「どうして知らずにおられるのかしら? 光があれば影がある。幸せの影には不幸があるし、喜ぶ人のうしろに涙を流す人がいるわ。自分たちの光の影には、悲しみの世界があることに、もっと早く気づくべきだったのよ。」『きらめきのサフィール』
としょかん しやくしょ すいぞくかん
こうしゅうといれ に
ばす たくしー
つりさげむしよけ しょうしゅうすぷれー
しょっきあらい に せいはつりょう
となりのいえ よこのひと
そんなの わたしのせいでない
それでも
おなじくうきの なかにいるhttps://www.youtube.com/shorts/4NVIGzrVV_A
としょかん しやくしょ すいぞくかん
こうしゅうといれ に
ばす たくしー
つりさげむしよけ しょうしゅうすぷれー
しょっきあらい に せいはつりょう
となりのいえ よこのひと
そんなの わたしのせいでない
それでも
おなじくうきの なかにいるhttps://www.youtube.com/shorts/4NVIGzrVV_A
このことは、アタマやコトバで説得され提示される理念やイデオロギー、アタマのいい人、えらい人(つまり権威)の言うことに受動的・優等生的に従うことよりも実感と経験、身体性にもとづき生成的に自分たちで暮らしを作りだす営み自体が、多様性へ向き合い、寛容な空間を作りだすことを示唆していよう。
マクロないいシステムをつくりお任せ、がそもそも間違った前提で、経験する身体性が見出される必要がある。
このことは、アタマやコトバで説得され提示される理念やイデオロギー、アタマのいい人、えらい人(つまり権威)の言うことに受動的・優等生的に従うことよりも実感と経験、身体性にもとづき生成的に自分たちで暮らしを作りだす営み自体が、多様性へ向き合い、寛容な空間を作りだすことを示唆していよう。
マクロないいシステムをつくりお任せ、がそもそも間違った前提で、経験する身体性が見出される必要がある。
LGBTの子ども若者支援をしている団体を運営している者です。
トランスジェンダーの子どもに関するひどい質疑で注目を集めようとしている議員が話題ですが、言い返すのもエサに食いつくみたいなのでこちらの方を拡散希望です。
今週末に盛岡で開催予定のイベント「安心 ・安全な場を作るために周りのおとなができること 多様な性/LGBTQを学ぼう」はアーカイブ配信もあります。
24zzz-lgbt.com/event/202509...
また You Tubeで学べる無料動画も作成しています(要申込)
24zzz-lgbt.com/blog/materia...
続きます
LGBTの子ども若者支援をしている団体を運営している者です。
トランスジェンダーの子どもに関するひどい質疑で注目を集めようとしている議員が話題ですが、言い返すのもエサに食いつくみたいなのでこちらの方を拡散希望です。
今週末に盛岡で開催予定のイベント「安心 ・安全な場を作るために周りのおとなができること 多様な性/LGBTQを学ぼう」はアーカイブ配信もあります。
24zzz-lgbt.com/event/202509...
また You Tubeで学べる無料動画も作成しています(要申込)
24zzz-lgbt.com/blog/materia...
続きます
今の支配的秩序は、一人一人が世界に素手で触れ直接にやりとりして関係性を変えていく主体であることを徹底的に疎外して成り立っているのはその通りだ。
疎外され、間違ったものを押しつけられ続けてきたことに対する復讐、意趣返しが前面に出る。
実感されない良いことや正しさではなく、まずはわたし自身が実際に実感する変化をおこすものが求められ、実感しないことを受け入れる優等生のアタマではなく、疎外され受動化され続けた結果の身体性の反動が優勢になっている。
今の支配的秩序は、一人一人が世界に素手で触れ直接にやりとりして関係性を変えていく主体であることを徹底的に疎外して成り立っているのはその通りだ。
疎外され、間違ったものを押しつけられ続けてきたことに対する復讐、意趣返しが前面に出る。
実感されない良いことや正しさではなく、まずはわたし自身が実際に実感する変化をおこすものが求められ、実感しないことを受け入れる優等生のアタマではなく、疎外され受動化され続けた結果の身体性の反動が優勢になっている。
指摘されてようやく「障害」ということばをいわゆる健常者側が面白おかしく使っていたのだということに意識がいたるエピソードが紹介される。
この事例に限らず、自虐的謙遜をするときに、自分に対してだから何を言ってもいいだろうと油断するのだけど、自分に対する見方でもたとえば能力主義前提で「自分はこんなだった」「こんなです、ははは」ということは、他の人に対しても能力主義の視点で見ているよという表明だし、政治性として能力主義風潮を焚きつけてこそいても、全く消火はしていないだろう。
指摘されてようやく「障害」ということばをいわゆる健常者側が面白おかしく使っていたのだということに意識がいたるエピソードが紹介される。
この事例に限らず、自虐的謙遜をするときに、自分に対してだから何を言ってもいいだろうと油断するのだけど、自分に対する見方でもたとえば能力主義前提で「自分はこんなだった」「こんなです、ははは」ということは、他の人に対しても能力主義の視点で見ているよという表明だし、政治性として能力主義風潮を焚きつけてこそいても、全く消火はしていないだろう。
その人が素晴らしいというところより、そういうあり方が増えれば構造を批判しなくてよくなるところに反応がある。それは批判したり八つ当たりをぶつけても自分の属する体制にさしさわりのない外国人にヘイト向かう心性と同じ。
