あそぶ?
他者がいま開かれているのか、閉じているのかとか、世界を少し開いたか、それとも知らないうちに閉じたかとか、、そういう世界の取り扱いの違いの差に困惑することがある
他者がいま開かれているのか、閉じているのかとか、世界を少し開いたか、それとも知らないうちに閉じたかとか、、そういう世界の取り扱いの違いの差に困惑することがある
満たすことが終止符なのではなくて、その空洞がどこまで強度を受け取れるのかを見たいと思う
満たすことが終止符なのではなくて、その空洞がどこまで強度を受け取れるのかを見たいと思う
自己が課題として自分に現れる距離がなくなることみたいな
自己が課題として自分に現れる距離がなくなることみたいな
このように書くと、美/醜、快/不快といった価値の極性をわざわざ対比しているように見えてしまうののだけど、美が生を肯定すふことと、主体が崩れてしまう可能性を孕んだ恐怖や不穏とのあいだに、非対称性は存在しない
調和や肯定の側に存在の強度が現れることもあれば、それと同じ強度が、主体の安定しない領域に現れることもある
このように書くと、美/醜、快/不快といった価値の極性をわざわざ対比しているように見えてしまうののだけど、美が生を肯定すふことと、主体が崩れてしまう可能性を孕んだ恐怖や不穏とのあいだに、非対称性は存在しない
調和や肯定の側に存在の強度が現れることもあれば、それと同じ強度が、主体の安定しない領域に現れることもある
ただ途中で文字にするの飽きちゃった
人が美を語る楽しむ以前に、ただ静かに美しいという状態を感じる人もいるが、それでも自分にとっては薄い膜越しに届くことがあると言いたかった
ただ途中で文字にするの飽きちゃった
人が美を語る楽しむ以前に、ただ静かに美しいという状態を感じる人もいるが、それでも自分にとっては薄い膜越しに届くことがあると言いたかった
今いま残っているのは、私の配置から物事を見たとき、なにかすべてが脱落した場所で、それでもなお生は何に接続しうるのかという問いのなかで、作品と共鳴するその感触のだけなような気がする
今いま残っているのは、私の配置から物事を見たとき、なにかすべてが脱落した場所で、それでもなお生は何に接続しうるのかという問いのなかで、作品と共鳴するその感触のだけなような気がする
いつも歩いている道が、もはや道として把握できず、そこにあった景色も、景色として立ち上がらなくなる
主体が立っている位置そのものが消えてなくなる
そのように象徴界の連結が解けるとき、
ありとあらゆる記号は失効する
美も主体を包んでいたという事実も、
世界の側で解体されてしまう
世界は世界であることをやめてしまう
いつも歩いている道が、もはや道として把握できず、そこにあった景色も、景色として立ち上がらなくなる
主体が立っている位置そのものが消えてなくなる
そのように象徴界の連結が解けるとき、
ありとあらゆる記号は失効する
美も主体を包んでいたという事実も、
世界の側で解体されてしまう
世界は世界であることをやめてしまう
死ぬことは回避するべき脅威ではないが、死が目的なわけでは全くない
この世界で私は大丈夫か?そういう問いがなくなった後は、
この強度のまま世界とどう関係できるかをまだ見ていないという保留だけが残る
死ぬことは回避するべき脅威ではないが、死が目的なわけでは全くない
この世界で私は大丈夫か?そういう問いがなくなった後は、
この強度のまま世界とどう関係できるかをまだ見ていないという保留だけが残る