美術界隈で"にわかに"騒がれだしたギャラリーストーカー問題と求められる対策が、本質的に「無害な外国人なら許す」と何が違うのか、ということも繰り返し言う。
「定義不明なもの(マジで、なんとなくコミュニケーションがキモかった、くらいの告発がある)」を、「制度的に撲滅したい」とはどういうことなのか、深く考えず「大学に対策を求める有志の学生たち」とかの応援が回ってくる。同じ口で「外国人差別反対」とか言う。
こういうのを属性に流されずしっかり問題わけするのもアート系の知識層の仕事だと思うが、そういうこと全然やらんよな。こういうのも差別という語の陳腐化の一因じゃないですか
美術界隈で"にわかに"騒がれだしたギャラリーストーカー問題と求められる対策が、本質的に「無害な外国人なら許す」と何が違うのか、ということも繰り返し言う。
「定義不明なもの(マジで、なんとなくコミュニケーションがキモかった、くらいの告発がある)」を、「制度的に撲滅したい」とはどういうことなのか、深く考えず「大学に対策を求める有志の学生たち」とかの応援が回ってくる。同じ口で「外国人差別反対」とか言う。
こういうのを属性に流されずしっかり問題わけするのもアート系の知識層の仕事だと思うが、そういうこと全然やらんよな。こういうのも差別という語の陳腐化の一因じゃないですか
二郎ラーメンが日本に特異的な趣味なのはこのせいじゃないだろうか。つまり何もかも許されているがゆえに何もかも面白くなくなってしまった人間の果ての食道楽に思える。汚い、ぜったい太る、身体に悪い、後で胸焼けして後悔する、おまけにニンニクプンプンで翌日まで臭い…だからこそ食べたい。
こういう心理が考えられないだろうか。
日本人が自文化の魅力だと思っている自由と寛容に、内心で退屈しつつあることに気づきたくないので、イスラム教徒のような「お堅い文化と想像される他者の目」を通じて、侵犯を味わい直したい。今いる場所が突き抜けた先の楽園だと信じたい
二郎ラーメンが日本に特異的な趣味なのはこのせいじゃないだろうか。つまり何もかも許されているがゆえに何もかも面白くなくなってしまった人間の果ての食道楽に思える。汚い、ぜったい太る、身体に悪い、後で胸焼けして後悔する、おまけにニンニクプンプンで翌日まで臭い…だからこそ食べたい。
こういう心理が考えられないだろうか。
日本人が自文化の魅力だと思っている自由と寛容に、内心で退屈しつつあることに気づきたくないので、イスラム教徒のような「お堅い文化と想像される他者の目」を通じて、侵犯を味わい直したい。今いる場所が突き抜けた先の楽園だと信じたい