その人が素晴らしいというところより、そういうあり方が増えれば構造を批判しなくてよくなるところに反応がある。それは批判したり八つ当たりをぶつけても自分の属する体制にさしさわりのない外国人にヘイト向かう心性と同じ。
ことばを使い、ことばのうえでの信念を自分の信念とするのが時代の前提だが、ことばや考えもまた、ミノムシがそのへんにあるもので作ったミノと同じく、外殻であり、その外殻が自動化したものがことばで考える理性的主体・意思的主体としてのわたしだろう。
外殻自体に神経はなく、外殻はその意味でも外からの影響を遮断するためにある防壁である。このわたしとして認識される人間の外殻もまたその基本的性質は外のものからの影響を遮断する防壁としてあると考えれば、なぜ言っていることが伝わらないのか、頑なに変わらないのかが納得できる。
ことばを使い、ことばのうえでの信念を自分の信念とするのが時代の前提だが、ことばや考えもまた、ミノムシがそのへんにあるもので作ったミノと同じく、外殻であり、その外殻が自動化したものがことばで考える理性的主体・意思的主体としてのわたしだろう。
外殻自体に神経はなく、外殻はその意味でも外からの影響を遮断するためにある防壁である。このわたしとして認識される人間の外殻もまたその基本的性質は外のものからの影響を遮断する防壁としてあると考えれば、なぜ言っていることが伝わらないのか、頑なに変わらないのかが納得できる。
検索をすると「チッソは〜」のほうはたくさん出てくるが、「常世〜」への言及は少ないのが不思議だ。一時期絶版していたこともあるのかもしれないが、ある種「水俣のことを読んだ」という動機で有名な本を読んで何がしかのカタルシスを得るのが目的であって、内容を受けとってさらに考えたいわけではないのだろうか。
検索をすると「チッソは〜」のほうはたくさん出てくるが、「常世〜」への言及は少ないのが不思議だ。一時期絶版していたこともあるのかもしれないが、ある種「水俣のことを読んだ」という動機で有名な本を読んで何がしかのカタルシスを得るのが目的であって、内容を受けとってさらに考えたいわけではないのだろうか。
do-cks.net/works/public...
電子版一括ダウンロード可能。
do-cks.net/works/public...
電子版一括ダウンロード可能。
公的には差別に反対する人が親族の婚姻などにおいては差別感情を抑えられなかったりすることは、自覚的な思考と身体化した記憶との乖離といえるのではないか。
そのため理屈でのアプローチだけではなく、身体性を介在させる。具体的な状況に身を置いて、現在の規定を決定づけた過去の経験をよびおこしつつ、動きだした経験に「続き」を提供することで規定の意味は遷移する。
あらためて、経験とは自律的な変化や移り変わりのプロセスのことであり、それが人にとっての時間である。
公的には差別に反対する人が親族の婚姻などにおいては差別感情を抑えられなかったりすることは、自覚的な思考と身体化した記憶との乖離といえるのではないか。
そのため理屈でのアプローチだけではなく、身体性を介在させる。具体的な状況に身を置いて、現在の規定を決定づけた過去の経験をよびおこしつつ、動きだした経験に「続き」を提供することで規定の意味は遷移する。
あらためて、経験とは自律的な変化や移り変わりのプロセスのことであり、それが人にとっての時間である。
けっきょくたにんごとに
することであり
あたまのもんだいに
すること
かんせつかされた
だいきぼなしくみを
いくらせんれんさせても
せかいのせんさいな
かさなりあいを
じっかんすることから
きりはなされた
それぞれのひとが
むせきにんかして
やがていっきに
くずれるのを
まのあたりにしている
じぶんごとにするとは
かんせつかされた
あたまのもんだいを
じっかんする
からだのもんだいへと
ひとつひとつ
ほんやく
しなおしていくこと
けっきょくたにんごとに
することであり
あたまのもんだいに
すること
かんせつかされた
だいきぼなしくみを
いくらせんれんさせても
せかいのせんさいな
かさなりあいを
じっかんすることから
きりはなされた
それぞれのひとが
むせきにんかして
やがていっきに
くずれるのを
まのあたりにしている
じぶんごとにするとは
かんせつかされた
あたまのもんだいを
じっかんする
からだのもんだいへと
ひとつひとつ
ほんやく
しなおしていくこと
じぶんにちょくせつかかわり
もはやこのままでは
じぶんのいきていくことが
なりたたないすいじゅんまで
もんだいがやってきたとき
ようやくひとがかわる
それまでたにんのことを
ほおっておいたひとたちが
じぶんにあついひのこが
ふりかかってきたときに
しゃかいせいぎの
すろーがんをかかげて
みんなのもんだいにして
ほかのひとを
うごかそうとすることに
うんざりしているむきも
あるかもしれないが
じぶんもひとも
そのようにしか
かわれないから
じぶんにちょくせつかかわり
もはやこのままでは
じぶんのいきていくことが
なりたたないすいじゅんまで
もんだいがやってきたとき
ようやくひとがかわる
それまでたにんのことを
ほおっておいたひとたちが
じぶんにあついひのこが
ふりかかってきたときに
しゃかいせいぎの
すろーがんをかかげて
みんなのもんだいにして
ほかのひとを
うごかそうとすることに
うんざりしているむきも
あるかもしれないが
じぶんもひとも
そのようにしか
かわれないから
さかなクン「広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。」・・・
社会自体が監禁空間としての半面を持つということ。学校など一箇所に閉じ込められること自体がいじめや強い独裁的リーダーを作りだすことを認めることは既存の社会や世間には難しいだろうか。
www.asahi.com/articles/ASH...
