#marsgarden
LightNews LightNews
marsgarden.bsky.social
（体感）三十日間パレス一周（シャロジョン S4後）
#marsgarden
押し当てられたものをとりあえず食むと、だんだん自分と世界の境界線がはっきりしてくる。くちびるがあり、歯があり、舌があり、味覚がある。前回の反省を生かしたのか、薄く伸ばした生地は端が焦げかけていないこともなかったが、悪くはなかった。今のうちに栄養補給をと騒ぎ出す身体がお茶の香りと、親しんだ気配を探り当てる。 ロージィのお手製ビスケットをすっかり口内に収めたところで、丸い指先の主はマグカップをよこした。どうやらまだ飲み頃のようだ。待たせた時間はどのくらい？ とりあえず、今日だけならまだ十分ほど。まだ冬になりきらない風で赤く染まった耳を根拠として挙げる。 「だいぶ長くお留守にしていたようだけど、」 「僕の顔は忘れてない？」 いつかの会話を引っ張り出せば、ジョンは眉をぎゅっと寄せて、それを食べ終わったらシャワーも浴びて少し寝ておけよと言い渡し、椅子の肘掛けから降りた。 あの日と同じようにその腕をつかまえて忘れていない証拠を提示しようとも思ったが、もう少し別のやり方を今はもう知っている。 ただ、それをするためには指示通りシャワーを浴びたほうがいいような気もしたのだが、立ち上がってその背中に覆いかぶさった。怒られても口だけであることをもう知っている。
October 11, 2025 at 10:42 AM
marsgarden.bsky.social
君はもっとこっちに（シャロジョン　S4後）
#marsgarden
例によって寝返りをくり返していたジョンが、こちら側を向く。決心をつけるまでの時間は五分、ここ最近の記録だと長いほうだ。ロージィに三階の部屋を譲ってからもうずいぶん経つというのに。 なにか？ と視線で問えば、今日のさ、と予想とは少し違う質問が差し出された。 「不倫カップルってどの辺でわかったんだ？ 結構上手に偽装できていたと思うんだけど。膝を汚したり、くちびるのはしにリップをつけたり、移り香が残っているわけでもなかったろう？」 ああ、と相槌を打ちつつ、もう少しこちら側に来るように促す。並んで眠るのに間が空いていると寒い。おまけに君はこの時期、寒さで眠りが浅くなるのだから。 かの不倫カップル、特に依頼人の夫はほんの少し手強かった。ジョンの指摘通りのことはなく、秘密の恋人との立ち位置も近すぎず、ボディタッチをするでもなく、他人として常識的な親しさを保つ。諜報員向きの資質を備えていたと言える。 彼らの秘密を暴いたのは爆発音だった。人間は咄嗟に大事なものへ視線をやる。ジョンならロージィに目をやり、僕はその状況を確認することになるだろう。依頼人の夫は殺害予告を受けたパートナーではなく、秘密の恋人を見やった。 とはいえ、彼だけのミスではない。結局のところその恋人が、自分の立ち位置に満足できず、脅迫メッセージを送り、爆発音を鳴らしたのだから。ああも短慮であれば、僕たちが赴くまでもなく遠からず秘密は秘密ではなくなったはずだ。ただし、依頼人があの兄に貸しがあり、僕のほうではちょっぴり借りがあった、それだけの話だ。 目論見通り互いの体温でうとうとし始めたジョンは、ならさ、と半ば夢の中から問いかけてきた。 「たとえばだよ、たとえば、昔のさ、会ったばかりぐらいの君を連れてきて、今の僕らを見せたら、どのくらいで秘密に気づく？」 「五秒でわかる」 「はやいな」 薄いくちびるに良くない種類の笑みを浮かべながら、ジョンは僕を見た。互いのあいだにあるちいさな拳一つ分の距離で視線が交わる。暗闇に慣れてきた目がその輪郭を、しわの一つ一つを時間をかけてなぞる。 このザマだ。恋を知らなかったころの僕にも簡単すぎる、いいや、情報の量に圧倒されるかもしれないほどの感情。緩慢に伸ばされたジョンの指先も同じことが言える。丸いそれらは僕の髪をゆっくりと自分の好みに撫でつけ終え、この距離での定位置より離れたところに落ち着こうとしたから、きちんと誘導してやることにした。
October 8, 2025 at 12:12 PM
marsgarden.bsky.social
半透明エレベーター（ジャスサイ）
ホラー 19/100
#marsgarden
ちょっとお散歩、と夜の見知らぬ街を歩いた。ジュリーにはいい顔をされないんだけどね。 変わったお店やちょっと面白い看板を見るたびに写真を撮るのはきみといっしょにお散歩したいからだって言ったっけ？ そうそう、あのワニが留守番しているお店でホットチョコを飲んだ日だよ。ホテルに戻ってきて、フロントを横切って、さて、シャワーを浴びて寝ようと思ってスイッチを押したんだ。そこのホテル、地下一階が駐車場なんだけど、それにしてもずいぶん上がってくるのが遅いなぁと思っていたら、ようやく階数表示が一階になった。 ピン！ と音がして、ドアが開いて、ぼくはぎょっとしてしまったんだ。エレベーターに、ぎっしり人がいたから。 団体さんがやってきたとか、たまたまタイミングが重なったなら、そんなに驚かなかったと思う。でも驚いた。だってその人たち、半分透けてたんだ。手前に立っていた紳士の向こう側に、スーツ姿の女性がいたのだと思うけど、さらにその奥にいた男の子と重なってしまっていて、どうにもわからなかった。 「どうされました？」 そう尋ねてきたのは、階数ボタンの前に立っていたぼくと同い年ぐらいの男の人で。彼は透けていなかったから、お洒落なシャツの色も思い出せる、きみに似合いそうだったしね。 で、その彼が怪訝そうに言うんだ。乗らないんですか？ って。まあ、下に行くのを待っていたなら乗らないわけだけども。うん、ぼくはまだちょっと驚いたままだったから、慌てちゃってさ。 「最近運動不足なのを思い出したから階段でいきます、八階まで頑張ります」 なんて言った。 「そんな、無理しなくても」 いえ、新婚なので！ 大丈夫です！ って返したもんだから相手もそうですか、頑張ってくださいねって。そうしてするするドアが閉まって、半透明の人たちとそうじゃない一人を乗せた箱はするすると上に上がっていたんだ。 あの人には半透明の人たちが見えてなかったのかもしれないけど、半透明さんたちは彼に遠慮するみたいに重ならないであげていたように思えるんだ。 ぼくが一歩でも入ろうものなら、ボーラーハットの紳士か、ビーチに繰り出しそうな女性にぶつかる……いいや、重なっちゃっていただろうね。なんでかはわからないけど、そんな気がした。 この話をボウエンにしたのは、もちろん、その街を離れてから。だってボウエン、気になったら突っ走っちゃうときがあるんだよ。好奇心でネズミがバターンじゃあ、よくないものね。
March 17, 2025 at 1:29 PM
marsgarden.bsky.social
暗転再度（ストロス）
ホラー 15/100
#marsgarden
