大陸四部
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そのへんのことは、来年刊行予定の鼎談本で詳しくしゃべりました。
ちなみに、海軍が一般向けに出す予定だった大東亜戦争公刊戦史の執筆を委嘱したのは、吉川英治。
ちなみに、海軍が一般向けに出す予定だった大東亜戦争公刊戦史の執筆を委嘱したのは、吉川英治。
山岡荘八「アラカン山脈の鬼」『大衆文芸』1949年11月号
↓
服部卓四郎(藤原岩市執筆)『大東亜戦争全史』1953年
↓
成田利一「運命の会戦」『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』1954年
↓
服部卓四郎閲(監修)・秋永芳郎著『物語太平洋戦争2 ビルマ大ジャングル戦』1956年
↓
伊藤正徳『帝国陸軍の最後3 死闘編』1960年
↓
『ビルマ戦線 : 歩兵第五十八連隊の回想』(佐藤・河田31D長の「序にかえて」、宮崎、福永58i長の「序」あり)1964年
大木毅先生が、山岡は戦時中陸軍から戦後発行予定の「大東亜戦史」の執筆を依頼されていて、それを元に戦後いろいろ出したと言っていたが...
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服部卓四郎(藤原岩市執筆)『大東亜戦争全史』1953年
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成田利一「運命の会戦」『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』1954年
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服部卓四郎閲(監修)・秋永芳郎著『物語太平洋戦争2 ビルマ大ジャングル戦』1956年
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伊藤正徳『帝国陸軍の最後3 死闘編』1960年
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『ビルマ戦線 : 歩兵第五十八連隊の回想』(佐藤・河田31D長の「序にかえて」、宮崎、福永58i長の「序」あり)1964年
大木毅先生が、山岡は戦時中陸軍から戦後発行予定の「大東亜戦史」の執筆を依頼されていて、それを元に戦後いろいろ出したと言っていたが...
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山岡荘八「アラカン山脈の鬼」『大衆文芸』1949年11月号
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服部卓四郎(藤原岩市執筆)『大東亜戦争全史』1953年
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成田利一「運命の会戦」『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』1954年
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服部卓四郎閲(監修)・秋永芳郎著『物語太平洋戦争2 ビルマ大ジャングル戦』1956年
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伊藤正徳『帝国陸軍の最後3 死闘編』1960年
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『ビルマ戦線 : 歩兵第五十八連隊の回想』(佐藤・河田31D長の「序にかえて」、宮崎、福永58i長の「序」あり)1964年
大木毅先生が、山岡は戦時中陸軍から戦後発行予定の「大東亜戦史」の執筆を依頼されていて、それを元に戦後いろいろ出したと言っていたが...
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服部卓四郎(藤原岩市執筆)『大東亜戦争全史』1953年
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成田利一「運命の会戦」『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』1954年
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服部卓四郎閲(監修)・秋永芳郎著『物語太平洋戦争2 ビルマ大ジャングル戦』1956年
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伊藤正徳『帝国陸軍の最後3 死闘編』1960年
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『ビルマ戦線 : 歩兵第五十八連隊の回想』(佐藤・河田31D長の「序にかえて」、宮崎、福永58i長の「序」あり)1964年
大木毅先生が、山岡は戦時中陸軍から戦後発行予定の「大東亜戦史」の執筆を依頼されていて、それを元に戦後いろいろ出したと言っていたが...
山岡荘八「アラカン山脈の鬼」『大衆文芸』1949年11月号かもしれない こっちは遠隔複写サービス使わないと見れないか...
山岡荘八「アラカン山脈の鬼」『大衆文芸』1949年11月号かもしれない こっちは遠隔複写サービス使わないと見れないか...
