アイコンは長女作。ヘッダーのねこさん(やぶにらみ)がモデルです。
「私」が「私」でなくても、と言う十郎兵衛がいる。
近代的「自我」の反対にある、それらの、一方の煌めきと、一方の恐ろしさを
SNS世界において、複数の「私」を持つ私たちは、より一層それらを深く知らしめられるのだと思う。
#大河べらぼう
これは、とても「現代」へヒントを与えてくれるテーマだと思う。
ひとは、このはざまを生きたいのではないかなぁ。なんてことをも思う。
#大河べらぼう
ああ、ああ!最高のラストだったなぁ…!
「屁」を踊るのは、そこにまだ魂があるから。その魂を呼び戻せると思うのは、まさに冒頭で歌麿が写楽プロジェクトについて言ったように、「私」が溶けてひとつの主体へと一体化しているがゆえだ。
「他者(他者ではない)」は、「私」なので、「私」が強ければ呼び戻せるのだ。
-
さて、「屁」踊りと春町先生、を思い出す。半年前の自分の投稿を読んで、この物語のラストシーンを思う。すでに明かされていたのだな。
屁の持つ「かばね」というへん、かばねに「生」で「よみがえる」だそうで。それはまさにこのラストシーンだ。
「私」が「私」でなくても、と言う十郎兵衛がいる。
近代的「自我」の反対にある、それらの、一方の煌めきと、一方の恐ろしさを
SNS世界において、複数の「私」を持つ私たちは、より一層それらを深く知らしめられるのだと思う。
#大河べらぼう
完全なる「悪」が政治の側にある場合、文化が手にいれることのできる「世界」についてだ。
これを、例えば「悪」の対義語としての「正義」として可視化するのはおかしい。
秩序でもルールでも違う。人情味でももっと違う。
ならば何であっただろうか?
この物語の、この世界の、「悪」を滅ぼした先の、
未来へつながる、たくさんの豊かすぎるそれらは、何と呼べば良いのであろうか?
この答えは、この物語の重要な要素であると思う。観た人々が、これについて考えることが、この物語を受け取る意味になると思う。
#大河べらぼう
完全なる「悪」が政治の側にある場合、文化が手にいれることのできる「世界」についてだ。
これを、例えば「悪」の対義語としての「正義」として可視化するのはおかしい。
秩序でもルールでも違う。人情味でももっと違う。
ならば何であっただろうか?
この物語の、この世界の、「悪」を滅ぼした先の、
未来へつながる、たくさんの豊かすぎるそれらは、何と呼べば良いのであろうか?
この答えは、この物語の重要な要素であると思う。観た人々が、これについて考えることが、この物語を受け取る意味になると思う。
#大河べらぼう