不意に気がついた。この扉を開いたのなら、もう逃げ場はない。 どこへ逃げようとも、必ず追いつかれるのだと。 私の覚悟に気がついたのか、心配症のクロークは宥めるようにほおを撫でたが、それでもその扉を開けないという選択肢はすでになくなっていた。見慣れたサンクタム・サンクトラムの自室、けして軽くはないドアを開くとそこには当然のように私がいた。 そして、暗転。 「そのドクターは、変身したスクラル人だったんですか？」 彼らの能力のコピーは果たして魔術にも及ぶのだろうか。あのときの状況を思い出すと未だにゾッとする。まるで人生の前後がなくなってしまったかのような、寸断だけがあそこにはあった。 いいや、と対面でお茶を飲んでいる男は首を振った。 「別の次元の私だ」 「ドッペルゲンガーのようなもの？」 「まあ、そんなところだね」 「それで、どうしたんです？」 相手の様子をそれとなく観察しながら尋ねてみる。とりあえず気がつくところに怪我はなさそうだ。彼曰く心配症のクロークに手伝ってもらうことなく歩行していたからには無事だと思っていいのだろう。私にも供されているお茶のほうはといえば、ティーポットから不自然に湧いてきたものだから元気の証明には含めない。――シュリがなんというかはわからないけれど、同じく原理がわからずとも彼女のテクノロジーのほうが私には優しいようにさえ思われる。なにせ、説明してくれるから。 相変わらず秘密めかした魔術師はといえば、事もなげに言った。「殺したよ、向こうがその気だったからね」 優雅にお茶を飲む男は相変わらず絵画のようにゴージャスだ。クロークがその口元から甲斐甲斐しくクッキーのかけらを取り去るのを眺めながら思う。生き残ったのは本当に私の知っているスティーヴン・ストレンジなのかと。
March 14, 2025 at 12:43 PM
marsgarden.bsky.social
密室解体（ロスルイ）
ホラー100再放送　32/100
#marsgarden
子どもが思いついた順に好き勝手パーツを組み上げていくように増築に増築を重ねたその家は、地元でもお化け屋敷として名高かったんだ。僕が子どものころからそうなんだよ。エレメンタリーのころにはみんな、傍を通るのも嫌だからと背負っていたバックパックを盾のようにして走るのだと言っていたぐらいだった。 有名な幽霊屋敷を元にしたんじゃないかとか、そういう話もあったけど、そんなにしょっちゅう建て増しはしていなかったと思うよ、二、三回そんな話を聞いたかな、でも、僕が働き始めたときから形は変わっていなかったし、最後の住民もそのころに亡くなっているみたいだから。 そのころの繋がりのある業者さんが全部断ったからだろうね、まだ若かった僕に話が回ってきたのは。 遠縁の親戚に当たる人といっしょに入ったんだ、その家に。 確かに計画的じゃなさそうな変な増築の仕方をしていたけど、階段のない踊り場もなければ、一階の天井に扉がついているわけでもなかったし、この家よりも一回り大きいかなってぐらいのサイズだったから隠し通路を作ったら、それこそすぐにわかっちゃっただろうし、結局なかったんだ。 奇妙だったのは一部屋だけ。 ずっと締め切られていたんだろうね、ドアを開けると淀んだ空気が床に広がっていくような、そんな気がした。反対に舞い上がった埃が極小の幽霊みたいだったよ。実際、そんなものはいなかったし、中にはほとんどなにもなかったんだ。 立ち会ってくれていた依頼主さんがほっと息を吐いて、ああ、誰もいないと呟いたことを今でもよく覚えている。それでもみんな、こわごわ中に入ったんだ。 がらんとした部屋の真ん中には、古びた椅子が置き忘れられたように立ち尽くしていた。そのすぐ前に、靴跡がぽつんと一揃いとあることに気づいたのは、多分、僕じゃなかったはずだけれど、みんな同じことを思ったはずだ。 そこにいただろう人が、どこにいってしまったのかを知りたくない。 だから、その部屋から真っ先に壊したんだ。 「そのあとは、なにもなかったよ」 相槌を打ってくれていたサイモンくんが、どうしてかひっと息を呑み、僕の膝に頭を乗せていたロスが、ルーイったらなにやってんの。と困ったような顔で僕の頭を撫でた。君と会うよりずっと前のことだよ、返したところで、彼の手がスマートフォンを浚っていく。 「今日はもう、良い子で寝るんだよ。ベッドの下に注意して」と明るく言って通話を切ってしまった。
August 4, 2025 at 12:00 PM
marsgarden.bsky.social
意志を問う（スマビル）
ホラー100再放送 88/100
#marsgarden
自分のお気に入りのものを寝床に引き入れずにはいられない下宿人（事実はそうなのだけども、あちらは僕をハウスキーパーだと思い込んでいる節がある）のベッドから、それが逃亡したのはこれでかれこれ十五回目だ。 よっぽど勘が良いのか、彼の持っている前世の記憶――或いは、本性を恐れているのか。そうであっても、逃げ足がないからか、どうしてか僕のベッドにそれは逃げてくる。 傍目にはただひたすらに美しい石だ。僕の掌にはのりきらないほど大きく、周囲の色をすべてなくしてしまうほどに白い。どことなく昔、それこそ、彼と共通して持っている僕のかなしいほど懐かしい記憶にあるアーケンストーンと似ていなくもない、けれども、自ら発光はしていないからどうにか夢の代物ではないとわかる。それでもカーテンごしに朝日を反射して僕を起こすことを得意としている。今みたいに。 とりあえず、身支度を終えて、朝ご飯を用意してから寝坊が大得意な同居人を叩き起こすついでに石を返してやる。盗人呼ばわりは御免被る。 「また脱走していたよ。諦めて金庫にでも入れたら？」 古い記憶と同じくらいの燃えるような赤を髪としてもった男はずいぶんと可愛らしく唸り、僕の手首を掴んで引き寄せた。お互いに人間として生まれ、体格差はずいぶんと縮まったのに、ころりと簡単に隣に寝転ぶことになる。 「逃げ出すもののほうが面白い」 「それはそれは。そのうち砕けてしまっても僕は知らないよ」 二人分の体重で撓んだマットレス、ここを目指して金貨やらなにやらがやってくる。だからここには寝たくないんだ。シーツは毎日替えなくちゃいけないし、いいことなんてまるきりない。それでもどうして足を踏み入れるのかといえば、彼だけが僕とあの記憶を共有しうるから。たとえそれがほんの少しのものであっても。
September 1, 2025 at 11:29 AM
marsgarden.bsky.social
erla.jp/marsgarden/
シャロジョン、ワツアル・アラポル、オルイア、で３話追加しました。加筆修正のターンになったので、ゆっくりめです。
パスワード入力ページ
すきを共有しよう
erla.jp
December 2, 2024 at 12:43 PM
marsgarden.bsky.social
最後に勝つもの（ジャスサイ）
ホラー100再放送　38/100
#marsgarden
