本書は著者が『壬生義士伝』を執筆するに至った経緯、登場人物、取材時のエピソードなどを興味深く収録していて、なかなか読ませます。原作をまた読んでみたくなりました(写真は京都壬生寺近くにある新選組屯所があった八木邸)。 #浅田次郎 #新選組読本 #文春文庫 #中井貴一 #吉村貫一郎 #滝田洋二郎 #盛岡 #京都 #壬生寺 #八木邸 #石割桜
総会終了後は盛岡駅前の「ぴょんぴょん舎」で懇親会を行い、旧交を温めました(写真は宮沢賢治が愛したJR釜石線の岩根橋、フェルボイポント=鉄道橋というエスペラント愛称がついています。 #エスペラント #ザメンホフ #ポーランド #宮沢賢治 #岩根橋 #釜石線 #盛岡 #ぴょんぴょん舎
この塾は福沢諭吉の慶應義塾や中村敬宇の同人社と並び東京府下の三大塾と称されました。現在は二松学舎大学として存続しています。夏目漱石や嘉納治五郎等が二松学舎に学びました(写真は倉敷市美観地区)。 #倉敷 #三島中洲 #二松学舎 #山田方谷 #夏目漱石 #嘉納治五郎
原敬は陸奥宗光に才能を見出された人でした。陸奥の下で外交官としての手腕を磨きました。陸奥の死後は遺志である藩閥政治を打倒して、東北出身者としては初めての内閣総理大臣に就任しています(写真は盛岡大慈寺にある原敬の墓)。 #津本陽 #叛骨 #陸奥宗光の生涯 #潮出版社 #紀州藩 #不平等条約 #坂本龍馬 #勝海舟 #原敬 #盛岡 #大慈寺 #海援隊 #亀山社中 #長崎
中でもラストシーンが秀逸。大ヒットとなったのは、岩手出身奥寺佐渡子のていねいな脚本の力も大きいのではないか。改めてそう思いました。 #吉田修一 #国宝 #李相日 #吉沢亮 #横浜流星 #奥寺佐渡子 #渡辺謙 #高畑充希 #寺島しのぶ
クラボウは明治21(1888)年代官所跡地に倉敷紡績所として創立されました。初代社長は大原孝四郎で、大原美術館を開いたのが二代目の孫三郎です。当時としては最も近代的な紡績工場でした。昭和44(1969)年、創立80周年記念事業として建設されたのが倉紡記念館です。倉紡記念館は当時の紡績機械や創業時の文書などが詳細に展示されていて、クラボウの現在までの歩みをたどることができます。 #岡山 #倉敷 #倉紡記念館 #クラボウ #大原孫三郎
倉敷で唯一の薬屋として誕生した林源十郎商店ですが、第8代当主林孚一は幕末から明治維新にかけ勤王の志士を支援した他、頼山陽と交流がありました。 #倉敷 #広島 #エバルス #林源十郎商店 #頼山陽
美観地区の中心的な存在が大原美術館です。昭和5(1930)年に設立。地元の実業家である大原孫三郎の依頼により、洋画家の児島虎次郎が収集した西洋の名画などが展示されています。孫三郎は倉敷紡績の二代目で、企業を経営するかたわら病院や研究所など公益性の高い事業を推進したほか、虎次郎などの画家を支援しました。 #岡山県 #倉敷市 #美観地区 #大原美術館 #大原孫三郎 #児島虎次郎
イギリス政府は犯人処刑と賠償金の支払いを薩摩藩に求めましたが、薩摩藩が要求を突っぱね、薩英戦争に発展。近代兵器を備えたイギリス軍が薩摩の城下町や集成館を炎上させたことで薩摩藩は日英の技術力の違いを思い知らされ、イギリスに学ぶ姿勢に転じました。 #鹿児島 #薩摩藩 #薩英戦争 #生麦事件
白眉は「なぜ寅さんは葛飾柴又に帰ってきたのか」。山田洋次監督の『男はつらいよ」は菊池寛の戯曲「父帰る」を意識してつくられたのではないか、と推理した上で葛飾柴又が東京の人には地方じみて見え、地方の人には東京らしく見える絶妙な距離感にあると指摘。なるほどと思いました(写真は奥州市水沢公園にある後藤新平像)。 #門井慶喜 #東京の謎 #文春新書 #山田洋次 #男はつらいよ #葛飾柴又 #菊池寛 #父帰る
