末法の教主・御本仏・日蓮大聖人の御金言。
創価学会初代会長・牧口先生・2代目会長・戸田先生・3代目会長・池田先生の御指導。
(副教学部長・河合師範御指導/辻副会長御指導)
見た目は、勝つかどうかわからない、不安定なようであっても、死に物狂いで戦えば、その方が強いのである。
いわんや、我々には、信心がある。
法華経に勝る兵法はない。
祈れば、智慧が出る。
勇気がわく。
もう一重、深い次元で勝っていけるのである。
その生命は、自由自在であり、晴ればれと開かれています。生きとし生けるものへの慈しみに満ち、苦悩する存在への同苦が漲っている。また、決して枯れる事のない智慧と精神力がほとばしり、尽きない生命力と福徳が湧き出ている。更に自他の悪と戦う勇気に燃え、何ものにも恐れる事はない。そういう仏界の生命を、味わい、楽しみ切っていくことが、人生の至高の意義です。人間が「心」をもっているのは、苦しむためでなく、仏界の常楽我浄の大境涯を味わい尽くすためです。🌻🌻
その生命は、自由自在であり、晴ればれと開かれています。生きとし生けるものへの慈しみに満ち、苦悩する存在への同苦が漲っている。また、決して枯れる事のない智慧と精神力がほとばしり、尽きない生命力と福徳が湧き出ている。更に自他の悪と戦う勇気に燃え、何ものにも恐れる事はない。そういう仏界の生命を、味わい、楽しみ切っていくことが、人生の至高の意義です。人間が「心」をもっているのは、苦しむためでなく、仏界の常楽我浄の大境涯を味わい尽くすためです。🌻🌻
一見、不幸と思えるような出来事さえも、人間革命の糧へと輝かせていける。境涯が変われば、景色が一変する。
そう仏法は教えているのです⛄️
一見、不幸と思えるような出来事さえも、人間革命の糧へと輝かせていける。境涯が変われば、景色が一変する。
そう仏法は教えているのです⛄️
しかし、同じ状況にあっても、ある人は、生き生きと進む。ある人は、嘆き、悲しむ。喜びというのは、心が感じるものだからだ。
この人生を、喜んで、楽しんでいければ、その人は「勝ち」である。ゆえに大事なのは、心を変革することだ。これが仏法である。
人が見て、どうかではない。皆がうらやむような境遇でも不幸な人は少なくない。心が強い人。心が賢明な人。心がたくましい人。心が大きい人。その人は、何があっても、へこたれない。
「心こそ大切なれ」📖1192㌻
しかし、同じ状況にあっても、ある人は、生き生きと進む。ある人は、嘆き、悲しむ。喜びというのは、心が感じるものだからだ。
この人生を、喜んで、楽しんでいければ、その人は「勝ち」である。ゆえに大事なのは、心を変革することだ。これが仏法である。
人が見て、どうかではない。皆がうらやむような境遇でも不幸な人は少なくない。心が強い人。心が賢明な人。心がたくましい人。心が大きい人。その人は、何があっても、へこたれない。
「心こそ大切なれ」📖1192㌻
透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。否、断固として創り変えていくものである。
我が師・戸田先生は、師子王でありました。故に、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広布の師匠の為に命を捧げて戦う随喜が燃え滾っていた。この師弟不二の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしてい...
透徹した仏法の因果律に照らすならば、運命は嘆き悲しむものではない。決然と立ち向かうものである。否、断固として創り変えていくものである。
我が師・戸田先生は、師子王でありました。故に、その弟子である私も、一切の悲哀や感傷を打ち破りました。私の胸奥には、広布の師匠の為に命を捧げて戦う随喜が燃え滾っていた。この師弟不二の烈々たる一念を因として、正義の反転攻勢の渦を巻き起こしてい...