物事の頭、発端というものはいつの間にかどこかへいってしまうのものであるけれど、極々常識的な、普通の説明ができないこともない。 「多分、宣伝に予算をかけられないホラー映画なんだろうって、そういうことになっているらしいよ。だからそのもの自体が怖くてもなんにもおかしくはないんだ」 隣に座っているサイモンはリモコンを弄びながらもちょっと青ざめているから、その髪を梳くように撫でる。ぼくの執着のせいか、最近さらにふわふわになってきた気がする。 サブスクリプションに観たい映画がある、ところが最近、そのプラットホームでは冒頭に“見たら死んでしまう映画広告”が紛れているという噂があるらしい。 仮に本当なら大ごとだ。この国だけで何百何千の人が呪いで倒れることになる。滅多に出ないんだと言われても分母が大きければそれなりの数にはなってしまうだろう。みんな、テレビをスマートフォンをタブレットを庭に投げ込めー！哀れ機械の屍ができ、呪いは防がれたと思いきや、携帯ゲーム端末から再生を試みた小さな子が……とそんなところまで想像した、 が、そもそも“映画広告”なのに、潜在的なお客さんを死なせてしまったのでは意味がない。もしそうなら、“広告”ではなくてちゃんとしたお名前を名乗ってほしい。 いやいや、と脳内のボウエンが自分の顎を撫でる。 『そういう噂を流すことでお金をかけずに宣伝効果を狙ったのでは……』 と言いつつ、彼もちょっと青ざめているのだった。リビングでぼくたちを見守ってくれているパネルを裏返してあげるべきかちょっと悩む。 「でも観たい？」 「うん」 テレビ画面はもう再生画面のところまできている。 サイモンにしたって普段はここまで怯えないのだけども、きっと、書き終えたホラー小説のことが頭の片隅に残っているのだろう。そりゃあね！ となんだかくちびるが笑みの形になってしまう。あんなに怖い話を書いちゃったら、本人も怖くなっちゃうだろう。出版社さんは大喜びでもっとお願いします、とサイモンをせっついているので、怖い話収集にはまだまだ終わりが見えそうにない。 「じゃあお手伝いするよ」 「うん？」 リモコンを受け取って、再生ボタンを押す。コマーシャルが入ることを確認してから、サイモンの上に覆いかぶさって、大胆なキスをプレゼントした。 だいたいのものは愛には勝てないと決まっている。
August 7, 2025 at 11:31 AM
marsgarden.bsky.social
宴（ヤープ）
ホラー100再放送　44/100
#marsgarden
「二年じゃねえぞ、もっと前。でも、叔父さんがサスキア姉ちゃんと結婚して、今の家に引っ越して、もういろいろ揃ってたなあってぐらいのことだから、ボクもちっちゃくはなかったかも。でもまだフィンセントはいなかったから、やっぱり結構前だよ。 叔父さんちにさ、いろんなものが置いてある部屋あるって前、言っただろ？ 骨董市とかオークションとかすげえ好きなのな、叔父さん。だから、わけわかんないものごっそりあって、サスキア姉ちゃんに怒られてた。剥製とか買っちゃうし。ボクはアレ、結構好きでさ、見に行ってたわけ。亀とか、鳥とか、ワニとか、貝殻もいっぱいあってな。 で、たまにそこで寝ちゃってさ。叔父さんち広いし、あの部屋いろいろごちゃごちゃあるから、今でもたまにティトゥス捜索隊が組まれるんだ。 まあ、それは置いておいて。 ボク、その日もまた寝ちゃったのな。で、起きて、お腹空いたーって思って、部屋を出た。そしたらまた部屋があって、その部屋のドアを開けたらまた部屋があって。 最初はコレクションを並べる部屋を増やしたのかと思ったんだけど、違うなって思ったんだ。だって、そのな、置いてあるものが違ったんだ。叔父さんのコレクション、ボクが見ても面白かったり、きれいだったり、ああ、あの絵に使ったんだなってわかるようなのが多かったのに、次の次の次の部屋にはさ、全然違うものがあったから。……うーん、詳しいことは覚えてないけど、誰かが宴会したあと、みたいな？ 魚と肉とジャガイモ、果物の破片がちょっとずつ残ってて、多分四人分だったかな。 でもさあ、そんなことサスキア姉ちゃんが許すわけない。変な場所でおやつ食ったら、ボクだってお尻を引っ叩かれるし、弟子の誰かだったら追い出されちまうよ。 うわぁって思ったよ。だから、誰かに会ったら、姉ちゃんにバレるまえにこっそり教えてあげようって。で、次のドアを開けた。 同じで、ちょっと違ってた。 正餐室の半分サイズのテーブル、蝋燭立て、それからお皿、お皿、杯とカトラリー、四人分。でも、さっきの部屋と違ったんだ。こっちはもっと、うん、古そうだった。そこで始めて変だと思ったよ。いつもならしねえんだけど、走った。 そんなことしたらサスキア姉ちゃんに叱られるのはわかってたけど、こうなりゃお尻を引っ叩かれてもいいから早く誰かに会いたかった。でも、ドアを開けても開けても、宴会のあと。どんどん変わってく、皿の上にあるものの量は増えていくのに、どんどん黒くて、元がなんだったのかわからなくなる。不思議とにおいはしなかったな。虫もたかってなかったし。そんなことになったら泣いちまったと思う。だけどなんかこう、見ててゾワゾワするからさ、とにかく必死に走ってった。ばたんばたん、ドア開けるたんびにさ、部屋がちょっとずつ変わっていくんだよ。銀の盆にのっている料理がどんどん黒ずんで、形がぐずぐずになっていってさ、途中で思ったんだ。虫がいないのは、虫でさえ食えないようなものだからなのかなって。 そうして走ってくうちに、いつの間にか外に出てた。 ヨハンとヨルディがちょうど失敬した酒を飲もうとしてたところでさ、ボクが大騒ぎしたもんだから見つかちまって、二人は姉ちゃんにガツーンって叱られてたな。『こんなちっちゃい子にお酒を飲ませるなんて！』って。ボク飲んでなかったけど、そういうことにしたほうがいいと思ったんだよなあ。 あれなんだったんだろう。もし、宴会してたやつらに会っちゃってたら、どうなってたんだろ」
August 10, 2025 at 12:18 PM
marsgarden.bsky.social
お手紙　（アラポル）
ホラー100再放送　63/100
#marsgarden
そういえば、と言ったアランが、話題の順序どうしようかを考えているあいだに、ティーポットを傾けて互いのマグカップを満たした。赤みの強い色と香ばしいようなにおいとしか言いようがなくとも、あ、いいお茶だなとそんな気がする。お昼寝中のクラッカーを邪魔しないようにリビングに移り、カウチに並んでまとまったらしいそういえばの続きを聞く。 「君のポストに届くお手紙の話は、サイモンに提供しなかったのかなと思ったのだけど、あれは彼の求める怖い話ではないんだろうな」 「うん、そうだね」 聖ベルナデッタにいたころから自分の教室にポストを置いていた。愚痴でも不満でも自慢話でもなんでも入れてほしいと言ってはみたものの、そうそう使われることはないかもしれない、そういうものだと思っていたら、どの時期にも筆まめな子というのがいるのか、たまには先生をかまってあげようと思うのか、ポストはそこそこ仕事をしている。いろいろな悩みや自慢、ないしょばなしに笑ったり、悩んだり、泣いたりと僕も忙しい。そんななかに毎年夏になる前に入っている一通がある。 ノートの切れ端を入れる子もそれなりにいるけれど、その手紙はいつもきちんと定規とカッターを使って切っているようで、几帳面に映る。それでも字を書くのは得意ではないのか、まだ迷ったり転んだりする筆跡で今年楽しかったことをつらつら並べ、こう締めくくる。 『先生、またね』 宛先は僕になっているけれど、差出人の名前はない。毎年そうだ。先生としての初めての一年も、聖ベルナデッタから今の学校に移ったあとも、変わりなく。 先生という仕事をしていると、担当している子どもたちの筆跡はなんとはなしに覚えてしまうものだ。ところがあの手紙の主の字を授業や採点では見たことはなく、また、幸運なことにまだ教え子が天国にお引っ越しをしたという話は聞いていないから、その子がなにもので、どうして僕宛てに手紙をくれるのかは知らないままだ。話したことがある相手というのも、アランを除けばクラッカーだけ、これはそういう類いの話だ。 「お手紙は一通でも多く欲しいから、これは僕たちのないしょなんだよ」 言いながらマグカップの表面に息を吹きかけると、アランはちょっと困ったように、君にはまだ少し熱いから、もう一分は待ったほうがいいと思うよ、と言ってくれた。お勧めに従うあいだ、僕は隣をじっと見つめていいことになるからこの時間が好きだ。
