冷笑冷笑言ってる大学生の呟きを見ても、屈折したサブカル人間と大差ないように感じるし。
冷笑冷笑言ってる大学生の呟きを見ても、屈折したサブカル人間と大差ないように感じるし。
言わずと知れた2ch発祥の「ノンフィクション」恋愛物語。オタクの物語ではあるけれどもインセルや弱者男性の自意識は主題とされない。建て付けはむしろセカチューに近い(既出かも?)。注目すべきはこのベタな物語を下支えするその他大勢の書き込みの方であるように見える。リアクション芸。共同性。祝祭。どこか10年代以降のSNSを思わせる。ありえたかもしれない人生に実存を重ね書きすることの快楽とその祝祭性、という軸で今なら読めるのではないか。そういう意味で注目すべきなのは精神疾患を仄めかすひとつの書き込みだ(祝祭の中で、決して祝祭になりえない事態・実存が束の間閃くこと……)
言わずと知れた2ch発祥の「ノンフィクション」恋愛物語。オタクの物語ではあるけれどもインセルや弱者男性の自意識は主題とされない。建て付けはむしろセカチューに近い(既出かも?)。注目すべきはこのベタな物語を下支えするその他大勢の書き込みの方であるように見える。リアクション芸。共同性。祝祭。どこか10年代以降のSNSを思わせる。ありえたかもしれない人生に実存を重ね書きすることの快楽とその祝祭性、という軸で今なら読めるのではないか。そういう意味で注目すべきなのは精神疾患を仄めかすひとつの書き込みだ(祝祭の中で、決して祝祭になりえない事態・実存が束の間閃くこと……)
個人のCGクリエイターがごく限られた人数で作った初の長編アニメーション……とこう書くとただちに新海誠が想起されてしまうが、本作はまさに『ほしのこえ』の20年代における再来という出立ちをしているように見える。ポスト・エヴァではなく、ポスト・グリッドマンのアニメとして。何かを造形することがただちにはらむ「責任」がどこまでも物語を規定し、最後には決定的な破局をもたらす、という建て付けには、とかく世界の外部として、思考の価値として信じられがちな、「キャラ」との恋愛/性愛をまさにひび割れさせる、きわめて強い信念とアクチュアリティを感じる。本作は20年代を撃っている。
個人のCGクリエイターがごく限られた人数で作った初の長編アニメーション……とこう書くとただちに新海誠が想起されてしまうが、本作はまさに『ほしのこえ』の20年代における再来という出立ちをしているように見える。ポスト・エヴァではなく、ポスト・グリッドマンのアニメとして。何かを造形することがただちにはらむ「責任」がどこまでも物語を規定し、最後には決定的な破局をもたらす、という建て付けには、とかく世界の外部として、思考の価値として信じられがちな、「キャラ」との恋愛/性愛をまさにひび割れさせる、きわめて強い信念とアクチュアリティを感じる。本作は20年代を撃っている。
まずもってわれわれをたじろがせるのは、その物語を語ることへの躊躇いのなさだ。活劇として、ビルドゥングスロマンとしての葛藤の一切を廃したその構成の中で演じられる記号化された男性性のありかたは、どこか2.5次元的でもあるように見える。とはいえ、そこにあるヒロイズムは伝統的なヤクザ映画のそれであり、主眼はあくまでもレトロな男性性にあるのかもしれない。とはいえモチーフのレベルでの美しさは際立っていて、黒く塗られた影のような人々が、業火とともに洛中に攻め入るラストに横溢している、カタストロフィへの後ろ暗い欲望は素直に心地よかった(それがボンクラ的であることは留意しておくべきだろうが……)
まずもってわれわれをたじろがせるのは、その物語を語ることへの躊躇いのなさだ。活劇として、ビルドゥングスロマンとしての葛藤の一切を廃したその構成の中で演じられる記号化された男性性のありかたは、どこか2.5次元的でもあるように見える。とはいえ、そこにあるヒロイズムは伝統的なヤクザ映画のそれであり、主眼はあくまでもレトロな男性性にあるのかもしれない。とはいえモチーフのレベルでの美しさは際立っていて、黒く塗られた影のような人々が、業火とともに洛中に攻め入るラストに横溢している、カタストロフィへの後ろ暗い欲望は素直に心地よかった(それがボンクラ的であることは留意しておくべきだろうが……)
SSSS.二作の合同映画。特撮的ないわゆる「お祭り映画」の体裁をとりながら、前二作のメタフィクション路線をありえないほどラディカルなかたちで叩きつけてみせた怪作。『歪曲王』との前評判があったが、それに違わない全面的な救済と解放が描かれていて、マクロな「お祭り」よりもミクロなコミュニケーション上の「やり直し」、「最高のエンディング」が正しくファンダム的な魅力を醸す佳作だったように思う。ただ『歪曲王』の白眉はあくまでも「失恋」で、そのビターさは『DYNAZENON』を規定していたものでもあったはずなので、そこに明確に背を向けていることは記しておきたい。
