あらゆる価値の外――「ただ存在する」という地平では、すべての価値は同じになる。ゆえに価値は存在しなくなる。
思うに、仏教的な「悟りを開く」とはその地平に至ることではないか。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とはそういうことではないか。(「苦痛を排し、快楽を求める」というゲームの外ですらあるから)
あらゆる価値の外――「ただ存在する」という地平では、すべての価値は同じになる。ゆえに価値は存在しなくなる。
思うに、仏教的な「悟りを開く」とはその地平に至ることではないか。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とはそういうことではないか。(「苦痛を排し、快楽を求める」というゲームの外ですらあるから)
他の「私」なるものを素朴に信じ、この「私」に内包されたものではなく(いわば独我論的な見方ではなく)、この「私」と並列して語るのに…
他の「現実」については逆な─つまり、この「現実」と並列して語ることなく、この「現実」に内包されたものとして語る─のだろう。
その間の中途半端な大きさのアイデンティティほど、排除する対象が増えてしまう。
自分探しは結構バカにされがちだけど、やりがい搾取に絡め取られないのであれば、むしろ生涯やるべきではと思う。
アイデンティティを自分の中に見つけられるのなら、別に外国人にしろ誰にしろ排除する必要はないのだから。
その間の中途半端な大きさのアイデンティティほど、排除する対象が増えてしまう。
自分探しは結構バカにされがちだけど、やりがい搾取に絡め取られないのであれば、むしろ生涯やるべきではと思う。
アイデンティティを自分の中に見つけられるのなら、別に外国人にしろ誰にしろ排除する必要はないのだから。
ところで「算数を勉強することには意味がある」というときの「意味がある」も、「有効である」的なニュアンスを持ちますね
ところで「算数を勉強することには意味がある」というときの「意味がある」も、「有効である」的なニュアンスを持ちますね
※ここでいう「できる」とは、言語ゲームが成り立つということ
※ここでいう「できる」とは、言語ゲームが成り立つということ
教授は「科学的」とは言わず「合理的」と言ってる。
そして、さっきまでの私の論脈からすれば、透明人間になったり空を飛んだりetcは科学的ではないにしても合理的ではあるといえる。それが合理的である世界を想定しうるという意味でだ。
教授は「科学的」とは言わず「合理的」と言ってる。
そして、さっきまでの私の論脈からすれば、透明人間になったり空を飛んだりetcは科学的ではないにしても合理的ではあるといえる。それが合理的である世界を想定しうるという意味でだ。
蓋然性と認知的必然性(?(造語))の違いを見極めろって話で。蓋然性の低い世界は現実となりうるけど、認知的必然性のない世界は現実となりえない。みたいなこと。
蓋然性と認知的必然性(?(造語))の違いを見極めろって話で。蓋然性の低い世界は現実となりうるけど、認知的必然性のない世界は現実となりえない。みたいなこと。
たとえば空を飛んだり透明人間になったり思い通りに人が動いたり自殺波動があったりetc…というのは、蓋然性は低くても想定はできることなので、べつにそれは世界Bの常識に慣れてしまえば合理的ということになる。
たとえば空を飛んだり透明人間になったり思い通りに人が動いたり自殺波動があったりetc…というのは、蓋然性は低くても想定はできることなので、べつにそれは世界Bの常識に慣れてしまえば合理的ということになる。
どちらの常識にも適応して生きていくことは考えられる?
たとえば、因果が成り立つ世界と成り立たない世界。
…でも、因果が成り立たない世界にどう「適応」するのか検討がつかない。
一方の世界にとってもう片方は夢である
どちらを現実と定めることなく、今いる世界を現実と呼ぶことにしている(そうするしかないから)
…そんな風にずっと生きている人の人生を想定してみる
どちらの常識にも適応して生きていくことは考えられる?
