こくり
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猫と暮らしたいおとな(20↑)寒いのきらい。
アイコンは長女作。ヘッダーのねこさん(やぶにらみ)がモデルです。
Reposted by こくり
「私」が溶け合う、屁踊りの一方に
「私」が「私」でなくても、と言う十郎兵衛がいる。

近代的「自我」の反対にある、それらの、一方の煌めきと、一方の恐ろしさを
SNS世界において、複数の「私」を持つ私たちは、より一層それらを深く知らしめられるのだと思う。

#大河べらぼう
べらぼうは、とてつもなく現代的な眼を一方で持ちながら、最終的に、「近代的自我」が溶け合っている「封建的 私」を肯定する物語だったなぁ、と、改めて思う。
これは、とても「現代」へヒントを与えてくれるテーマだと思う。
ひとは、このはざまを生きたいのではないかなぁ。なんてことをも思う。

#大河べらぼう
#大河べらぼう

ああ、ああ!最高のラストだったなぁ…!

「屁」を踊るのは、そこにまだ魂があるから。その魂を呼び戻せると思うのは、まさに冒頭で歌麿が写楽プロジェクトについて言ったように、「私」が溶けてひとつの主体へと一体化しているがゆえだ。
「他者(他者ではない)」は、「私」なので、「私」が強ければ呼び戻せるのだ。

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さて、「屁」踊りと春町先生、を思い出す。半年前の自分の投稿を読んで、この物語のラストシーンを思う。すでに明かされていたのだな。

屁の持つ「かばね」というへん、かばねに「生」で「よみがえる」だそうで。それはまさにこのラストシーンだ。
December 14, 2025 at 6:09 PM
Reposted by こくり
あとすっごく重要だと思うのは、
完全なる「悪」が政治の側にある場合、文化が手にいれることのできる「世界」についてだ。

これを、例えば「悪」の対義語としての「正義」として可視化するのはおかしい。
秩序でもルールでも違う。人情味でももっと違う。

ならば何であっただろうか?
この物語の、この世界の、「悪」を滅ぼした先の、
未来へつながる、たくさんの豊かすぎるそれらは、何と呼べば良いのであろうか?

この答えは、この物語の重要な要素であると思う。観た人々が、これについて考えることが、この物語を受け取る意味になると思う。

#大河べらぼう
December 14, 2025 at 4:57 PM
やっぱり全然違うね!電器屋さんが「パナはドライヤーというより美容家電ですから」と言ったとおり。
December 13, 2025 at 11:29 PM
乾かす時間がすごく短いし、翌朝の髪の手触りが全然違う。スキンモードはよくわからないけどとりあえず1分当ててます。今のところ、買ってよかった。
December 13, 2025 at 11:58 AM