・美濃部達吉は内閣中心の職能代表制「立憲独裁」のイデオローグであった。したがって、政友会による天皇機関説への攻撃は、「立憲独裁」による議会軽視への抵抗でもあった。
・当時の自由主義者は資本家の利害を代表し改革に冷淡であった。したがって社会民主主義を代表する社会大衆党は、むしろ軍部に接近した。
・坂野は当時の著名な評論家であった武藤貞一を高く評価する。武藤は日中戦争勃発直後にそれが長期化し、米英ソにたいする総力戦に転化すると主張した。彼は総力戦の破壊と欠乏を驚くべき精度で予言している。
・美濃部達吉は内閣中心の職能代表制「立憲独裁」のイデオローグであった。したがって、政友会による天皇機関説への攻撃は、「立憲独裁」による議会軽視への抵抗でもあった。
・当時の自由主義者は資本家の利害を代表し改革に冷淡であった。したがって社会民主主義を代表する社会大衆党は、むしろ軍部に接近した。
・坂野は当時の著名な評論家であった武藤貞一を高く評価する。武藤は日中戦争勃発直後にそれが長期化し、米英ソにたいする総力戦に転化すると主張した。彼は総力戦の破壊と欠乏を驚くべき精度で予言している。
・正義とは以下によって特徴づけられる道徳の一種である(著者は道徳=正義と考えない)。
(1)対他性。正義は他者との関係において問題となる
(2)優越性。正義は他の諸価値、規範に優先するとされる。
・正義とは以下によって特徴づけられる道徳の一種である(著者は道徳=正義と考えない)。
(1)対他性。正義は他者との関係において問題となる
(2)優越性。正義は他の諸価値、規範に優先するとされる。
・徂徠によると「仁」とは民を安らかにする能力を指す。人を愛することは「仁」の一側面に過ぎない。
・民を安らかにするという目的の達成のため最も重要な手段は「人を知る」こと。ここでいう「人を知る」とは人の長所を知ること。人の弱点まで知ってあげつらうことは不要。
・「聖人」とは異常な能力を備えた天才立法者。聖人でない人は聖人を理解できない。したがって、「湯武は簒奪者のクズだから聖人でない」と論じるべきでない。
・徂徠によると「仁」とは民を安らかにする能力を指す。人を愛することは「仁」の一側面に過ぎない。
・民を安らかにするという目的の達成のため最も重要な手段は「人を知る」こと。ここでいう「人を知る」とは人の長所を知ること。人の弱点まで知ってあげつらうことは不要。
・「聖人」とは異常な能力を備えた天才立法者。聖人でない人は聖人を理解できない。したがって、「湯武は簒奪者のクズだから聖人でない」と論じるべきでない。
対して荻生徂徠は独特の概念規定をする。彼によると徳とは生まれか訓練によって身につけた何らかの能力である。彼の徳には道徳性という側面が薄く、それこそ栽培の才能も徳である。
対して荻生徂徠は独特の概念規定をする。彼によると徳とは生まれか訓練によって身につけた何らかの能力である。彼の徳には道徳性という側面が薄く、それこそ栽培の才能も徳である。
人間が自分の頭を使って望ましい結果に到達せんとするのが主体性だとしたら、徂徠は主体性なぞ侮蔑している。民は何も理解できないまま偉大な立法者の制度に操作され、安泰にさせられる。民を操作するエリートの方も実は主体性を認められていない。「弁名」によれば、偉大な立法者は時代に合わせて制度を改革したが、どうして変えたのかは立法者にしかわからないという。
人間が自分の頭を使って望ましい結果に到達せんとするのが主体性だとしたら、徂徠は主体性なぞ侮蔑している。民は何も理解できないまま偉大な立法者の制度に操作され、安泰にさせられる。民を操作するエリートの方も実は主体性を認められていない。「弁名」によれば、偉大な立法者は時代に合わせて制度を改革したが、どうして変えたのかは立法者にしかわからないという。