そのためには「勇気」が必要です。反対に、臆病に囚われた弱い戦いでは、生死の苦悩を転換することはできません。
そのためには「勇気」が必要です。反対に、臆病に囚われた弱い戦いでは、生死の苦悩を転換することはできません。
徹して邪悪を、また極悪を責め続けるのだ。
逡巡も、甘えも、油断も、感傷も、一切を排して、完全勝利をめざす真剣勝負の中でこそ
自己自身を磨き鍛えることができるのだ。
徹して邪悪を、また極悪を責め続けるのだ。
逡巡も、甘えも、油断も、感傷も、一切を排して、完全勝利をめざす真剣勝負の中でこそ
自己自身を磨き鍛えることができるのだ。
見ていてわかります。
「こんなに信心したのに」「私はこれだけ戦ってきたのに」
それ自体が退転なのです。
どんな事があっても御本尊様を放さない、信心だけは大聖人様の仰せ通りに進んでいく事です。
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」(新1346・全992)
見ていてわかります。
「こんなに信心したのに」「私はこれだけ戦ってきたのに」
それ自体が退転なのです。
どんな事があっても御本尊様を放さない、信心だけは大聖人様の仰せ通りに進んでいく事です。
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」(新1346・全992)
大聖人は「真実に、すべての人が、身心の難を打ち破る秘術は、ただ南無妙法蓮華経なのである」(📖御書1170㌻、通解)と断言しておられる。
幸福とは、たんなる言葉ではない。物でもない。財産や地位や名声で、幸福は決まらない。
まず題目をあげることだ。そうすれば、生命力がわいてくる。
大聖人は「真実に、すべての人が、身心の難を打ち破る秘術は、ただ南無妙法蓮華経なのである」(📖御書1170㌻、通解)と断言しておられる。
幸福とは、たんなる言葉ではない。物でもない。財産や地位や名声で、幸福は決まらない。
まず題目をあげることだ。そうすれば、生命力がわいてくる。
世の中には偽りがある。それらに、いちいち心を動かされるのは、あまりにも愚かである。また不幸である。
絶対にウソがないのは妙法である。日蓮大聖人である。ゆえに、広宣流布に生ききっていく人生が、もっとも賢明である。
信仰しているゆえに、いやな思いをすることもあるにちがいない。人一倍の苦労もある。しかし全部、自分自身の修行である。
世の中には偽りがある。それらに、いちいち心を動かされるのは、あまりにも愚かである。また不幸である。
絶対にウソがないのは妙法である。日蓮大聖人である。ゆえに、広宣流布に生ききっていく人生が、もっとも賢明である。
信仰しているゆえに、いやな思いをすることもあるにちがいない。人一倍の苦労もある。しかし全部、自分自身の修行である。
逆境の時に、朗らかさ😃を失わない人が、本当に強い人です。
逆境の時に、朗らかさ😃を失わない人が、本当に強い人です。
大変な時こそ、反対に、明るい笑顔で周囲の人を元気づけながら進んでいくことです。
希望がなければ、自分で希望をつくっていけばよい。人を頼るのではなく、みずからの胸中に炎を燃えたたせていくのです。
😃
大変な時こそ、反対に、明るい笑顔で周囲の人を元気づけながら進んでいくことです。
希望がなければ、自分で希望をつくっていけばよい。人を頼るのではなく、みずからの胸中に炎を燃えたたせていくのです。
😃
不惜身命でなければ、民衆を守る事はできない。「身命をすてて強敵の科を顕せ」の一文を心に刻みたい。魔と闘い、強敵の科を責め出さなければ真の勝利は断じて無い。師子王が動く事で魔は退散する。仏法を守るべき時には、猛然と魔軍を駆り出していかなければならない。油断は絶対に禁物です。どんな敵も全力で戦う。それでこそ師子です。真剣勝負ゆえに、師子王は、周囲が“ここまで”と思うぐらいに一つ一つに全魂を込めて取り組むのです。“守り”でなく、“攻め”です。
不惜身命でなければ、民衆を守る事はできない。「身命をすてて強敵の科を顕せ」の一文を心に刻みたい。魔と闘い、強敵の科を責め出さなければ真の勝利は断じて無い。師子王が動く事で魔は退散する。仏法を守るべき時には、猛然と魔軍を駆り出していかなければならない。油断は絶対に禁物です。どんな敵も全力で戦う。それでこそ師子です。真剣勝負ゆえに、師子王は、周囲が“ここまで”と思うぐらいに一つ一つに全魂を込めて取り組むのです。“守り”でなく、“攻め”です。
自身の心といっても、凡夫の弱き心に従ってしまえば、心の可能性は急速にしぼみます。それどころか、心から悪も生じます。ここに一念の微妙な問題がある。
一生成仏が、衆生自身の心を鍵としている以上、人間がもつ「心」の弱さを克服していかなければならない。それが「信心」でもあるのです。
凡夫の心は、常に揺れます。その揺れる自身の心を基準にしてはならない。
そのことを訴えているのが、有名な「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(御書1088㌻)との金...
自身の心といっても、凡夫の弱き心に従ってしまえば、心の可能性は急速にしぼみます。それどころか、心から悪も生じます。ここに一念の微妙な問題がある。
一生成仏が、衆生自身の心を鍵としている以上、人間がもつ「心」の弱さを克服していかなければならない。それが「信心」でもあるのです。
凡夫の心は、常に揺れます。その揺れる自身の心を基準にしてはならない。
そのことを訴えているのが、有名な「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(御書1088㌻)との金...
