この戦いについて、松前藩に伝えられたのは同年六月のことであった。藩から260人余りの鎮圧軍を派遣されたが、その頃、すでにアイヌの首長達の説得により、到着を前に戦いは終結していた。
七月二十日アイヌへの聴取を行い、即日37人の死罪が決定した。翌日、指導者マメキリから順に斬首され、6人目の時、牢内から危急を知らせる叫び(ペウタンケ)とともに、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢内へ鉄砲を撃ち込み、破れた牢から逃亡した者は槍で突き刺し、37人を殺害したという。
首は全員分取られ、塩漬けにして松前へ運ばれ、残された遺体は一つ穴にまとめて埋められた。
#大河べらほう
いかにも久しき千秋の帝 萬歳の我が君と
元より薬の酒なれば
酔ひにも侵かされず その身も変はらぬ
祈る慈童が七百歳を 我が君に授け置き
所は酈縣の山路の菊水 汲めや掬べや
飲むとも飲むとも 盡きせじや盡きせじと
菊かき分けて山路の仙家にそのまゝ慈童は入りにけり
皆様の齢長からんと祈りつつ、重陽の節句『菊慈童』にて寿ぐなり。
いかにも久しき千秋の帝 萬歳の我が君と
元より薬の酒なれば
酔ひにも侵かされず その身も変はらぬ
祈る慈童が七百歳を 我が君に授け置き
所は酈縣の山路の菊水 汲めや掬べや
飲むとも飲むとも 盡きせじや盡きせじと
菊かき分けて山路の仙家にそのまゝ慈童は入りにけり
皆様の齢長からんと祈りつつ、重陽の節句『菊慈童』にて寿ぐなり。