気の向くまま飛騨を彷徨い再訪。もちろん人影もまばら。岐阜県。
「高山市北方の国府にある臨済宗の寺で山麓にあり、もとの名は少林寺と伝え、南禅寺第二世規庵祖円(1261-1313)の法嗣、瑞岩禅師により開かれた。一方、足利尊氏と直義は夢窓疎石(1275-1351)の勧めにより元弘以来の天下大乱の戦死者の霊を弔うために、各国に一寺を建立し、康永四年(1345)に光厳上皇により安国寺の寺号が定められた。当寺はその一つで飛騨国(長野県)の安国寺であり、文安二年(1445)に諸山となり、宝徳元年(1449)に十刹になった(『飛州志』)」(『国宝大事典 5』講談社、1985)。
真冬に気の向くまま飛騨を彷徨い再訪。もちろん人影もまばら。岐阜県。
「高山市北方の国府にある臨済宗の寺で山麓にあり、もとの名は少林寺と伝え、南禅寺第二世規庵祖円(1261-1313)の法嗣、瑞岩禅師により開かれた。一方、足利尊氏と直義は夢窓疎石(1275-1351)の勧めにより元弘以来の天下大乱の戦死者の霊を弔うために、各国に一寺を建立し、康永四年(1345)に光厳上皇により安国寺の寺号が定められた。当寺はその一つで飛騨国(長野県)の安国寺であり、文安二年(1445)に諸山となり、宝徳元年(1449)に十刹になった(『飛州志』)」(『国宝大事典 5』講談社、1985)。
禅寺らしく静かな佇まいが好き。岐阜県。
「濃尾平野東北の丘陵地を流れる土岐川に面した臨済宗の寺である。正和二年(1313)に夢窓疎石(1275-1351)が現地を「山水の景物、天開図画の幽致なり」と賞して古谿庵を営み、翌年に観音閣を建てた。これが当寺の草創だが、夢窓は同門の元翁本元(1281-1332)に古谿寺をゆずり、元翁が開山となった。境内は東に土岐川の蛇行部を望み、西に岩石質の丘陵を控え、中央に大池がある。この周囲の自然景観と庭園を総合化した環境美は、中世の禅宗寺院で境致として重んじられたもので、永保寺はその代表例の一つである」(『国宝大事典 5』講談社、1985)。
禅寺らしく静かな佇まいが好き。岐阜県。
「濃尾平野東北の丘陵地を流れる土岐川に面した臨済宗の寺である。正和二年(1313)に夢窓疎石(1275-1351)が現地を「山水の景物、天開図画の幽致なり」と賞して古谿庵を営み、翌年に観音閣を建てた。これが当寺の草創だが、夢窓は同門の元翁本元(1281-1332)に古谿寺をゆずり、元翁が開山となった。境内は東に土岐川の蛇行部を望み、西に岩石質の丘陵を控え、中央に大池がある。この周囲の自然景観と庭園を総合化した環境美は、中世の禅宗寺院で境致として重んじられたもので、永保寺はその代表例の一つである」(『国宝大事典 5』講談社、1985)。
御嶽信仰は魂が山に帰るとして多くの霊神碑をたてて山岳霊場の雰囲気を味わえる。
御嶽信仰は魂が山に帰るとして多くの霊神碑をたてて山岳霊場の雰囲気を味わえる。
【黒沢御嶽神社】江戸期の覚明行者が開いた黒沢口登拝道に位置する御嶽神社。麓に里宮と若宮、山頂剣ヶ峰には奥社が鎮座。長野県。
【黒沢御嶽神社】江戸期の覚明行者が開いた黒沢口登拝道に位置する御嶽神社。麓に里宮と若宮、山頂剣ヶ峰には奥社が鎮座。長野県。
「御嶽山は滝の山である」と言われるらしい。根尾の滝、唐谷滝、仙人滝や清滝などは巡ったが、未訪の材木滝には現在興味津々。長野県・岐阜県。
「御嶽山は滝の山である」と言われるらしい。根尾の滝、唐谷滝、仙人滝や清滝などは巡ったが、未訪の材木滝には現在興味津々。長野県・岐阜県。
www.sankei.com/article/2025...