たとえば、因果が成り立つ世界と成り立たない世界。
…でも、因果が成り立たない世界にどう「適応」するのか検討がつかない。
今までもこれからもずっと「現実」はひとつの世界を指し続けなければならないんだ
それが「現実」ということばの用法なんだ
今までもこれからもずっと「現実」はひとつの世界を指し続けなければならないんだ
それが「現実」ということばの用法なんだ
それは方便のようなものでしかなくなる
それは方便のようなものでしかなくなる
一方の世界にとってもう片方は夢である
どちらを現実と定めることなく、今いる世界を現実と呼ぶことにしている(そうするしかないから)
…そんな風にずっと生きている人の人生を想定してみる
一方の世界にとってもう片方は夢である
どちらを現実と定めることなく、今いる世界を現実と呼ぶことにしている(そうするしかないから)
…そんな風にずっと生きている人の人生を想定してみる
もし夢の記憶が連続的であったら、主体からすれば二つの世界を行き来しているだけで、夢と現実という区別はつかないだろう
もし夢の記憶が連続的であったら、主体からすれば二つの世界を行き来しているだけで、夢と現実という区別はつかないだろう
しかし、未だかつてそのようなことが起きたことはなく
叩かれると現実に痛みが発生する「この身体」はやはり(確固たる、とはいえずともある程度の)境界を持っている
しかし、未だかつてそのようなことが起きたことはなく
叩かれると現実に痛みが発生する「この身体」はやはり(確固たる、とはいえずともある程度の)境界を持っている
どこまでがこの身体であるか その境界線は揺らいでいる
人格についても同様
しかし現に そこそこ固有のモノとして捉えることができている(動的平衡を連想する)
どこまでがこの身体であるか その境界線は揺らいでいる
人格についても同様
しかし現に そこそこ固有のモノとして捉えることができている(動的平衡を連想する)
・穴(枠)をみる
例:「カザフスタンの首都」を知らない
・過去に新しいことを知った経験を思い出し、今後も同じことがあるはずと帰納する
例:ある本を読む以前まで知らなかったことを、読んだ以降は知ってる → 読んだことない本を読んだら、また新しいことを知るだろう
…他にやりようがあるだろうか?
・穴(枠)をみる
例:「カザフスタンの首都」を知らない
・過去に新しいことを知った経験を思い出し、今後も同じことがあるはずと帰納する
例:ある本を読む以前まで知らなかったことを、読んだ以降は知ってる → 読んだことない本を読んだら、また新しいことを知るだろう
…他にやりようがあるだろうか?
それよりも「私の外」の方がよっぽど遠くにある感じがする(というか、なんだそれは)
それよりも「私の外」の方がよっぽど遠くにある感じがする(というか、なんだそれは)
「現実」という言葉の使われ方をつぶさに見ていく必要がありそう。
「現実」という言葉の使われ方をつぶさに見ていく必要がありそう。
「なぜ現実は私のように並列化されないのか」
ということだった
そしてその答えは
1.別の人と話すみたいに別の世界と話すことがないから
というものだった
だが、よく考えたら別の世界と話していても現実は単一になりうる(それが「現実」の本質である)と気づいた
よって回答は
2.話ができる時点で「現実」は共有された単一のものとなるから
に修正された
これにより
私:話ができる時点で必ず並列化される
現実:話ができる時点で必ず単一化される
という対称性がとれた
これで解決か?
ふむ
そもそもなんで私は 私と現実を対比しようとしたんだったかな
「なぜ現実は私のように並列化されないのか」
ということだった
そしてその答えは
1.別の人と話すみたいに別の世界と話すことがないから
というものだった
だが、よく考えたら別の世界と話していても現実は単一になりうる(それが「現実」の本質である)と気づいた
よって回答は
2.話ができる時点で「現実」は共有された単一のものとなるから
に修正された
これにより
私:話ができる時点で必ず並列化される
現実:話ができる時点で必ず単一化される
という対称性がとれた
これで解決か?
ふむ
そもそもなんで私は 私と現実を対比しようとしたんだったかな
経験の位相としての世界が別(夢、平行世界、創作etc)であっても、
そこにいる人と会話するようなシーンは想定できて、
その場合は「こちらの世界では〜」の言い換えとして「こちらの現実では〜」という言い方をするかもしれない。
このとき、一見、現実を並行化することに成功しているように見える。
けれど、その会話が成り立つ地点としての「現実」は結局、単一であり、共有されている(並列化不可能)。
よって「現実」という言葉の性質上、別の「現実」というものは実は想定しえない。
経験の位相としての世界が別(夢、平行世界、創作etc)であっても、
そこにいる人と会話するようなシーンは想定できて、
その場合は「こちらの世界では〜」の言い換えとして「こちらの現実では〜」という言い方をするかもしれない。
このとき、一見、現実を並行化することに成功しているように見える。
けれど、その会話が成り立つ地点としての「現実」は結局、単一であり、共有されている(並列化不可能)。
よって「現実」という言葉の性質上、別の「現実」というものは実は想定しえない。