SSSS.二作の合同映画。特撮的ないわゆる「お祭り映画」の体裁をとりながら、前二作のメタフィクション路線をありえないほどラディカルなかたちで叩きつけてみせた怪作。『歪曲王』との前評判があったが、それに違わない全面的な救済と解放が描かれていて、マクロな「お祭り」よりもミクロなコミュニケーション上の「やり直し」、「最高のエンディング」が正しくファンダム的な魅力を醸す佳作だったように思う。ただ『歪曲王』の白眉はあくまでも「失恋」で、そのビターさは『DYNAZENON』を規定していたものでもあったはずなので、そこに明確に背を向けていることは記しておきたい。
前作に引き続き特撮のフォーマットでジュヴナイルを貫いているが、全体を規定しているのはポスアポ的な感覚であり、ここに描き出されるのは決定的な喪失や傷を伏蔵した世界と主体だ。そのなかで抵抗の可能性として定位されたのが共同体ではなく、自立した個によるあいまいな連帯としての「チーム」だったことは、ともすればある種の全体主義や自閉を作り出してしまいかねない「合体ロボ」という主題に誠実だったように思う。とはいえ、本作の白眉は全体の歪さ・粗さを踏破するキャラの存在感や力で、大状況を前にした等身大の人間が英雄になることなくコミットしていく筋の妙味だろう。
前作に引き続き特撮のフォーマットでジュヴナイルを貫いているが、全体を規定しているのはポスアポ的な感覚であり、ここに描き出されるのは決定的な喪失や傷を伏蔵した世界と主体だ。そのなかで抵抗の可能性として定位されたのが共同体ではなく、自立した個によるあいまいな連帯としての「チーム」だったことは、ともすればある種の全体主義や自閉を作り出してしまいかねない「合体ロボ」という主題に誠実だったように思う。とはいえ、本作の白眉は全体の歪さ・粗さを踏破するキャラの存在感や力で、大状況を前にした等身大の人間が英雄になることなくコミットしていく筋の妙味だろう。
2025年初映画。信州、諏訪大社の神事についてのドキュメンタリー。とはいえナレーションとイメージ映像の比率が多く、単に事実を映し出すようなドキュメンタルなものとは感触が違う。タイトルにあるように、本作はわれわれの属する世界から地続きの信仰世界における「鹿」を映す。しかしそれは、常に死体として、剥製として映るのみで、生命を備えた鹿はイメージ映像としてしか現れてこない。剥製としての現実と、生命のある幻想。そして、そのふたつが交わるのは「射殺」の瞬間に他ならない。流れた血はやはり目には映らないけれど、たしかにわれわれの世界を浸潤している。そういった信仰の底流についての映画。
2025年初映画。信州、諏訪大社の神事についてのドキュメンタリー。とはいえナレーションとイメージ映像の比率が多く、単に事実を映し出すようなドキュメンタルなものとは感触が違う。タイトルにあるように、本作はわれわれの属する世界から地続きの信仰世界における「鹿」を映す。しかしそれは、常に死体として、剥製として映るのみで、生命を備えた鹿はイメージ映像としてしか現れてこない。剥製としての現実と、生命のある幻想。そして、そのふたつが交わるのは「射殺」の瞬間に他ならない。流れた血はやはり目には映らないけれど、たしかにわれわれの世界を浸潤している。そういった信仰の底流についての映画。
すっかり国際的な作品になった向きのあるウルトラマン最新作(2クール)。田口清隆成分、もとい90-00年代のミリタリー(っぽい)特撮の系譜そのものだった前作に比べて遥かに落ち着いた作りで、アイコニックな要素・客演も抑えめで、きわめてプレーンという印象を受けたが、ラスト数話の展開は「想像力」という主題に真摯に仕上がっていたように感じる。われわれは想像可能な「終わりなき」平穏な世界ではなく、「現実には起こり得ない」ことだけで満たされたディストピアに生きているが、その想像不可能性が子どもの妄想のようなかたちで希望に反転するかもしれない、という祈り……
すっかり国際的な作品になった向きのあるウルトラマン最新作(2クール)。田口清隆成分、もとい90-00年代のミリタリー(っぽい)特撮の系譜そのものだった前作に比べて遥かに落ち着いた作りで、アイコニックな要素・客演も抑えめで、きわめてプレーンという印象を受けたが、ラスト数話の展開は「想像力」という主題に真摯に仕上がっていたように感じる。われわれは想像可能な「終わりなき」平穏な世界ではなく、「現実には起こり得ない」ことだけで満たされたディストピアに生きているが、その想像不可能性が子どもの妄想のようなかたちで希望に反転するかもしれない、という祈り……