事前予想< www.asahi.com/articles/AST... >にほぼ一致な結果の発表。熊害(ユウガイ)の読み方も覚えた^^。
www.sankei.com/article/2025...
事前予想< www.asahi.com/articles/AST... >にほぼ一致な結果の発表。熊害(ユウガイ)の読み方も覚えた^^。
個人的に、国内最高気温の記録更新が続いたこと、そして大阪関西万博の熱気は最も印象的な一つだったから、また「暑」になってもおかしくないし、万博の「輪」もありかなと。
www.kanken.or.jp/kotoshinokan...
#漢字の日 (12月12日)
個人的に、国内最高気温の記録更新が続いたこと、そして大阪関西万博の熱気は最も印象的な一つだったから、また「暑」になってもおかしくないし、万博の「輪」もありかなと。
www.kanken.or.jp/kotoshinokan...
#漢字の日 (12月12日)
「ソバの花咲く頃の開田高原から見上げる御嶽山、国道361号城山展望台周辺から見る御嶽山と真下に俯瞰する開田高原の景観は見事である」。
「ソバの花咲く頃の開田高原から見上げる御嶽山、国道361号城山展望台周辺から見る御嶽山と真下に俯瞰する開田高原の景観は見事である」。
「文武天皇の699年に役小角によって開かれたと言われ、弘法大師、木曽義仲、武田勝頼が登山した記録もある。三笠山と御岳とを隔てる鞍部には田ノ原天然公園があり、白煙を吹き出す火口を取り巻く赤茶けた岩盤が屹立している。寛政3年(1791)に開山された飛騨口から、6合目までバスが登っている」。
「文武天皇の699年に役小角によって開かれたと言われ、弘法大師、木曽義仲、武田勝頼が登山した記録もある。三笠山と御岳とを隔てる鞍部には田ノ原天然公園があり、白煙を吹き出す火口を取り巻く赤茶けた岩盤が屹立している。寛政3年(1791)に開山された飛騨口から、6合目までバスが登っている」。
独立峰として富士山に次ぐ第二の高峰であり、信仰の山。長野県・岐阜県。
「アルプスの南方に位置する独立峰。西北方には白山が、北方には乗鞍を南端にする北アルプスの連峰が重なって続く。さらに東方には、北岳を主峰とする南アルプスの峰々が一線に連なり、中ほどに富士山が小さな頭をのぞかせている。御岳は、第三紀活動の複式休火山で、座積約900km、継子・摩利支天、剣ヶ峰、継母の4峰から成り、主峰剣ヶ峰は標高3067m。悠然とした姿が実に風格ある山である」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。
#国際山岳デー International Mountain Day(12月11日)
独立峰として富士山に次ぐ第二の高峰であり、信仰の山。長野県・岐阜県。
「アルプスの南方に位置する独立峰。西北方には白山が、北方には乗鞍を南端にする北アルプスの連峰が重なって続く。さらに東方には、北岳を主峰とする南アルプスの峰々が一線に連なり、中ほどに富士山が小さな頭をのぞかせている。御岳は、第三紀活動の複式休火山で、座積約900km、継子・摩利支天、剣ヶ峰、継母の4峰から成り、主峰剣ヶ峰は標高3067m。悠然とした姿が実に風格ある山である」(『美しき日本』日本交通公社、1999)。
#国際山岳デー International Mountain Day(12月11日)
「1718(享保3)宿駅の飯盛女は1軒2人に限る。
1757(宝暦7)このころ、下戸倉宿に飯盛女公認され、宿屋35軒飯盛女17人あり。