これを聞いて習近平は大いに説び、男女三千人、五穀の種と百工を月面に遣わそうとしている。
これを聞いて習近平は大いに説び、男女三千人、五穀の種と百工を月面に遣わそうとしている。
「恢復的の民権」は英仏などで下から取ったもので、その大きさは「我れ」が自由に決める。
「恩賜的の民権」は上が与えたもので、その大きさは「我れ」の自由にならない。
私はこの区分の有効性を疑う。そもそも民権なるものは皆「恩賜の民権」であって、「恢復的の民権」なぞは幻想ではないか。
「恢復的の民権」は英仏などで下から取ったもので、その大きさは「我れ」が自由に決める。
「恩賜的の民権」は上が与えたもので、その大きさは「我れ」の自由にならない。
私はこの区分の有効性を疑う。そもそも民権なるものは皆「恩賜の民権」であって、「恢復的の民権」なぞは幻想ではないか。
所謂「リベラル」な立場を代表する西洋紳士君の議論がおそろしくつまらないのに対し、東洋豪傑君と南海先生のの議論とが面白い。というか、西洋紳士君の議論への読者への不満を、東洋豪傑君と南海先生が解消するという構造になっているかのようだ。
所謂「リベラル」な立場を代表する西洋紳士君の議論がおそろしくつまらないのに対し、東洋豪傑君と南海先生のの議論とが面白い。というか、西洋紳士君の議論への読者への不満を、東洋豪傑君と南海先生が解消するという構造になっているかのようだ。
有閑階級の立派な紳士は、自らの富を示すため、自分が「卑しい」生産活動に携わらないことを誇示するのみならず、生産に携わらぬしもべたちをも抱える。同様に、神のしもべたちたる聖職者も生産活動に携わるべきでないとされる。それどころか安息日には信徒全員に生産活動に携わることが禁じられる。
有閑階級の立派な紳士は、自らの富を示すため、自分が「卑しい」生産活動に携わらないことを誇示するのみならず、生産に携わらぬしもべたちをも抱える。同様に、神のしもべたちたる聖職者も生産活動に携わるべきでないとされる。それどころか安息日には信徒全員に生産活動に携わることが禁じられる。
徂徠先生の場合、文明は道徳であれなんであれ「聖人」すなわち偉大な立法者が設計したものだと信じ、聖人の設計(「道」)した通りにすれば統治はうまくいくと主張していた。良い社会秩序とは意図的に設計した秩序であるとの発想はまさしく設計主義的合理主義と呼んで問題なかろう。
徂徠先生の場合、文明は道徳であれなんであれ「聖人」すなわち偉大な立法者が設計したものだと信じ、聖人の設計(「道」)した通りにすれば統治はうまくいくと主張していた。良い社会秩序とは意図的に設計した秩序であるとの発想はまさしく設計主義的合理主義と呼んで問題なかろう。
不佞はしばしばあやしげなる擬古文を作れども、その文法はおぼつかなきことが多し。文法のあやふやなるを如何せんと思いて色々読むに、この本はよし。きわめて平易なり。
不佞はしばしばあやしげなる擬古文を作れども、その文法はおぼつかなきことが多し。文法のあやふやなるを如何せんと思いて色々読むに、この本はよし。きわめて平易なり。
𝕏から薄汚いユーザーが痰を吐きながら大挙して押し寄せてくる。
論争多発!ブルースカイが汚れる!そこでBluesky PBLLCは あのジャック・ドーシーの親戚、陳を秘密に呼び…
𝕏ユーザー抹殺計画を依頼した。陳は殺しのプロだ。 5億ユーザーを一人残らず抹殺せよ!
しかし、𝕏では死亡したイーロン・マスクを巨大兵器に改造する研究が着々と進んでいた!
𝕏から薄汚いユーザーが痰を吐きながら大挙して押し寄せてくる。
論争多発!ブルースカイが汚れる!そこでBluesky PBLLCは あのジャック・ドーシーの親戚、陳を秘密に呼び…
𝕏ユーザー抹殺計画を依頼した。陳は殺しのプロだ。 5億ユーザーを一人残らず抹殺せよ!
しかし、𝕏では死亡したイーロン・マスクを巨大兵器に改造する研究が着々と進んでいた!
