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ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)はフランス人の思想家。
ニーチェとかマルキ・ド・サド(ドSとかそういうの語源になったひどい人)とかヘーゲルとかキリスト教の思想をまぜくったような思想を展開したよ(雑)
重要な思想家なんだけど書いてる小説の内容があんまりなんで倫理の教科書に載せられなかったり、一般向きの媒体では紹介を避けられたりして、知名度はイマイチだったりする。残念だね。
”好きにしなよ
俺をぶん殴って顔を踏みつけたいなら好きにしな
それをいいふらしたっていいぜ
だけどよお嬢ちゃん
俺のBlue Suede Shoesだけは踏むんじゃねえ!”
かっこいいね
中学生男子がちょっとHな漫画をレジに運ぶときには、あられもなくドキドキしてしまうが、中年のおじさんはもはや何も感じない。そこには期待するようなものは何も無い(何も無い)((何も無い))とすでに知っているからだ。
この点から見ると真に冒涜的なのは、心の底からどーでも良いと思っている故に、虚無が覗ける不可逆で致命的で逃れようの無い視点を、親しく思っている崇拝者の前でポロリと露出してしまい「あ、ごめん…」と思うも虚しく、崇拝に恒久的な亀裂を入れてしまうような、そういう態度なのではないか。
(責任を取らないKing×責任の無いOnanoco)
中学生男子がちょっとHな漫画をレジに運ぶときには、あられもなくドキドキしてしまうが、中年のおじさんはもはや何も感じない。そこには期待するようなものは何も無い(何も無い)((何も無い))とすでに知っているからだ。
この点から見ると真に冒涜的なのは、心の底からどーでも良いと思っている故に、虚無が覗ける不可逆で致命的で逃れようの無い視点を、親しく思っている崇拝者の前でポロリと露出してしまい「あ、ごめん…」と思うも虚しく、崇拝に恒久的な亀裂を入れてしまうような、そういう態度なのではないか。
No kingsデモで、「king"s"」と複数形が付くのはとても大事で、単数形だとキリスト教だと日本語でいうところの主であったりイエスのことであったりする文脈があるので、和製英語慣習で複数形を省略し「ノーキングデモ」と呼ばないようにしてください。頭髪の奇妙な独裁者はキリストではないし、反キリストデモでもありません。
No kingsデモで、「king"s"」と複数形が付くのはとても大事で、単数形だとキリスト教だと日本語でいうところの主であったりイエスのことであったりする文脈があるので、和製英語慣習で複数形を省略し「ノーキングデモ」と呼ばないようにしてください。頭髪の奇妙な独裁者はキリストではないし、反キリストデモでもありません。
”好きにしなよ
俺をぶん殴って顔を踏みつけたいなら好きにしな
それをいいふらしたっていいぜ
だけどよお嬢ちゃん
俺のBlue Suede Shoesだけは踏むんじゃねえ!”
かっこいいね
”好きにしなよ
俺をぶん殴って顔を踏みつけたいなら好きにしな
それをいいふらしたっていいぜ
だけどよお嬢ちゃん
俺のBlue Suede Shoesだけは踏むんじゃねえ!”