1850(嘉永3)下戸倉宿の飯盛女57名あり、風紀に関する13ヶ条の誓約書に、職名を列記し爪印を押す。このころ、飯盛女の一晩の茶代600文であった(ますがた茶屋の売上控)」(『年表戸倉町の今昔』戸倉町教育委員会、1974)。
「1718(享保3)宿駅の飯盛女は1軒2人に限る。
1757(宝暦7)このころ、下戸倉宿に飯盛女公認され、宿屋35軒飯盛女17人あり。
1850(嘉永3)下戸倉宿の飯盛女57名あり、風紀に関する13ヶ条の誓約書に、職名を列記し爪印を押す。このころ、飯盛女の一晩の茶代600文であった(ますがた茶屋の売上控)」(『年表戸倉町の今昔』戸倉町教育委員会、1974)。
本殿は覆屋の中に入ってて、鑑賞しづらい環境だが、それでも多彩な彫刻物には眼を見張った。長野県。
「北国街道の下戸倉宿が慶長八年(一六〇三)に設置されたとき、建御名方命を勧請して創建された。現存の本殿は寛政元年に建てられた。大工棟梁は諏訪の柴宮長左衛門である。全体の形式は大規模な一間社流造で、軸部材も彫刻も欅を主に使った白木造で、向拝の組物は連三斗、母屋は出組とするなど江戸後期の一般的な手法に従っているが、最大の特徴は建築彫刻の表現の力強さである」(『日本美術全集 第19巻』講談社、1993)。
本殿は覆屋の中に入ってて、鑑賞しづらい環境だが、それでも多彩な彫刻物には眼を見張った。長野県。
「北国街道の下戸倉宿が慶長八年(一六〇三)に設置されたとき、建御名方命を勧請して創建された。現存の本殿は寛政元年に建てられた。大工棟梁は諏訪の柴宮長左衛門である。全体の形式は大規模な一間社流造で、軸部材も彫刻も欅を主に使った白木造で、向拝の組物は連三斗、母屋は出組とするなど江戸後期の一般的な手法に従っているが、最大の特徴は建築彫刻の表現の力強さである」(『日本美術全集 第19巻』講談社、1993)。
「冠著、姨捨山を負ひ、千曲川を隔てゝ、月の名所鏡臺山の連峯を望み、南北は開けて上田、善光寺の平野に通じてゐる。また交通の便よく旅館も新しく明快な感じのするところで上山田温泉と相接してゐる。笄の渡は村上義清夫人の笄の傳説に知られてゐる。源泉は千曲川の河原にあって、鐵管を以て地下約二〇米の深さに穿鑿し、これを戸倉、上山田の温泉へ導いてゐる」(『温泉案内』鐵道省、博文館、1940)。
「冠著、姨捨山を負ひ、千曲川を隔てゝ、月の名所鏡臺山の連峯を望み、南北は開けて上田、善光寺の平野に通じてゐる。また交通の便よく旅館も新しく明快な感じのするところで上山田温泉と相接してゐる。笄の渡は村上義清夫人の笄の傳説に知られてゐる。源泉は千曲川の河原にあって、鐵管を以て地下約二〇米の深さに穿鑿し、これを戸倉、上山田の温泉へ導いてゐる」(『温泉案内』鐵道省、博文館、1940)。
信州をめぐると結構千曲川を目にする機会が多い。南から北へ流れる川は原風景を育む。長野県。
「信濃川は日本で一番長い川である。その長野県内部分が千曲川。長野、山梨、埼玉の3県にまたがる甲武信ヶ岳に源を発し、佐久、小諸、上田、長野、飯山などを流れ、新潟県に入ったところで信濃川となる。千曲川としては全長214Km。四季折々に彩りを変える信州の山並みをバックに流れるおおらかな姿は悠久の時を感じさせ、詩情をかきたてる」(『美しき日本』日本交通公社)。
信州をめぐると結構千曲川を目にする機会が多い。南から北へ流れる川は原風景を育む。長野県。
「信濃川は日本で一番長い川である。その長野県内部分が千曲川。長野、山梨、埼玉の3県にまたがる甲武信ヶ岳に源を発し、佐久、小諸、上田、長野、飯山などを流れ、新潟県に入ったところで信濃川となる。千曲川としては全長214Km。四季折々に彩りを変える信州の山並みをバックに流れるおおらかな姿は悠久の時を感じさせ、詩情をかきたてる」(『美しき日本』日本交通公社)。