集成館は斉彬が藩主に就任してまもなく西洋式の工場群として建造。薩摩藩では27代藩主斉興の時代からガラス製造に着手しましたが、斉彬は本格的なガラス製造に乗り出しました。ここで研究開発を繰り返しながら、製造されたのが薩摩切子と呼ばれる工芸品です。 #薩摩藩 #島津斉彬 #鹿児島 #集成館 #薩摩切子
たとえば、「日本人の微笑」に関して。「日本人の微笑は、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである。それはまた、沈黙の言語でもある」と。優れた日本論になっている、と改めて思いました(写真は松江にある小泉八雲旧居)。 #ラフカディオ・ハーン #小泉八雲 #池田雅之 #角川ソフィア文庫 #日本の面影 #朝ドラ #ばけばけ #松江 #日本人の微笑
観たいと思いながら観ていなかった映画、期待を裏切りませんでした。画面がみずみずしくアルフレード役のフィリップ・ノワレの味のある演技が心に残りました。映画好きには見逃せない名画です。 #盛岡中央劇場 #午前十時の映画祭 #ニュー・シネマ・パラダイス
観たいと思いながら観ていなかった映画、期待を裏切りませんでした。画面がみずみずしくアルフレード役のフィリップ・ノワレの味のある演技が心に残りました。映画好きには見逃せない名画です。 #盛岡中央劇場 #午前十時の映画祭 #ニュー・シネマ・パラダイス
西郷軍は結果的に政府に制圧され、西郷は亡くなりました。鹿児島の人々は西郷隆盛を顕彰するために、西郷南洲顕彰館を建立。すぐ近くには西南戦争の死者が葬られた南洲墓地があります。 #鹿児島 #西郷隆盛 #西南戦争 #西郷洞窟
徳川家康は権力を強化する目的で、西国外様大名を中心に勢力削減に尽力。一国一城令を出し、多くの城が破却されました。1611年八代周辺を治めていた加藤清正が死去、翌年忠広による遺領相続が正式に決定された時、麦島(八代)城以外は破却されました。なぜ麦島城が残ったかといえば、薩摩を支配した島津氏の脅威があったためで、島津氏への牽制の意味があり存続したのです。
地震により崩壊した麦島城の対岸に1622年加藤忠広により新しい城(八代城)が築かれました(写真は八代宮、八代城)。 #八代 #八代城 #熊本 #加藤清正
元治元年(1864)6月5日、長州藩士らが池田屋に集結しているところに新選組が斬りこみました。ご褒美として新選組は幕府から五百両を拝領。羽振りが良くなった新選組隊士は、赤地に「誠」の旗、白山形の浅黄色の羽織を着て角屋に出かける等京都の街で豪遊しましたが、地元の人々は粗暴な振る舞いを嫌悪し、「壬生浪」と呼びました。 #京都 #新選組 #壬生寺 #八木邸
角屋は開設当初から連綿と建物を維持。江戸時代の饗宴を伝える揚屋建築の唯一の遺構として1952年国の重要文化財に指定されています。 #京都 #角屋 #揚屋 #島原
五高で同僚だったのが「ばけばけ」のモデル小泉八雲で、八雲は秋月を「神様のような人」と讃えました。さまざまな困難を切り抜けてきた人物ですが、周囲を明るくする好人物だったようです。本書はそんな秋月を活写した優れた評伝です(写真は小泉八雲熊本旧居)。 #松本健一 #秋月悌次郎 #老日本の面影 #中公文庫 #会津藩 #小泉八雲 #熊本 #ばけばけ
林芙美子記念館は1951年、『放浪記』『浮雲』などの著作で知られる芙美子が亡くなるまで住んでいた家で、山口文象が設計しました。約300坪の敷地に見事な数寄屋造りの建物と豊かな庭木が魅力的な心和むスポットです。 #北区立中央図書館 #赤レンガ #新宿区 #林芙美子記念館 #山口文象 #数寄屋造り
元々山陽は広島藩に仕えていましたが、脱藩して京都に移り住み、多くの文人や学者と交際しながら書斎で『日本外史』を書き上げました。『日本外史』は長州藩の木戸孝允(桂小五郎)や伊藤博文など幕末期に尊皇攘夷運動を展開した多くの志士たちに影響を与えました。 #京都 #頼山陽 #山紫水明処 #広島藩 #尊皇攘夷 #木戸孝允 #日本外史 #伊藤博文 #長州藩 #鴨川