かっこいいね
(責任を取らないKing×責任の無いOnanoco)
(責任を取らないKing×責任の無いOnanoco)
キリスト教道徳と古代ギリシアの感性がいりまじり混乱してるだけで。
古代オリンピックはすっぽんぽんで、女子は未婚でないと観るのを許されなかった。
なにしろ誰が一番強いオスなのか、優良な身体をもつ個体なのか決めようというお祭りなのだ。性的で無いはずがない。
キリスト教道徳と古代ギリシアの感性がいりまじり混乱してるだけで。
古代オリンピックはすっぽんぽんで、女子は未婚でないと観るのを許されなかった。
なにしろ誰が一番強いオスなのか、優良な身体をもつ個体なのか決めようというお祭りなのだ。性的で無いはずがない。
ところがハードロックがおれの車はブンブン速いぜとかいいはじめて、メタルは悪魔がどうとか叫び始めた。敬虔すぎるクリスチャンからみれば、一般社会が悪魔に支配されているのは当然の常識でしか無いという事になる。つまりメタルとは―
ところがハードロックがおれの車はブンブン速いぜとかいいはじめて、メタルは悪魔がどうとか叫び始めた。敬虔すぎるクリスチャンからみれば、一般社会が悪魔に支配されているのは当然の常識でしか無いという事になる。つまりメタルとは―
個別の人情小話であれば良かったねーと受け入れなくもないが、不快なのはこれをもって、人生は(普遍的に)素晴らしい、との暗なメッセージを送りつけているところ。
タイトルのセンスがその意味で不快。つまり日常の肯定と言うことだろうが。
あれらから発せられているメッセージを直観すると「健気にひたむきに生きていればそれだけでいいんだよ」という感情的な人生の肯定と感じるのだが。
―結論は言わずにおこう☝️
個別の人情小話であれば良かったねーと受け入れなくもないが、不快なのはこれをもって、人生は(普遍的に)素晴らしい、との暗なメッセージを送りつけているところ。
タイトルのセンスがその意味で不快。つまり日常の肯定と言うことだろうが。
簡単に言えば交際費の異常な高騰こそが真の問題であって、そのほかではないのでは。これに対する実践はダサい服をあえて着るというところから、ということになるか。
そのためには、マイホーム、マイカー、階級文化のブランド価値を捨て去り、脱階級化して取り扱う必要があるだろう。下の階級の人はそういう物で馬鹿にされていると感じるので。(実際馬鹿にするための所有であるし、事実馬鹿にしているだろう)
それらを身につけたまま仲良くなれる超人も稀にはいるだろうが、難易度は高いだろう。
簡単に言えば交際費の異常な高騰こそが真の問題であって、そのほかではないのでは。これに対する実践はダサい服をあえて着るというところから、ということになるか。
フライトアテンダント「ボンジュール。なにを読まれているのですか?」
影山雅永「坂口安吾ですね(ゴリゴリのロリコン小説を開きながら)」
フライトアテンダント「素敵ですね、良い旅を。ボンボヤージュ」
そういう未来もありえた
フライトアテンダント「ボンジュール。なにを読まれているのですか?」
影山雅永「坂口安吾ですね(ゴリゴリのロリコン小説を開きながら)」
フライトアテンダント「素敵ですね、良い旅を。ボンボヤージュ」
そういう未来もありえた
直感的な道徳感情による禁止に頼るのはやめて、理性的な公正の観点から淡々と禁止するのが、事案の発生の防止にはむしろ有効なのではないか。
小児愛にまつわる諸々、道徳の圧が強すぎて総出で否認のおおぼけかましているだけなんじゃ無いかと思っている。混浴の禁止年齢に正直な知恵が現れている。
殺人を非難するのに人殺しの映画ばかり作っているのが人間。大事なのは欲望の是非ではなく、禁止の理由。
ブコウスキーが自伝的小説で、ある教師について、こいつの頭の中ではいつも男子児童が女子とヤリまくっているということになっていた、というような評価をしていたが、実際、中学の男性教師の一部がそうした気配を漂わせているのは自分も感じていた。
感情は普段、接している対象のものが感染する。中学生に接していると、中学生がうつってしまう。これにあらがうには強い倫理が必要だが、今の時代、社会倫理は中核を欠いている。で…
直感的な道徳感情による禁止に頼るのはやめて、理性的な公正の観点から淡々と禁止するのが、事案の発生の防止にはむしろ有効なのではないか。
これを受け入れた場合、それについては口を閉ざし、できる範囲で善行、贖罪をなすか、死を覚悟して不正を正すべき、となるはず。
これを受け入れた場合、それについては口を閉ざし、できる範囲で善行、贖罪をなすか、死を覚悟して不正を正すべき、となるはず。