August 20, 2025 at 11:34 AM
marsgarden.bsky.social
悲鳴（オルイア）
ホラー100再放送 78/100
#marsgarden
とある友人宅のドアが悲鳴をあげるんだよ。 何年か前のパーティーで、見せてあげるって言われたから、何人かでぞろぞろ見に行ったんだ。娯楽室のドアでね、よくあるチョコレートバーみたいな、内開きのやつ。 その友人は「よーく耳を澄ませなくても聞こえるからね、絶対」って笑いながら、そのドアを開けた。 確かに悲鳴があがったんだ。それこそ、古いホラー映画で聞くような、所謂絹を裂くような声だったんだけど、問題はその声の主がドアの向こうに立っていたことなんだよね。吸血映画だったら彼女が主役かなと思うような、古風なドレスを着込んだブルネットの女の子が裂けてしまいそうなほどに口を開けて絶叫していたけど、友人は何度も何度もドアを開け閉めして、「ほら、聞こえるでしょう？」って。そのたびにドアの向こうの彼女は身体の横で握りしめた拳を震わせながら絶叫していたみたいだった。 「……もしかして、これから行くパーティーの会場ってそこ？」 「そうだよ」 車のハンドルを握るオールは涼しげな表情で応えた。対向車のライトがその顔とドレスとを照らしだし、くちびるとスパンコールの花を輝かせて去っていく。 「そのスクリーム・クイーンは、君にしか見えなかったの？」 「あの場ではそうだったけど、そのあとで何人かが見ているね。友人は喜んでいるみたいだけど、昨日、別の日に彼女を見た友人から忠告をもらったんだ。『このところ、前と様子が違ってきている。ドアが開くのと同時に悲鳴を上げるだけじゃなくて、まずこっちを睨んでくるんだ。その場にいる人間の顔を覚えようとしているみたいに』」 ぶわりと全身の毛が逆立つ。シートと背中とのあいだに隙間が生まれることさえ厭で、身体を押しつける。シルクのシャツの肌触りさえ、この悪寒をどうにかしてはくれない。 「……くれぐれも会場で僕をひとりぼっちにしないでくれよ」 どうしようかな、と笑うくちびるは暗闇の中ではっとするほど赤く、悲鳴なんてなくとも蠱惑的だった。
August 27, 2025 at 11:21 AM
marsgarden.bsky.social
糸を張る（ジュリサン）
ホラー100再放送 92/100
#marsgarden
家のドアを開けるまえから、ああ、いるなあという気はしていた。 正解！ といように彼は僕の部屋で寛いでいた。僕、というよりは、一人になることができるうえに彼の髪について特に関心をもたず仕事の関係者でもないやつのバスルームに用があるのだろう。 また汚れきっているだろう靴を処理したあとで自分もそうしたのか、買い置きのスウェットに身を包んでいるジュリアンは、まるで昨日もそうやって僕を迎えたように片手を上げた。だからこちらもいつもの顔でデリをテーブルに置いて、シャワーを浴びに行った。 その隙にエビとブロッコリーのサラダやパナケルティを平らげられていたとしても、冷凍庫に代わりはある。 ジュリアンは予想通り、僕の夕食をつまみ食いしながら一杯やっていた。ワインだけは自分で買ってきたらしい。 「今日、足場に上ってきたんだよ」 シャワーでも洗い流せなかった光景を、どうにか口にした。 「前々から不思議に思っていたんだが、君はそういう場所が好きなのかな？」 暗にそんなわけがないだろうに、というトゲを感じる。大正解、高いところは大嫌いだとも。自前のバランス感覚なんて一番信用がおけないのだから、いつも死ぬような思いをしてあそこに上がる。命綱を確認して、ヘルメットをかぶっていても鉄骨がどうにかなったらひとたまりもない、宙づりになったら気絶することは確実、それらの危険をひとつひとつ意識しながら、地上四階でも、十階でも昇る。ウィルにも僕にも責任があるからだ。 彼の手からグラスをもぎ取り、アルコールを一気に流し込む。甘い、ような気がした。 「まあ、いろいろあるんだよ。で、今日は作りかけの五階に昇った。詳しい解説はしないけど、床になるところからまだ鉄筋が見えているような、ああいう状態はなかなか壮観だったよ」 自分たちの設計したものが現実になっていく、その過程はやっぱりうれしいものだ。僕たちは設計だけでお役御免ではないから、その幸運をああして噛みしめることができる。 僕からグラスを取り上げたジュリアンが、フォークで突き刺したブロッコリーを差し出しながら、それで？ なにがあったんだ？ と尋ねてくる。今のが前置きでしかないことは彼もわかっているんだろう。 現場で作業してくれる職人さんにはうちの社員もいれば、外部からやってくる人もいる。そんな中にはそれこそ僕らがまだプライマリーで小石を蹴っているころから経験を積んできた人もいる。そうした職人さんに見限られないような、なにかあったときに声をかけてもらえるような現場作りも、僕たちの大事な仕事だ。そうした一人であるシートンが今日は僕たちの命綱を確認してくれた。 彼はいつもこう言う。 「下を向いて、誰かが倒れていると思ったら、作業を止めて必ず確認してくれって」 「それは、当然じゃないか？」 「僕は彼ほどキャリアが長くないけど、それでも五度ほど経験してる。でもね、ジュリアン、どのときも、実際そこに人はいなかったんだ」 ふうんと、ジュリアンは意味のない声を上げた。 工事関係者というのは迷信深い、そんなようなことを思っているのだろう。どこぞのショッピングモールは教会を潰して作っただとか、遺跡かなにかが見つかれば工事は遅れるから埋め戻してしまったのだとか、あそこの地下には軍の施設があるだのそういう話以外にも、この仕事には不可思議な話は尽きない。もっとも、ジュリアンが興味を示すとすれば、構造計算書偽装事件だとか、土地売買の不正だとかそのあたりだろうけれども。 「それで？ ミスター・シートンは君にどんな教訓を？」 エビを噛みながら、ジュリアンは言う。 「どうせ幻だとあれを無視できるようになったら、それが俺たちの終わりだって。今日、久しぶりに見たんだよ。やっぱり作業を止めて確認をしたし、総点検もしたけど、なにもなかった。それでもさ、たまに怖くなるんだ。こっちが慢心したり、油断したりしたその瞬間なのか、別のタイミングなのか、そういうものを狙っているなにかが、やっぱりいるんじゃないかって」 もっと飲む？ と彼が言うからお言葉に甘えてグラス半分を流し込んだ。 「今日は僕がいてよかったね」 そう言ってにんまりするから、無視する代わりにブロッコリーも食べろよ、と返す。
September 3, 2025 at 11:21 AM
marsgarden.bsky.social
知らないままの至福　（スマビル）
ホラー100再放送　62/100
#marsgarden

やってはいけない行為をやらなかったことについて後悔している話なので、伏せます。 fse.tw/x9ch7v5U
公開範囲：だれでも | mars_gardenさんの投稿 | fusetter(ふせったー)
伏せ字をつかってネタバレ回避！あふれる想いでつながるfusetter（ふせったー）
fse.tw
August 19, 2025 at 11:24 AM
marsgarden.bsky.social
こうさぎの飛ぶ夢（ヤープとだれか）
ホラー100再放送 99/100
#marsgarden