巨匠大島渚監督の異端的ロードムービー。「当たり屋」によって生計を立てる一家の放埒とした破綻を少年のまなざしから描き出す。戦後日本における巨大な抑圧装置としての「家」(=マイホーム神話)を放棄してもなお、彼らの間には独特の緊張関係が、というより決定的な亀裂が存在している。彼らは静的な家ではなく、動的な、ロードムービーという制度それ自体に幽閉されているかのようである。そしてその幽閉は、少年をたえず疎外する。依って立つ家族(という枠)の不在と、望郷の念の空疎さに苛まれる彼の姿には、戦後復興と離散・流浪の現実性の交差が刻み込まれているかにみえる。
巨匠大島渚監督の異端的ロードムービー。「当たり屋」によって生計を立てる一家の放埒とした破綻を少年のまなざしから描き出す。戦後日本における巨大な抑圧装置としての「家」(=マイホーム神話)を放棄してもなお、彼らの間には独特の緊張関係が、というより決定的な亀裂が存在している。彼らは静的な家ではなく、動的な、ロードムービーという制度それ自体に幽閉されているかのようである。そしてその幽閉は、少年をたえず疎外する。依って立つ家族(という枠)の不在と、望郷の念の空疎さに苛まれる彼の姿には、戦後復興と離散・流浪の現実性の交差が刻み込まれているかにみえる。
再視聴(6周目くらい?)。アニメにおける戦争イメージを更新した側面の強い『ガンダム』以降のロボットアニメとして卓越している(『エヴァ』がノスタルジアと私小説に傾斜していたのに対して、こちらは明確にSF的なワンダーを志向している)と改めて思う。レイアウトシステムに従って緻密に設計された画面のうちでは、物語のレベルで、あらゆる状況が絶えずフレーミングされ、デジタルに構成されたものとして配置されている。コックピット、センサ、あるいは報道画面。現実を現実として映し出すデジタルのインターフェースはしかし、本作において
再視聴(6周目くらい?)。アニメにおける戦争イメージを更新した側面の強い『ガンダム』以降のロボットアニメとして卓越している(『エヴァ』がノスタルジアと私小説に傾斜していたのに対して、こちらは明確にSF的なワンダーを志向している)と改めて思う。レイアウトシステムに従って緻密に設計された画面のうちでは、物語のレベルで、あらゆる状況が絶えずフレーミングされ、デジタルに構成されたものとして配置されている。コックピット、センサ、あるいは報道画面。現実を現実として映し出すデジタルのインターフェースはしかし、本作において
かつてなくやるせない読書体験だった、とあらゆる論評に先立って書いてしまいたい。本書は、いま・ここのわれわれが目を背けたくなるような、決定的に破綻した「夢」によって、それのみによって構成されている。その主張自体は単純で、モノ(データ)としての無意識──空気や雰囲気と呼び表されるある種の集合的な欲望の連なり──を情報技術によって可視化する(=実在としての一般意志なるものを立ち上げる)ことで、新時代の公共性のプラグマティックな基礎付けを行う、というものだ。その過程で持ち出されるのはルソーでありフロイトでありグーグルであり、そしてローティだった。恐らく、本書の
かつてなくやるせない読書体験だった、とあらゆる論評に先立って書いてしまいたい。本書は、いま・ここのわれわれが目を背けたくなるような、決定的に破綻した「夢」によって、それのみによって構成されている。その主張自体は単純で、モノ(データ)としての無意識──空気や雰囲気と呼び表されるある種の集合的な欲望の連なり──を情報技術によって可視化する(=実在としての一般意志なるものを立ち上げる)ことで、新時代の公共性のプラグマティックな基礎付けを行う、というものだ。その過程で持ち出されるのはルソーでありフロイトでありグーグルであり、そしてローティだった。恐らく、本書の
アナザーガンダムのうちでもとりわけよく知られたサーガ『SEED』シリーズの劇場版。今更ながら観たが(DESTINYのみ未見)、前評判通りの怪作で、まさにそのことによって正当なSEEDの続編たりえていると感じた。そういう意味で強い不満はないのだが、しかし、色々と考えざるをえない作品ではある、とも同時に思う。こういう読みそのものを無化するような作品ではあるような気もするが、あえてシリアスに解するなら、本作は9.11とそれに次ぐイラク攻撃の情勢下を睨みながら作劇されたSEED、そしてその拡張としてのSEED DESTINYの続編として、冷戦
アナザーガンダムのうちでもとりわけよく知られたサーガ『SEED』シリーズの劇場版。今更ながら観たが(DESTINYのみ未見)、前評判通りの怪作で、まさにそのことによって正当なSEEDの続編たりえていると感じた。そういう意味で強い不満はないのだが、しかし、色々と考えざるをえない作品ではある、とも同時に思う。こういう読みそのものを無化するような作品ではあるような気もするが、あえてシリアスに解するなら、本作は9.11とそれに次ぐイラク攻撃の情勢下を睨みながら作劇されたSEED、そしてその拡張としてのSEED DESTINYの続編として、冷戦