朱子学と優生学の相性は案外悪くないのではないか。完璧に澄んだ「気」でできた生まれながらの聖人だけで構成された社会を実現するため「民を新しくする」という発想は彼らにとって魅力的だろう。
徂徠先生は完璧な聖人を作ろうという型の優生学の主張は馬鹿にするであろう。豆は豆、米は米で役に立つから、遺伝的多様性は肯定されるべきだと。しかし多様な遺伝的エリートによって構成されたカースト社会には賛同するのではないか。
朱子学と優生学の相性は案外悪くないのではないか。完璧に澄んだ「気」でできた生まれながらの聖人だけで構成された社会を実現するため「民を新しくする」という発想は彼らにとって魅力的だろう。
徂徠先生は完璧な聖人を作ろうという型の優生学の主張は馬鹿にするであろう。豆は豆、米は米で役に立つから、遺伝的多様性は肯定されるべきだと。しかし多様な遺伝的エリートによって構成されたカースト社会には賛同するのではないか。
作者は優生学の危険性を訴えているが、同時にその魅力や説得力をも示してしまっている。
「ナチの優生学は荒唐無稽な疑似科学にすぎず、ダーウィンの本来の進化論とは無縁」と不佞は思っていたが、そうともいいきれないようだ。ダーウィンを正確に理解し、今日の進化理論を築いた研究者の多くが実は優生学者であった。彼らの議論には確かに誤謬や粗雑な議論が多いが、誤謬や粗雑な議論に尽きないものである。
作者は優生学の危険性を訴えているが、同時にその魅力や説得力をも示してしまっている。
「ナチの優生学は荒唐無稽な疑似科学にすぎず、ダーウィンの本来の進化論とは無縁」と不佞は思っていたが、そうともいいきれないようだ。ダーウィンを正確に理解し、今日の進化理論を築いた研究者の多くが実は優生学者であった。彼らの議論には確かに誤謬や粗雑な議論が多いが、誤謬や粗雑な議論に尽きないものである。
聞く、西海の諸国にカントという人が出でて自律を主張したと。不学無知の極みというべし。民は甚だ愚かなものなれば、自分の利益もわからないものだ。権力者が民の父母として管理してやるべきものだ。自律を唱えるのは、一見民のためを思うようでいて、安民をそこなうものだ。仁とは安民のことだから、カントは不仁である。とうてい士大夫に値しない。(1/n)
聞く、西海の諸国にカントという人が出でて自律を主張したと。不学無知の極みというべし。民は甚だ愚かなものなれば、自分の利益もわからないものだ。権力者が民の父母として管理してやるべきものだ。自律を唱えるのは、一見民のためを思うようでいて、安民をそこなうものだ。仁とは安民のことだから、カントは不仁である。とうてい士大夫に値しない。(1/n)
現世肯定的な日本仏教(中村元「日本人の思惟方法」)を象徴するのは、輪廻転生を模した環状線からエネルギーを汲み上げる仏像人間。
仏像人間の破壊は日本仏教の否定を暗示。銀河からの降車は、輪廻からの解脱を意味。日本仏教を否定しなければ解脱できないと主張している。仏像人間の母やカンパネラが女性であることは、女性を解脱への障害とみなすブッダの女性蔑視(清水俊史「ブッダという男」)を忠実に受け継いでいる。
その姿はジョバンニの母であった。母は元々仏像人間であり、ジョバンニは生体エネルギー供給源として、カムパネルラはジョバンニを銀河に乗せるために作られたのだ。
母はかつての思い出や甘い言葉をジョバンニにかけるが、彼は逡巡しながらも母を斬殺した。
彼は銀河を降りて自らの足で歩き始めた。
夜空には、満月に向かって鷹のような鳴き声をあげ翼を広げるヨダカの影が残った。
現世肯定的な日本仏教(中村元「日本人の思惟方法」)を象徴するのは、輪廻転生を模した環状線からエネルギーを汲み上げる仏像人間。