彼はやわらかな声で話しかけてくれる。 この国の人間ではないのだろうアクセント、のんびりした調子で、どうやら彼の兄たちの近況とこのところの自分がどういう調子、なぜか最新のセックストイについてつらつらと並べ、じゃあ、またな、ハインリヒと言って帰っていく。 その声は雨のように染みこみ、とろりと自分の中に溶けていく。そうして、とうになくしたはずの輪郭を思い出し、思考を取り戻す。彼が言うのなら、自分はハインリヒだ。そんな気がしてくる。くちびるがとうの昔に滅んだように、舌もまた虫に食われてしまったけれど、喉も歯も無事であるから、どうにか彼の名前を口にしようと努力する。夜になるまであとどれくらいの時間があるだろうか。それが問題だ。 夜が来て、墓地の周囲も寝静まり、街を歩く人々も歩きながらアルコールの夢に浸ることになったなら、彼の声によく似た男がこの魔法をときにくる。一人一人、名前を呼びにやってくる。それまでここには何人ものハインリヒが埋まっている。
September 7, 2025 at 11:19 AM
marsgarden.bsky.social
✿旗を折る（アレリキ）
ホラー 5/100
#marsgarden
R18なので伏せています
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ fse.tw/8Bf8og7N
公開範囲：だれでも | mars_gardenさんの投稿 | fusetter(ふせったー)
伏せ字をつかってネタバレ回避！あふれる想いでつながるfusetter（ふせったー）
fse.tw
March 7, 2025 at 2:07 PM
marsgarden.bsky.social
もうひとり（アラポルとワツアルとジャスサイ）
ホラー100再放送　57/100
正直、長いので伏せます。
#marsgarden fse.tw/bmWpBLQx
公開範囲：だれでも | mars_gardenさんの投稿 | fusetter(ふせったー)
伏せ字をつかってネタバレ回避！あふれる想いでつながるfusetter（ふせったー）
fse.tw
August 17, 2025 at 12:50 PM
marsgarden.bsky.social
残像（バククレ）
ホラー100再放送　61/100
#marsgarden
大抵、夜を連れてくるようにクレイグはやってくる。仕事終わりに寄ることが多いからだろう。 彼は一昨年まで私の勤める大学に通っていて、無事に卒業したものの、酒を買うには年齢確認が必須な顔立ち（それでもなお店員からの不審そうな顔というおまけがつく）であるから、たまに押しかけ聴講生として勝手に潜り込んで時間を潰すことがあるらしい。教授によっては黙認しレポートに採点までしてくれるのだと人懐こい顔でクレイグは笑う。私の講義には現れないくせにだ。 気儘にやってくる彼はカウチにだらりと寝転んだ。例によってオーバーサイズのプルオーバーから、ほっそりとした白い首が覗く。私の視線を無視して世間話を始めた彼は、持ち込んだトートバッグを引き寄せて言った。 大学で教科書として使うテキストは、講義にもよるが毎年変わらないという場合もあり、学生間でお下がりをするということがままあるのだそうだ。ーー私はもちろん、新品を使っていたが。 「そんなお下がりのなかにさ、やばいテキストが出回ってるって、あんた知ってる？」 「いいや。哲学科のものなのかな？」 ううん、と彼は首を振り、教養科目を挙げた。どの学部の学生であっても履修でき、長年勤めている講師が穏やかな文化人であるから人気も高く、大教室を使っているために履修する人数は私のそれの十倍はいるだろう。 「それね、ページ番号の上にパラパラ漫画ついてるんだよ。全ページに描きこんであってさ、気味が悪い内容なんだって。なんでも、あの大学を卒業できなったやつが残したもので、パラパラするとその理由がわかるんだって。で、理由を知ると不幸になるらしいよ」 「……パラパラせずとも最後のページだけを見てもわかってしまうのでは？」 「途中とかも大事なんじゃないの？」 彼はこともなげに言ったものだが、もしアニメーションになるように一ページ一ページ、描き込まれているのなら、その労力はなかなかのものになるだろうが、手間のかけ方を間違っていると指摘せざるをえない。自分がそこにいられなくなったことを訴えたいのならもっと別のやり方があったはずだ。そう思えども、ほとんどなにも言えないまま、故郷を去った身としては人様のことをとやかく言うことはできない。 私の沈黙をどうとったのか、彼はトートバッグから本を一冊取り出した。右上の部分、ページ番号が振られている箇所ばかりが大きく膨らむように傷んでいる。 「で、これがその本です」 「返してきなさい」 ひひ、と高い声を漏らして笑った彼は、きっと何人もの学生がそうしてきたようにパラパラパラとページを繰った。 めくる、変わる、動く、黒々とした睫毛を持つ目と視線がぶつかった。
August 19, 2025 at 11:20 AM
marsgarden.bsky.social
私が悪いわけじゃない（サーマイとリフキンドくん）下
ホラー 40/100
#marsgarden
『どうしてああも暗いのか』 祖父の憂鬱そうな声が耳によみがえる。 「僕たちが来るまえ、そいつになんて言われてたの？」 先生はといえば、意外なことに面白がる素振りもないけれど、どうやら話したくてしょうがないらしいヘンリーのために先を促す。子どもの相手がうまいというよりは、すっと子どもと同じ目線になるというのが正解なのかもしれない。 「看護師のア、えっとかわいい人をさ、ノエルがデートに誘ったらどうなるかって話をしてたんですけど、急に怯えたみたいに震えだして、」 「こわいものが、やってくるって」カールが震え声で割り込んだ。「ドクターたちがドアを開けるまで、何度も何度も、こわいものがやってくる、こわいものがやってくるって言ってたのに、いまはちっとも動かない、まるで死んだみたいにさ」 ふうん、と頷いた先生は、不思議な体験に興奮しているヘンリーの肩をトントンと叩き、青ざめているカールたちの顔を順々に見やってから、いつもの通りに笑った。 「お兄さんたちが怖がっているみたいだから、もう勘弁してあげなさい、ヘンリー。看護師長には黙っておいてあげる」 「やっぱり、ミズ・ブレイズ、怒ると思いますか？」 看護師長、ミズ・ブレイズには嫌われたくないという気持ちがどんなワガママな患者さんにもあるんだろう。あちらが厳しいから、ではなくて、正しいから。 先生でさえワガママの八割が通れば満足、あちらはもう一割減らそうと挑む気持ちが向こうにあることを楽しんでいるようだった。 また肩をトントン、顔を順々に見てから、先生は言った。 「まぁ、君たちが揃ってそんな顔してると僕も困るしね。言わないであげるよ」 それから、軽い問診や様子を聞いて、病室を出た。ノエルのベッドの向こうを見られないまま。どうしてああも暗いのか、目を向けたくないのになぜだか強烈に引き寄せられるからかもしれない。 ドアが閉まり、何歩か歩き出したところで先生があーぁ、と伸びをした。オーバーサイズのシャツの袖が少し下がり、小さな手がそっくりのぞき、腕が下ろされるとともにまた隠れる。 それにしてもさぁ、と間延びした声が言った。 「勝手に来て勝手に怖がらないでほしいよなぁ」 「まあ、そうですね」 ヴィジャボードなんて使っていなかったら、きっと彼らは年の違うけれど気の合う友だちとの入院生活をいい思い出だけにできたはずだ。この件だって、いつかはちょっとしたスパイスにはなるのかもしれない。それでもあの様子ならーー、今後は部屋の隅を気にし続けることにはなるのだろう。 祖父の言葉の話をするかどうか悩みながらも、歩いていこうとした先生がぴたっと止まり、ポケットからスマホを取り出すと、中空を見てテキストを打ち始めた。最近気づいたけれども、これは恋人に慰めてほしいときの顔らしい。
