Sekiguchi
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Sekiguchi
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Life is very precious, even right now....

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メカスを「ロブスターおじさん」と生涯非難し続けることになる。ロブスターはスミスの語彙において"地主/家主"みたいな存在を象徴していたと思う。
まぁでも今名前を挙げた人らは、ぼくからしたら、みんな。既存の抑圧的な制度からの"脱出"を試み続ける人らで。
そうした"抗い"を諦めない意志/欲望こそを、ぼくは。"クィア"と呼びたくなる。
Queer, what a difference/When your vision is clear/And you see things/As they really are
踊るフレッド・アステアの歌声聴きながら。

youtu.be/4C-wHhpybl8?...
December 8, 2025 at 3:28 AM
それは裁判の戦略として妥当だったかもだが…おそらくスミスは裁判そのものもパフォーマンスにしてしまうのは明らかだから…裁判に「勝つ」ためには作者で当事者であるスミス自身を除外する必要があったのではないか、でも、しかし。スミスの側からしてみたら…「表現の自由」とか「猥褻の論議」の次元で『燃え上がる生物』を作ったわけではなく…既存のシステム…資本主義的な世界全体への"異議申し立て"なのであって…奴らの論理の勝ち負け…「成功」か「失敗」かなんて…たぶん、だけれども…スミスには本質を見失って矮小化しているとしか思えなかったのではないか。だから、その後のスミスは…ほんとに最大の擁護者であったと思うけれど…
December 8, 2025 at 3:27 AM
ところで。
バルバスタムの「Failure」が日本語で「失敗」なのは正しいにしろ…「失敗」という語に…単にぼくが…なんだかしっくりこない。バルバスタムの意図はわかる気もするし、ぼくが言ってることはその論旨から外れていると思うが、どうも「失敗」は「成功」と対になって、そこから抜け出すためのあえての用語であっても既存の制度を前提にしてしまう感じがしてしまって。
特にジャック・スミスと絡めて考えると。スミスは「失敗」だと思いもしないと思うのだ。
ジョナス・メカスやケン・ジェイコブスらとスミスが仲を違えたのは『燃え上がる生物』の裁判の過程であったらしく、メカスらとその弁護士はスミス自身の出廷を拒んだ…
December 8, 2025 at 3:26 AM
『ソング・フォー・レント』や『ノー・プレジデント』のような政治家/権力者をモチーフにする作品だけでなく『燃え上がる生物』『ノーマル・ラブ』といった…性的表現で話題に上がるような作品も。資本主義…"地主/家主"制度…に如何に抗い生きるのかという問い…抵抗…というか…"映画"自体が既に新たな生き方として…そこに示されていると思える。
余談だが"地主/家主"制度云々といえば。
ジャック・ハルバスタムが特別講義でゴードン・マッタ=クラークを取り上げていた。マッタ=クラークもスミスのパフォーマンスにインスピレーションを得ていたかも知れない…根拠ではないがロバート・ウィルソンの作品に2人とも関わっていた。
December 8, 2025 at 3:25 AM
ホセ・エステバン・ムニョスは《Smith's camp was not good-humored goofing. It insisted on social critique.》と書いていて、それはジャック・スミス作品への大切な観点だと思える。

ムニョスはシュテファン・ブレヒト Stefan Brecht『クィア・シアター Queer Theatre』を参照しつつ主にスミスのパフォーマンス作品について語るが…ぼくには遠く憧れの見ることの叶わぬ"ジャック・スミス"だ!…スミスの映画作品にも"social critique"な側面はある。センセーショナルな側面が強調されるのも仕方ないと思うが。
December 8, 2025 at 3:24 AM
『アル中女の肖像』は、同行二人、ふたりぼっちの一人の物語だ。見棄てられたもの、追いやられたもの、抑圧されたもの…"女たち"の精神の内に確かに宿り…オーランドーの如き転生を繰り返しては抗いつづける魂…"Geist"としてのタベア・ブルーメンシャイン演ずる名無しの彼女が…"ベルリン"の現実においては…アルコールとオレンジの契約の儀式を経て…ルッツェ演じる「動物園の酔っ払い女」に宿る。映画のあらすじでは…観客の目には二人に見えても…映画の感情では…一つの"人生"の革命と挫折が描かれる。挫折で終わるとしても"Geist"は決してハイヒールを脱ぎ捨てはしない。
x.com/tsekiguchi/s...
September 22, 2023 at 1:04 PM
『燃え上がる生物 Flaming Creatures』(1963)で出演者は度々カメラにポージングするみたく演じていて意識的に目線をカメラに向ける瞬間さえある。『勝手にしやがれ À bout de souffle』(1960)のカメラ目線ともそれは様子が違う。ある種の記念撮影のようでもあるのだけれど写真館の固定されたスチールカメラと違ってジャック・スミスの手持ちカメラは演者のパフォーマンスを"記録"しているわけではなく共に戯れようとしているかのようだ。すると見ているぼくはスミスのカメラを通じ"映画"と踊りだしてしまう。ジャック・スミス Jack Smith は1989年9月18日に亡くなった。
September 17, 2023 at 6:44 PM