仏像人間の破壊は日本仏教の否定を暗示。銀河からの降車は、輪廻からの解脱を意味。日本仏教を否定しなければ解脱できないと主張している。仏像人間の母やカンパネラが女性であることは、女性を解脱への障害とみなすブッダの女性蔑視(清水俊史「ブッダという男」)を忠実に受け継いでいる。
ある人はこれに反論して曰く、「法家は賞罰によって人を操作すべしとの思想ではないか」と。
確かに法家は賞罰によって人を操作できるとした。人は利己的に利益を求め、不利益を避けるから、賞によって利益を与え、罰によって不利益を与えることで、人を操作できるとした。
けれども法家は、利己的に利益を求め、不利益を避けるという点まで改造出来るとは主張しなかった。
「荀子」や「墨子」を読めばわかるが、儒家や墨家も、賞罰によって人を操作することを否定していない。別に儒墨は人間の操作に反対しなかった。
ある人はこれに反論して曰く、「法家は賞罰によって人を操作すべしとの思想ではないか」と。
確かに法家は賞罰によって人を操作できるとした。人は利己的に利益を求め、不利益を避けるから、賞によって利益を与え、罰によって不利益を与えることで、人を操作できるとした。
けれども法家は、利己的に利益を求め、不利益を避けるという点まで改造出来るとは主張しなかった。
「荀子」や「墨子」を読めばわかるが、儒家や墨家も、賞罰によって人を操作することを否定していない。別に儒墨は人間の操作に反対しなかった。
室町期、甲斐国では国人勢力による騒擾が起こること絶え間なかった。良馬の産地を抑えていたある国人は、この混乱を鎮めるべく決戦兵器を造成せんと考え、諏訪の神職の力を借り馬とアフリカ系山梨県民の黒人の国人を合成した生体兵器を作り出した。この生体兵器は馬得力(うまえろ)と呼ばれ、武勇を振るい大いに恐れられた。しかし、武田方の航空機や機甲部隊、そして核攻撃を用いた無停止の進軍についぞ居城まで追い詰められた。だが、その居城は迷宮とも言える構造を成し侵入者を退けた。武田氏はこれを恐れ城を作らず、この地方では馬の頭をした人型の怪物が時折迷宮があるとされる所より現れ人里を襲うという。
室町期、甲斐国では国人勢力による騒擾が起こること絶え間なかった。良馬の産地を抑えていたある国人は、この混乱を鎮めるべく決戦兵器を造成せんと考え、諏訪の神職の力を借り馬とアフリカ系山梨県民の黒人の国人を合成した生体兵器を作り出した。この生体兵器は馬得力(うまえろ)と呼ばれ、武勇を振るい大いに恐れられた。しかし、武田方の航空機や機甲部隊、そして核攻撃を用いた無停止の進軍についぞ居城まで追い詰められた。だが、その居城は迷宮とも言える構造を成し侵入者を退けた。武田氏はこれを恐れ城を作らず、この地方では馬の頭をした人型の怪物が時折迷宮があるとされる所より現れ人里を襲うという。
しかるに不佞はひそかにこれを疑う。責任を問うことははたして常に是か?
そもそも責任とは何ぞや?どうも漠然としているが、不佞の理解の限り、どうも「Xが責任をとる」とは何か悪いことが起こったときにXを罰することを意味するらし。確かにこれはXをして悪いことが起きないよう努めさせるよう威嚇する効がある。
なかなかけっこうそうに聞こえるが、責任を問うことには副作用がある。責任を問うことが厳しければ、人は萎縮して失敗のおそれの大きいことを試みなくなる。
しかるに不佞はひそかにこれを疑う。責任を問うことははたして常に是か?
そもそも責任とは何ぞや?どうも漠然としているが、不佞の理解の限り、どうも「Xが責任をとる」とは何か悪いことが起こったときにXを罰することを意味するらし。確かにこれはXをして悪いことが起きないよう努めさせるよう威嚇する効がある。
なかなかけっこうそうに聞こえるが、責任を問うことには副作用がある。責任を問うことが厳しければ、人は萎縮して失敗のおそれの大きいことを試みなくなる。