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我々はどうしたわけか、神がきわめて親しく我々に心を寄せていると信じるのを嫌がる。「神は我々ひとりひとりから遠く離れておいでになるのではない(使徒行伝 17:27)」にも関わらず、我々は神が遠くに離れていると思い、彼の代わりに盲目の思考しない代理を据えたがる。
(バークリー『人知原理論』150)
December 13, 2025 at 5:00 AM
感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一体悪行の中に美があるのかしらん?……
……しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第3編3 熱烈なる心の懺悔──詩)
December 13, 2025 at 3:01 AM
往々聖母《マドンナ》の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行《ソドム》の理想をもって終るという事なんだ。いや、まだまだ恐ろしい事がある。つまり悪行の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、
真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。俺は出来る事なら少し縮めてみたいよ。ええ畜生、何が何だか分りゃしない、本当に! 理性の目で汚辱と見えるものが、
December 13, 2025 at 3:01 AM
些細な自尊心の傷にも耐へられない神経症的な青年などの、粗末を机の上で、(何万といふ机の上で!)、今現にはじまつてゐることなのである。非常に傷つきやすい人間が、「客観性」へ逃避することのできる芸術ジャンルへ走るといふことほど、自然な現象があるだらうか。
(三島由紀夫『小説とは何か』2)
December 13, 2025 at 1:00 AM
差違もない。両者とも西欧的なのである。こういう魂はあらゆる社会的なものを超えて遠くを見る。この魂から見れば、この世界の事物はまったくくだらないものであって、これを改革してもなんの価値がない。どんな純粋な宗教といっても、事実の世界を改良しようとはしない。ドストエフスキーは、すべての
原始ロシア人と同様に、この世界にまったく気がつかない。彼らは第一の世界の向こう岸にある第二の形而上的な世界に生きている。魂の苦悩は共産主義となんの関係があるか。社会問題の範囲に踏みこんだ宗教は、宗教ではなくなったのである。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第3章2)
December 12, 2025 at 5:00 PM
最新刊にそそくさと手を出すのはひかえるべきだ。たしかに過去の知見が反映されている。だがどのように反映されているかが問題だ。しばしば新刊書の著者は、先人をきちんと理解していないくせに、先人の言葉をそのまま引用しようとはせず、先人固有の血の通った専門的知識から書かれた、ずっとすぐれた
明快な言説に手を加えて改悪し、台無しにしてしまう。こうしてしばしば先人の最良の業績、核心をついた説明をむざむざと手放す。その価値を見抜けず、その的確さを感知できないからだ。自分と同質の陳腐で底の浅いものしか理解できないのだ。
(ショーペンハウアー『読書について』著述と文体について2)
December 12, 2025 at 3:01 PM
むしろ、読書のために設けた短めの適度な時間を、もっぱらあらゆる時代、あらゆる国々の、常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけだ。
悪書から被るものはどんなに少なくとも、
少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。悪書は知性を毒し、精神をそこなう。
良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから。
(ショーペンハウアー『読書について』読書について7)
December 12, 2025 at 1:00 PM
そこでひとつひとつの場合をべつべつに解釈して、一般的な結論をひき出すことは断念してしまう、というのがいちばんいいことだと思いますね。つまり、医者たちがよく言うように、個々の場合をそれぞれ個別化してみる必要があるわけです。
(チェーホフ『恋について』)
December 12, 2025 at 9:00 AM
だがこの場合、著者がどう考えたのかという把握の形が大切であって、主体が問題になる。だからこのような本が比類なくすぐれているとすれば、著者もまたすぐれていることになる。読むに値する本が書かれ、それが素材のおかげでなければないほど、すなわち素材がよく知られた陳腐なものであればあるほど
書き手の功績は大きいということになる。たとえばギリシアの三大悲劇詩人は、みな同じ素材を取り上げ、それに手を加えている。
したがって有名な本なら、それは素材のおかげか、表現形式のおかげか、よく区別しなければならない。
(ショーペンハウアー『読書について』著述と文体について3)
December 12, 2025 at 5:00 AM
論理学がそれであるような記号の約束がそもそもいかなる価値をもっているのかという疑問としても、あらわれでてこない。
(ニーチェ『偶像の黄昏』哲学における「理性」3)
December 12, 2025 at 3:00 AM
産物にすぎず、否、直接に有機体の内部活動と交渉を有しないで、たんに外界に対して有する関係を規正することによって自己保存に役立つ限りにおいては、他の器官の寄生物でさえある」。これはまさしく最も浅薄な唯物論の根本的見解である。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第5章18)
December 12, 2025 at 1:00 AM