おそらく宮崎を高く評価する論の初出は、服部卓四郎(担当部分:藤原岩市)「大東亜戦争全史」(鱒書房、1953年)と「秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ編」(富士書苑、1954年)ではないだろうか
なお再編集前の「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」(1954年)には成田利一記者による宮崎高評価記事はない
「宮崎少将の犠牲的敢闘」p.225
「独り6月22日以来20日間に亘って消息を絶っていた宮崎支隊は、支隊長以下一丸となり、全患者を擁し、敵中を突破しつつフミネ南方に後退してきた。(中略、33Dの遅滞戦闘)この毅然たる行動は全軍を感動せしめた。」p.227
服部卓四郎『大東亜戦争全史 第3巻』(続)
なお再編集前の「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」(1954年)には成田利一記者による宮崎高評価記事はない
「宮崎少将の犠牲的敢闘」p.225
「独り6月22日以来20日間に亘って消息を絶っていた宮崎支隊は、支隊長以下一丸となり、全患者を擁し、敵中を突破しつつフミネ南方に後退してきた。(中略、33Dの遅滞戦闘)この毅然たる行動は全軍を感動せしめた。」p.227
服部卓四郎『大東亜戦争全史 第3巻』(続)
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おそらく宮崎を高く評価する論の初出は、服部卓四郎(担当部分:藤原岩市)「大東亜戦争全史」(鱒書房、1953年)と「秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ編」(富士書苑、1954年)ではないだろうか
なお再編集前の「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」(1954年)には成田利一記者による宮崎高評価記事はない
「宮崎少将の犠牲的敢闘」p.225
「独り6月22日以来20日間に亘って消息を絶っていた宮崎支隊は、支隊長以下一丸となり、全患者を擁し、敵中を突破しつつフミネ南方に後退してきた。(中略、33Dの遅滞戦闘)この毅然たる行動は全軍を感動せしめた。」p.227
服部卓四郎『大東亜戦争全史 第3巻』(続)
なお再編集前の「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」(1954年)には成田利一記者による宮崎高評価記事はない
「宮崎少将の犠牲的敢闘」p.225
「独り6月22日以来20日間に亘って消息を絶っていた宮崎支隊は、支隊長以下一丸となり、全患者を擁し、敵中を突破しつつフミネ南方に後退してきた。(中略、33Dの遅滞戦闘)この毅然たる行動は全軍を感動せしめた。」p.227
服部卓四郎『大東亜戦争全史 第3巻』(続)
豊田譲にしろ土門周平にしろ伊藤佳一にしろ、宮崎回想と58i回顧録をベースにしている関係上盛られた話もそのままアテにして、「保守派」としてインパール作戦を擁護したいが牟田口決死擁護は無理筋ゆえに宮崎を上げ→佐藤(と高木)下げ→牟田口上げに持っていこうとした結果あれになってる印象
豊田譲にしろ土門周平にしろ伊藤佳一にしろ、宮崎回想と58i回顧録をベースにしている関係上盛られた話もそのままアテにして、「保守派」としてインパール作戦を擁護したいが牟田口決死擁護は無理筋ゆえに宮崎を上げ→佐藤(と高木)下げ→牟田口上げに持っていこうとした結果あれになってる印象
土門周平の宮崎繁三郎推しは架空戦記で主人公にしちゃうレベルまで飛び出している(土門「重慶進攻作戦 宮崎少将、突進す」『太平洋戦争のif』)ので、豊田譲による評価と同じぐらいアテにしてはいけない
豊田譲にしろ土門周平にしろ伊藤佳一にしろ、宮崎回想と58i回顧録をベースにしている関係上盛られた話もそのままアテにして、「保守派」としてインパール作戦を擁護したいが牟田口決死擁護は無理筋ゆえに宮崎を上げ→佐藤(と高木)下げ→牟田口上げに持っていこうとした結果あれになってる印象
土門周平の宮崎繁三郎推しは架空戦記で主人公にしちゃうレベルまで飛び出している(土門「重慶進攻作戦 宮崎少将、突進す」『太平洋戦争のif』)ので、豊田譲による評価と同じぐらいアテにしてはいけない
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