March 29, 2025 at 12:49 PM
marsgarden.bsky.social
だれか（ワツアル）下
ホラー 76/100
#marsgarden
「それで懇親会から早引けを？」 アルバートさんはくすくす笑い、僕の頭を揺らした。 「……あの絵を描いたうちの一人で、しかも正式なサークルメンバーではなかった大学関係者にちょっと尋ねるだけなら詮索には入らないだろうと。それから……クイズ愛もほどほどに加減にしないと愛想尽かされるから早く帰ったほうがいいと、こっちが本題なのかな」 笑っただけのひとは僕の頭を膝から落とさないでくれているけども、確かに褒められない話ではあっただろう。珍しく二人ともがはやく帰宅できる日に、古巣に遊びに行ったのだから。 二人であれこれと家具を見繕い、日々変わっていくこのフラットに帰りたくない瞬間はない。ただ、少し怖くなる。こうしてひたすらに満ち足りることを覚えたなら、それを贅沢だと思わなくなったのなら、それこそ愛想を尽かされてしまいそうで。その不安を口にすることも恐ろしいような、それはただの甘えなんじゃないだろうか、と逡巡する時間を、このひとはきっとくれるだろうけれど。 ふわふわと頭を撫でられる。この指が描き出した夏の日を思い浮かべる。今の僕よりも若いころに観た景色を。写真はもらったのだが、まぶたの裏に焼き付けたもののほうがより本物に近いように思えた。 「詳しいことは僕も知らない。知ってはいけないと言われたから。だけど、詮索したのは三代前の先輩で、その世代が申し送りの文を変えたことは知っているよ」 「変えた？」 「『夏に描いた絵に例の人物が現れても、けして詮索してはいけない』 元はね、『夏に例の人物が現れたら描かなくてはいけない』だったんだ。その話はもうずっと前、少なくともそこからさらに二十年は前から申し送りがされていたらしいよ」 絵画サークルの逗留先のホテルとは、親子四代分の付き合いがある。ならば、最初の年からそうだったと見るべきかもしれない。例の人物についても、親子であるならまだしも。孫、曾孫まで似ていて、全員が四十代のときにしか姿を見せないのではいよいよ奇妙になってくる。 「なぜ、変わったと思います？」 「描けと強制されることを嫌う人がいてね、彼女を追いかけた。そうして考えを改めるようなことがあったからと聞いているよ。でもそのままを真実を伝えてしまったら、みんな怖がって彼女を描かなくなってしまう。描かなくなったときにそれが起こるからって」 「それ？」 「僕もそれとしか知らない。その当時の先輩たちはみんなそれぞれ各大学を卒業したけれど、誰もこの地で暮らしていないんだ。ホームカミングや横の繋がりで尋ねていっても、その年の旅行に参加した三十六名の卒業後はまるでわからない」 「……そんなことが、ありうるんでしょうか」 思わず改まった口調になる僕に、確かにねと少し笑った。携帯電話が身近ではなかったころの話ではあるから、と。でも、と空気が変わる。 「そうであってもおかしくないって、そんな気はしているんだ。僕もね、覚えていないんだ。カンバスに引き写せるほど見たのに、彼女のことをまるで覚えていない。 もしかしたら言葉を交わしたかもしれないのに」 え？ と声を漏らすと同時に彼の指を握っていた。あたたかくて、小さい、深爪気味の爪をちょこりと乗せた、僕にとって最愛の形。 目に焼きつけてきたあの絵。今の学生たちと変わらない年ごろの彼が描いた夏の景色、池の畔に佇んでいる黒い服の女性は背を伸ばしていたが、どうにもこちら側を気にしているような、そんな素振りをしているようにも見えた。 「きっとあちらが現状維持を望んでいるんだろうね。このままずっとあそこに、あるいは誰かの記憶に」 やわらかな声はそう結んだ。
April 23, 2025 at 11:45 AM
marsgarden.bsky.social
宵闇集会（ワツアル）
ホラー100再放送 90/100
#marsgarden
そういえば、とお皿を拭いてくれていたパトリックがこちらを向いた。 「サイモンさんの怪談収集はもう完了したんでしょうか」 「今の原稿のことはわからないけど、収集自体は続けているんじゃないかな。なにか思い出したのかい？」 「まあ、ちょっと」 ほんの少し口ごもるから、お茶を淹れながら待つ。パトリックとサイモンとのあいだにはちょっとした緊張関係がある、とはポールの言ったことだ。 『サイモンはお兄ちゃんをとられるみたいでムッとしているし、パトリックはパトリックでいろいろあるんだよ』と。なら、同じような間柄であってもアランとサイモンのあいだにもそれが生じるのかといえば、そうでもない。どういう要因でそうなるのかは本人同士が伏しているから謎のまま。険悪なムードとは言わずとも、奇妙な遠慮が二人にはあった。 愛校心溢れるマグに砂糖を入れてから渡すと、彼は意を決したように口を開いた。 「毎年冬休みの前あたりに怪談を語る会が開かれるでしょう？」 季節柄そうなるのだろう。なにせ古い学校だ。学部生のみならず院生の嘆きも嫉妬も悦びもあの壁に染みついていそうなものであるし、ジェントル・ゴーストから少し血腥い話、それこそ絵画サークルについての密やかな申し送りのことも、その会自体も主催は秘密結社であるだのと噂が噂を作っている。どこの大学にもそんな会の二つや三つはあるだろう。僕の赴任したハイスクールのいくつかにも似たようなあったぐらいだ。 「語られざる話って、アルのころからありました？」 「ううん、僕は聞いたことがないな。君の世代の話なのかな？」 僕も伝聞ですけど、同期生の後輩がその場に居合わせたらしくて、とパトリックは少し呼吸を整えてから続けた。 「その話し手はこんな前置きをしたそうです。〝これはけして語ってはいけない話なんだけど、お行儀がいいばかりの紳士淑女ではない君たちにはぜひ聞いてほしい〟と。 とある陰謀の話で自分は別の大学の先輩から聞いたんだとここまで話したところで、参加者は全員前のめりになる、さあ、どんな話が聞けるんだろう？ その話し手は軽く咳払いをしてみんなを見渡して、意を決した素振りで語り始める。〝これはけして語ってはいけない話なんだけど、お行儀がいいばかりの紳士淑女ではない君たちにはぜひ聞いてほしい〟周囲に驚きが広がる、ところが、話し手である本人の顔にもまた同じ表情が浮かんでいて。慌てた様子の話し手は酒でくちびるを湿らせ、もう一度咳払いをして〝これはある陰謀の話で〟ところが話は一向に進まない、話し手だけが一時停止と巻き戻しをくり返しているように、いいえ、そうではないんでしょう、話し手の顔には焦りが汗になってどんどん流れていき、ついにはそこから血の気が引いて倒れてしまったらしくて。救急車を呼ぶ騒ぎになって、会はお開きに。翌日、念のために乳胃していた話し手を見舞いに行った後輩がいったいどうしたのかと尋ねると、話し手はげっそりした顔でこう答えたそうです、〝やっぱりあれは語っちゃいけなかったんだ〟」 彼につられて、僕もまたお茶を飲む。舌を焼くような熱に面食らうと、あー！ と慌てた声と共に水の入ったグラスを渡された。ありがたくひりひりした口内を冷やすと、ちょっとしょげたような顔がこっちを見ている。 「……話さなきゃよかった」 「ううん、これは僕が自分の猫舌を忘れただけ。まあ、君の話が上手だったからっていうのもある。マイクなしでも大講堂でいけそうだね」 言いながらまたマグを持ち上げようとすると、大きな手に制された。あなたはまだダメといつになく強い目に窘められるから、大人しくビスケットを囓り、欠けたそれを彼のくちびるにあてがった。最近ますます逞しくなってきた彼は、きょとん目を見張ったあとでおずおずと口を開ける。 （参考：吉田悠軌『教養としての最怖怪談　古事記からTikTokまで』）
