Kentaro Fukuchi
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Kentaro Fukuchi
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「『修理する権利』は『遊ぶ権利』である」というエッセイを書きました。

金継ぎされたソーサーが、ソーサーじゃないものに見えてきて他のものを置いてみたくなるという、あるテレビ番組での常盤貴子さんの発言をヒントに、修理や修復の面白さについて語ったもの。

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「修理する権利」は「遊ぶ権利」である
Eテレの番組で常盤貴子が金継ぎされたソーサーを見て「他のものを置いてみたくなる」と言ったのを見て、修復という行為は、本来の用途という束縛を緩め、遊びの余地を生み出すのではないか、と考えた。茶道具の修復や家電製品の分解修理を例に、修復という過程が私たちにもたらす「遊び」について考察し、「修理する権利」が単なる経済・環境問題にまつわるものではなく、人間らしく生きるための本質的な権利であることを論じる。
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December 8, 2025 at 12:02 AM
昨日のエッセイの続きで、「誰が『百聞は一見に如かず』の続きを作ったのか」を書きました。

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よく「百行は一効に如かず、百効は一幸に如かず、百幸は一皇に如かず」とか書かれているアレはどこから出てきたのかを調べてますが、いまのところまだ作者不詳です。
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November 24, 2025 at 6:18 AM
「百聞は一見にしかず、百見は一◯にしかず」というエッセイを書きました。
fukuchi.org/essay/2025/s...

「百見は一体験にしかず」とか「百見は一触にしかず」みたいなことを言ってしまうときの「見」の価値がどのように変遷していったかを考察したエッセイです。

ちなみに「百見は一◯◯にしかず」という表現は目新しいものではなく、明治時代にまでさかのぼれます。見ることの価値低下が起きているわけですが、これが写真の普及と関係あるのでは? という作業仮説をここでは立てています。
百聞は一見にしかず、百見は一◯にしかず
VR ブームが来るたびに、「百聞は一見にしかず」 に続けて「百見は一体験にしかず」とか「百見は一触にしかず」といったもじりが書かれているのをよく見かけたもので、 現代においては「一見」の価値が大きく後退してしまったようだ。 ではこれからの時代に、その「体験」の価値は、どこまで後退していき、何が大事なものとして残ろうとしているのだろうか。
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November 23, 2025 at 9:28 AM
先月にコロナ社から発売になった書籍『メディアテクノロジーシリーズ 11: インタラクションデザイン- 生活・技術・人をつなぐデザインのかたち -』の第5章「不特定多数を対象とするインタラクションデザイン」を担当しています。その内容について、遅ればせながら紹介記事を書きました。

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「不特定多数を対象とするインタラクションデザイン」
コロナ社刊『インタラクションデザイン—生活・技術・人をつなぐデザインのかたち—』で筆者が担当した第5章「不特定多数を対象とするインタラクションデザイン」の内容を簡単に紹介する。同章では、カフェや美術館、野外フェスといった広い空間におけるインタラクティブ展示のためのデザインについて、空間・時間の二つの軸に沿って整理する考え方を示している。
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November 13, 2025 at 5:52 AM
福地研の Web ページを全面的に改修しました。
fukuchilab.org

いままで Wordpress で運用していたのを、Hugo による静的サイトへと全面的に切り替えました。
Fukuchi Lab.
Fukuchi Lab., Meiji Univ.
fukuchilab.org
November 4, 2025 at 5:22 AM
「間違いだらけの『マシュマロ・チャレンジ』」

スパゲティ乾麺で塔を立て、てっぺんにマシュマロを載せ、その高さを競う「マシュマロ・チャレンジ」について、ネット上には「PDCAを学べる」「チームワークが重要」といった誤った解説が溢れているのに業を煮やし、解説記事を書きました。

fukuchi.org/essay/2025/m...
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October 28, 2025 at 6:52 AM
先のエッセイの派生で、「ボルタ電池についての文献を読むときの意外な落とし穴」というのを書きました。

いまどきボルタの時代の文献に目を通すこともないとは思いますが、電極についての記述で意外な落とし穴があるので、調べものの際にはお気をつけください。

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ボルタ電池についての文献を読むときの意外な落とし穴
ボルタ電池についての当時の文献を読むと、亜鉛電極がプラス、銅電極がマイナス、と書かれていることがある。これは現在から見れば逆なのだが、これには当時のボルタの仮説が関係しているということを指摘する論文を見つけた。
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October 27, 2025 at 4:33 AM
「フロギストンと正統科学」というエッセイを書きました。「フロギストン」のことを単に、ものが燃えるプロセスについての、昔あった間違った仮説、くらいに思っていたのですが、調べてみるとこれが結構奥が深い…とまでは言わないまでも面白い代物であることを知りました。

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フロギストンと正統科学
ものが燃える現象を説明する元素として考案された「フロギストン」は、後から見れば酸素の性質を裏返した、いわば「マイナスの酸素」として見ることができなくもないという。であればフロギストンは、ちょっとした間違いと捉えるべきか、それとも疑似科学の一種でしかなかったと捉えるべきか。
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October 27, 2025 at 4:25 AM
先日掲載したエッセイに記した、白色LEDの仕組みについての問題について解説しました。同問題はある意味でのひっかけ問題になっているので、ぜひ答を確認してみてください。

fukuchi.org/essay/2025/w...
「『考えさせる問題』への疑問」に掲載した練習問題の解説
「『考えさせる問題』への疑問」の末尾に掲載した、白色LEDの仕組みについての問題について解説する。同問題はある意味でのひっかけ問題になっているので、ぜひ答を確認してみてほしい。
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October 11, 2025 at 2:12 AM
世間で「考えさせる問題」と評価される問題が、かえって考える習慣から学生を遠ざけていやしまいか、という懸念を書きました。

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「考えさせる問題」への疑問
世間で「考えさせる問題」と評価される問題が、かえって考える習慣から学生を遠ざけていやしまいか、という懸念を論じる。というのも、どうも「考える」ということを誤解している学生が少なくないのではないか、と普段の学生指導を通じて前々から感じているからだ。
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October 9, 2025 at 3:35 AM
寺山修司の有名な言葉「書を捨てよ、町へ出よう」には、「町を書物のように読んでみよう」という続きがある、とどこかで見かけた覚えがあるということは以前にも書いたが、あらためて出典を探ってみた。

出典を探る内に、藤本智成の論文「『地の糧』を読む寺山修司」を見つけ、どうやらそれらしい言葉に辿り着くことができた。またそこから、寺山が元ネタとしたジッド『地の糧』からどのように寺山が改変を加えたかを見ることで、寺山の目指した境地について少し理解が進んだ。

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町を書物のように読んでみよう
寺山修司の有名な言葉「書を捨てよ、町へ出よう」には、「町を書物のように読んでみよう」という続きがある、とどこかで見かけた覚えがあるのだが、確かなことがわからない。出典を探る内に、元ネタとされるジッドの『地の糧』に辿り着き、そこから寺山がどう作り変えていったかが見えてきた。読書も町歩きも創造的な「遊び」として捉える寺山の境地について考える。
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October 5, 2025 at 1:11 AM