これに対して「心の師」となるとは、「法中心」です。そして、この「自分」と「法」を結びつけるのが、仏法の師匠の存在です。
仏法で説く師匠とは、衆生に、自らの依り処とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。そのとき、初めて「心の師」となる生き方が実現するのです。
これに対して「心の師」となるとは、「法中心」です。そして、この「自分」と「法」を結びつけるのが、仏法の師匠の存在です。
仏法で説く師匠とは、衆生に、自らの依り処とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。そのとき、初めて「心の師」となる生き方が実現するのです。
病気の人は、仏界という崇高な山に登りゆく練習をしていると、思ってください。いずれ、山頂に立って、永遠に素晴らしい眺めを楽しむために、今、坂を一つ一つ、越えているのだと思ってください。
さらにまた、彼方に輝く常楽の希望の島に向かって、今、荒波を泳いでいる時であると思ってください。
すべてが、自分自身の三世にわたる、素晴らしき勝利のための栄光の記録を作っているのであると、生き抜いてください。
ともあれ、妙法を持《たも》った人に無駄はない。たじろいでも、恐れても、悲しんでもならない。
すべてが、永遠の幸福のための追い風となることを、忘れないでください。
病気の人は、仏界という崇高な山に登りゆく練習をしていると、思ってください。いずれ、山頂に立って、永遠に素晴らしい眺めを楽しむために、今、坂を一つ一つ、越えているのだと思ってください。
さらにまた、彼方に輝く常楽の希望の島に向かって、今、荒波を泳いでいる時であると思ってください。
すべてが、自分自身の三世にわたる、素晴らしき勝利のための栄光の記録を作っているのであると、生き抜いてください。
ともあれ、妙法を持《たも》った人に無駄はない。たじろいでも、恐れても、悲しんでもならない。
すべてが、永遠の幸福のための追い風となることを、忘れないでください。
いざという時に、進むのか退くのか。「約束」を忘れないことに、その境界線があります。そして、逆境に立ち向かい、必ず乗り越えていけるのが南無妙法蓮華経の信仰の力なんです!
いざという時に、進むのか退くのか。「約束」を忘れないことに、その境界線があります。そして、逆境に立ち向かい、必ず乗り越えていけるのが南無妙法蓮華経の信仰の力なんです!
一日一日の充実には
朝の出発が肝心です。
「朝の勝利」が
一日の勝利です。
その積み重ねが
人生全体の勝利となる。
一日一日の充実には
朝の出発が肝心です。
「朝の勝利」が
一日の勝利です。
その積み重ねが
人生全体の勝利となる。
一人ももれなく、誇り高く胸を張ってください。苦しいことも大変なことも、題目という、この世で最も強い師子吼を唱え、一つ一つ乗り越えながら、みんなを幸福にし、世界を平和にしゆく栄光の青春を、喜び勇んで乱舞していただきたいのです。
一人ももれなく、誇り高く胸を張ってください。苦しいことも大変なことも、題目という、この世で最も強い師子吼を唱え、一つ一つ乗り越えながら、みんなを幸福にし、世界を平和にしゆく栄光の青春を、喜び勇んで乱舞していただきたいのです。
“勝利の人”である。
題目をあげぬいた人には、
諸天が続々と参集する。
最大に幸福の方向へと
導いてくれる。
題目にかなうものは
何もない。
“勝利の人”である。
題目をあげぬいた人には、
諸天が続々と参集する。
最大に幸福の方向へと
導いてくれる。
題目にかなうものは
何もない。
と思うような瀬戸際の時がある。
実はその時こそが、
自分の新しい可能性を開く
チャンスなのである。
わが人生を敗北から勝利へ、
不幸から幸福へと
大転換しゆく分かれ目が
ここにある。
と思うような瀬戸際の時がある。
実はその時こそが、
自分の新しい可能性を開く
チャンスなのである。
わが人生を敗北から勝利へ、
不幸から幸福へと
大転換しゆく分かれ目が
ここにある。
その時に、“もう、これで自分の人生は終わりだ”などと思い、希望をなくし、無気力になったり、自暴自棄になったりすることによって、自らを不幸にしてしまうんです。
つまり、病気などに負けるというのは、その現象に紛動されて、心が敗れてしまうことをいうんです。
その時に、“もう、これで自分の人生は終わりだ”などと思い、希望をなくし、無気力になったり、自暴自棄になったりすることによって、自らを不幸にしてしまうんです。
つまり、病気などに負けるというのは、その現象に紛動されて、心が敗れてしまうことをいうんです。
自分の意志や努力とは無関係に、いつか突然やって来るのを待つのでもない。
究極は、各人が、自分自身で「つかむ」しかありません。
必ず「つかむ」ことができる信心なのです。
そして、三世に崩れざる真の幸福境涯を、自他共の胸中に築き上げていく。
それが、創価学会の信心の実践です。
自分の意志や努力とは無関係に、いつか突然やって来るのを待つのでもない。
究極は、各人が、自分自身で「つかむ」しかありません。
必ず「つかむ」ことができる信心なのです。
そして、三世に崩れざる真の幸福境涯を、自他共の胸中に築き上げていく。
それが、創価学会の信心の実践です。