September 2, 2025 at 1:07 PM
marsgarden.bsky.social
お会いできて光栄です　（モブベネヤープとオルイア）
ホラー100再放送　43/100
#marsgarden
ランチが消化できずに居座っているような顔で、ヤープが画面の向こうのオールに言う。 「今日、変なことがあってなあ」 多分、ドアノブを掴み損ねたからだとは本人の言で、実際なにがおこったのかはわからない。ただ、ラジオ局で臨時の打ち合わせをした帰りだったから、いつもとは別の部屋を使い、いつもとは違うルートで外に出ようとしたのだという。 「ドアノブを掴んだときにさあ、なんかこうずるっとした感触があったと思ったら、すり抜けちゃって、すっころんだんだ」 わ、わ、と悲鳴ごと転がったヤープは見慣れない場所にいたのだという。 「場所ってか、部屋？ 黄色っぽい壁がずらーーーって続いてて、埃臭いカーペットがずーーーっと続いてるなあってぐらい物がねえの。ほとんどなんも。オールもイアンもラジオ局来たことあるだろ？ あそこにそんな部屋あるわけなだろ？ だって、ラジオ局って、ほら、機械とか記録とか人とかでいっぱいいっぱいだし、あそこ、シニセ？ 古いけど、お掃除頑張ってるからあんな埃っぽくないし」 夢でも見ているのかと思ったヤープは、とりあえず先に進むことにしたそうだ。そこでスマホで写真を撮ろうとか、助けを求めようとしないあたり、肝が据わっているといえばそうなのだろうが、こいつを無事にここまで育てた親御さんの苦労が忍ばれる。いいや、上の息子たちもあの調子なのだから、いかにも素朴そうなあの二人こそが大物なんだろう。 とにかくヤープは先へと進んだ。 ドアとドアのあいだをひたすら歩く、そんな道行きだったという。 「窓もあるんだよ、でもさ、窓の向こうも部屋なの」 時折、天井の高さも変わり、遠くから地響きに似た音が足を揺らしていたというが、本当のところはわからない、というのが本人の言だ。 そんな中を十五部屋（窓から脱出を図ること二回）ほど過ぎたところで、ようやく人間に会ったのだという。 「普通の、うーん、イアンより十ぐらい上のオジサンでさ、あ、もうちょっと太って年とって髭伸ばしたら、この国のほら、ファーザークリスマスになれそうな感じ？ シンタクラースになるにはちょっとなんか足りないなっていう。眼鏡かけてて、赤いチェック？ をもっと斜めにぐちゃーってしたような柄の帽子かぶってて」 とにかくそんな男がヤープを見るなり走り寄ってきてこう言ったのだという。 『お会いできて光栄です』 え、と思ったのだそうだ。 「ボクのファンかなって。でも違うみたいで」 手を掴まれて、さらに言われた。 『お会いできて、光栄です』 まるで吹き替えを見ているようだったそうだ。 「本当は別のことを言いたいんだけど、なんか違うっていうかさ。『お会いできて光栄です』に似てる別の言葉なんじゃないかなってしばらく二人でいろいろ言い合ったんだけどさ、ダメだったみたいで」 『お会いできて光栄です』『お会いできて光栄です』 くり返すごとに男は語気を荒げ、叫び出すとどこかへ言ってしまったのだという。 道連れを失ったヤープは呆然とその背中（オールがこの前のコレクションで着ていたのと似た柄のジャケットだと言っているからには、ずいぶんと感性が若い人なんだろう）の消えたほうを眺めていたそうだが、そこで―― 「電話かかってきたんだよ」 「誰から？」 ローマにいるオールはのんびりと尋ね、塗ったばかりの爪をこちらに見せた。似合ってるよ。 「あのひと」 ちょっと照れたような調子からすると、どうやらこのおかしな話はここに着地するための前置きだったらしい。そして話は呆気ない終わりに向かう。電話しながら、いくつかのドアを抜けたところで、元の部屋にたどり着きましたとさ。 「多分、あのひと、ボクを驚かせたかったんだ。金持ちってすげえのな」 めでたしめでたし、ということらしい。 今の話よりも得体の知れないストロベリー＆オレンジゼリーミックスなるものを飲んで、まるで大きな手に叩かれたような顔をしてから、なにこれ、と言った。おまえが買ってきたんだよ、僕じゃない。 勝手に僕のお茶を失敬するからには、相当なお味なんだろう。うわあっと悲鳴めいたものを上げてから、ヤープはもう一度オールに向き直った。 「ずいぶん昔にさ、そんなことあった気がするんだよぁ。ボクがまだちっちゃいころに」 やっぱり消化の悪そうな顔でヤープが言うものだから、思わずこう声をかけた。 「ちっちゃいころって、つまり、二年ぐらい前とか？」 ぶうっと膨れた顔が言う。もっと前！
August 10, 2025 at 12:11 PM
marsgarden.bsky.social
そこにはいません（ジュリサン）
ホラー100再放送 70/100
#marsgarden
普段なら僕の来訪に『ああ、いるなあ』ぐらいの態度をとる彼が珍しく目を見開いたのは、二十二時を回ったあたりだった。彼の帰宅時間にしてはひどく遅く、とうとう社内の誰かと恋愛関係に踏み切ろうと無駄な駆け引きを始めたのではないかと気を揉んでいたが、どうやら杞憂のようだ。今日のサンディときたら、僕と同程度にくたびれている。 「なにかあった？」 「君こそなにかあったような顔をしているけど」言いながら、彼はバスルームに向かい、とりあえず帰宅後のルーチンを始めたから、僕のほうでもＰＣをスリープさせてその様子を窺うことにする。 キッチンに立つ必要がある。湯上がりには冷たいものが、場合によってはお茶が必要かもしれない。どうやら今日はそういう日のようだ。 シャワーを浴びてきて赤いほっぺたになったサンディは、僕の注いだミネラルウォーターのグラスに不審そうな目を向けつつも、それを飲み干した。 「ちょっと計算が合わなくて残業をしていたんだ。もう一人だったから戸締まりをして帰ろうって、あちこち確認して、セキュリティをかけたんだよ」 倉庫を改修した彼らのすてきなオフィスは設立してすぐ連日泥棒に入られるということがあったために、セキュリティには気を遣っている。僕も確認したことがあるが、それなりにややこしい。手続きの煩雑さこそ防御力なのだろうが、システムはそう洗練されたものでもない。 「でも、エラーが出る。中に人がいるって」 「いないんだろう？」 スコッチを傾けながら尋ねる。少量でもかっと喉を焼いた。 サンディの返答は簡素だ。いない。絶対。 「仕方がないから、警備会社さんに電話して、僕は帰ったんだよ。入れ替わりに確認に来てくれた人からの電話をさっき駐車場でとったらさ、スライドドアが全開だったって言われた」 「引き戸ってあの？」 「……そう、あの」 同じ絵が僕とサンディの頭に浮かんでいる。倉庫だったころの名残、正面の扉を除けば最も目立つはずのスライドドアをありとあらゆる最終チェックをこなすサンディ・ホフマンが見逃すとは考えづらい。 なら？ 答えは精々二つになってしまう。また泥棒が入ったか、金銭を目的としない何者かがずっとそこにいたのか。一人で作業するには広すぎるあのオフィス、キングスクロスの夜を呑み込んだような真っ暗が脳内にやってくる。 「飲んだらいいよ」 自分のためにと注いだスコッチを彼に押しつけた。 「いやだよ」 「明日は休みだろ、飲まないとやってられないじゃないか。僕もそういう気持ちなんだ」 「そうやって君がぱかぱか開けるから、最近空になるのが早いんだ」 「いつもありがとう、僕のために」 そもそもこのフラットに僕がいることも限りなく不法侵入に近いのだが、その事実については彼は目を瞑ったままでいる。それがなぜなのかは、未だに訊けないでいる。
August 23, 2025 at 11:44 AM
marsgarden.bsky.social
赤い影（ヤープとオルイア）
ホラー100再放送 73/100
#marsgarden
部屋にやってきたヤープはどうしてか僕と椅子の背もたれの間に挟まる。高すぎるような体温がじんわりと伝わってきて、正直熱い。 「なんだよ、デート帰りのくせに」 「そう、ボクはデート帰りぃ。あのひとはこれからお仕事だからさ、イアンがオールの言う通りいいこにしているか見に来てやったんだ」 「ランチをたかりにきたの間違いだろ」 違うぅという間延びした声が顎といっしょに背中に刺さった。タイプミス二回目。こいつ、デートではしゃいで寝てないんじゃないか？ 顔を見ようとすると、刺さった顎に邪魔される。指に触れるのはやたらやわらかな髪で、ふわふわのそれが柑橘のようなココナッツのような香りを立ち上らせた。とりあえず、おでこを探す。熱はない。くすぐったそうな笑い声をあげたヤープはとあるホテルの名前を挙げた。 「イアンも知ってるだろ、あそこ」 「ああ、パーティーで何度かね」 「オール抜きの」 「うん」 ロンドンに住まいを持っていても、ホテルは大好き――僕がちんまりする（世間的には萎縮していると言う）のがかわいいから、なおのこと好きになったのだそうだ。まったく、いいご趣味だ）なオールだけれど、件のホテルには行きたがらない。そこでのパーティーに誘われても断るから、オールを呼びたければ別のホテルに、という話を知っているか知らないかで相手の力量がある程度計れるほどだ。 どうしてなのかといえば、上階から見下ろしてくるやつがいるのだという。屋内にある池、そこには要るんだか要らないんだか微妙な太鼓橋が架けられていて、そこの真ん中に至ったぐらいで、目が合うのだと言っていた。 『階はいつも違う。でも、必ず目が合う。ちいさくて、真っ赤ななにかだよ』 目が合うというぐらいなのだから、生き物の形をしていると思うのだけど、とオールはそんなふうに言っていた。もう何年も前、それこそオールがモデルとしてデビューするよりも前のことなのだそうだ。 僕自身が不思議なものを目撃したことはないが、その場所でホテルの従業員に呼び止められたことはある。呼び止めたわりには用事があったわけではないらしく、声を掛けてきた当人たちまで不思議がっていたから、なんだかんだで上階に潜むものを調べている暇がなくなるのだった。 「昨日そこ行ったんだけど」背中でかくかくと顎を押しつけながら、ヤープは続ける。「上からなんか降ってきたんだよぉ。スタッフの人たち頑張って探したらしいけど、なーんも落っこちてなかったって、池は大荒れだったけど。音だけが降ってきたのかなあ」 「……なにそれ」 「さあ。まあ、あのひとが気にしなくていいって言うから、ボクは気にしないけどぉ。なあ、イアン、今日のランチはめっちゃ脂っぽいのにしよ！ お上品じゃないの食べたい！」 「……顎でガクガクしてくるやつとはランチしない」 ええ、ここちょうどいいんだもん、とだだをこねるから、片腕を伸ばしてくすぐってやる。
August 25, 2025 at 11:44 AM
marsgarden.bsky.social
erla.jp/marsgarden/
フィンレン3話、モブベネヤープ2話です。
パスワード入力ページ
すきを共有しよう
erla.jp
December 18, 2024 at 11:57 AM
marsgarden.bsky.social
そのこどこのこ、このこはどのこ（アラポルとサイモン）上
ホラー 33/100
#marsgarden
そのこどこのこ、このこはどのこ　（アラポルとサイモン） 怖い話ってわけでもないのだけど、六歳ぐらいのときだったかな、家族旅行で、ちょっと古いホテルに泊まったんだ。廊下にあれこれと美術品が飾られていたのに、不思議とがらんとして見えるところだったよ。誰かが隣にいるのに、突然ひとりぼっちになったような気持ちになるような。 ううん、実際一人になったらしいんだよ。僕じゃなくて、アルなんだけど。 一人で廊下に立っていたら、背中にどんっとぶつかられたんだって。自分と同じ年頃の女の子だったって。ブロンドの髪を眉の上でまっすぐ切り揃えた、ぱっちりと目の大きな子でね、くちびると同じぐらい赤いドレスを着ていたって。その子はよたよたしながら、アルに、「ごめんね、急いでいるから」って早口に言って、やっぱりよたよたしながら追い越していったから、心配したアルはその背中に、大丈夫？ って声をかけようとして、気づいたんだ。 よたよたする理由に。 もうアルよりも二ヤードぐらいは先に進んでいるのに、爪先がこっちを向いていたんだよ。裸足の爪先、棒みたいな脚、胴体はこっちを向いたまま。頭だけがあっちを向いていて、身体を急かしている。そんな具合だった。 叫んだのかもしれない、気絶したのかもしれない。うん、そこのあたりはわからないんだって。 そのあとのことで僕が覚えているのは、部屋に戻ってきたアルが僕に抱きついて寝たってことぐらい。 電話の向こうの従弟（互いにそういうことにしている、続柄はもっと面倒だけど、感覚的には従弟だ）はふうっとため息を吐いた。作家として成功している彼にはベタな話かもしれないし、サイモンは昔からアルに懐いているから、もう聞いている話だったかもしれない。これ以外に怖い話といわれても、僕にはもうお馴染みになった双子トリックめいたものしかない。僕やアルはいないはずのところで目撃されているようだし、その中にはサイモンまで含まれてしまうことがあるから。 「アルからも話を聞いたのだけど」 「あ、やっぱり」 でも、とサイモンは言い淀む。 「女の子の向きが逆みたいで。アルは『女の子はこっちをじっと見ながら後ろ向きに進んでいくからふらふらしているんだと思ったら、身体は前を向いていたみたいで』って。なによりね、」 足下でうつらうつらしているクラッカーが僕の靴の上にいよいよ体重をかけてくる。傾きかけの陽射しがその体を甘いチョコレートみたいな色にしているから、アランが帰ってきたら脱出を手伝ってもらってお茶にしたいな、そんなことを考えていると、サイモンの言葉を捉え損ねてしまった。ごめん、なんだって？ 「アルはそれをポールの体験談だって言っていたんだよ、急にポールがいなくなったから探しに行って、廊下で小さくなっているのを見つけて、ベッドに引っ張っていったんだって。それでその、『頭が後ろ向きの女の子とずっと目が合っていて』って話を聞いたって」 「え？」
March 26, 2025 at 11:40 AM