さかなクン「広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。」・・・
社会自体が監禁空間としての半面を持つということ。学校など一箇所に閉じ込められること自体がいじめや強い独裁的リーダーを作りだすことを認めることは既存の社会や世間には難しいだろうか。
www.asahi.com/articles/ASH...
と同時に、傷は関わるものたちに自分たちの現状のいびつさに向き合わせて、人を窒息させていくガスが充満する環境にもはや糊塗できない風穴をあけ、状況を不可逆的に更新してしまう。
傷は人間と人間の合意の外にあり、だからこそ人間同士では乗り越えられない欺瞞に人間を対峙させる。
傷とは個人のものではない。
傷は共同的なものであり、社会的なものである。
だからそれは社会に返されなければならない。
と同時に、傷は関わるものたちに自分たちの現状のいびつさに向き合わせて、人を窒息させていくガスが充満する環境にもはや糊塗できない風穴をあけ、状況を不可逆的に更新してしまう。
傷は人間と人間の合意の外にあり、だからこそ人間同士では乗り越えられない欺瞞に人間を対峙させる。
傷とは個人のものではない。
傷は共同的なものであり、社会的なものである。
だからそれは社会に返されなければならない。
「たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私たちの関した(かかわりのある)ことではない。私たちはただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私たち自身の真の生活である。」
「私はそれをしたい。それをすることによって、私たちの生活が今ただちに私たちと一緒にある。遠いかなたに理想の目標をおくようなものではない。」p222
www.instagram.com/p/DGm6WUzygP...
「たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私たちの関した(かかわりのある)ことではない。私たちはただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私たち自身の真の生活である。」
「私はそれをしたい。それをすることによって、私たちの生活が今ただちに私たちと一緒にある。遠いかなたに理想の目標をおくようなものではない。」p222
www.instagram.com/p/DGm6WUzygP...
(半年以上かけて、出てきたのがこれか…)という気持ちで読んだ。
joseigakkai-jp.org/wp/wp-conten...
(半年以上かけて、出てきたのがこれか…)という気持ちで読んだ。
joseigakkai-jp.org/wp/wp-conten...
欧米由来のことばだったらこれは「伝統」的な父と子の関係の下敷きにしていないか。
あることばを受け入れることはその前提にあるイデオロギーを受け入れることになる。誰に認めてもらいたいのか? 具体的な対象に認めてもらわないと本当に次にうつれないのか?
自身にとって重要に思われる価値や感覚の共有とすると、権威や上下抜きにそこにある実態を受けとれる。
欧米由来のことばだったらこれは「伝統」的な父と子の関係の下敷きにしていないか。
あることばを受け入れることはその前提にあるイデオロギーを受け入れることになる。誰に認めてもらいたいのか? 具体的な対象に認めてもらわないと本当に次にうつれないのか?
自身にとって重要に思われる価値や感覚の共有とすると、権威や上下抜きにそこにある実態を受けとれる。
まだ性暴力に向き合わないこの社会環境のありようを、ましてや福祉ということばを掲げる人たちの「善人の沈黙」を受ければ、性暴力を受けて傷つき不本意なまま生を終えた存在たちは死んでも報われないでしょう。
性暴力を経てなお必死に生き続けている被害者たちがいる場所もこの世の地獄です。放っておけばいつでも地獄になりうるこの修羅の世界に対峙する反逆が文化の本質ではと自分は考えます。
note.com/wataruasada/...
まだ性暴力に向き合わないこの社会環境のありようを、ましてや福祉ということばを掲げる人たちの「善人の沈黙」を受ければ、性暴力を受けて傷つき不本意なまま生を終えた存在たちは死んでも報われないでしょう。
性暴力を経てなお必死に生き続けている被害者たちがいる場所もこの世の地獄です。放っておけばいつでも地獄になりうるこの修羅の世界に対峙する反逆が文化の本質ではと自分は考えます。
note.com/wataruasada/...
ただ、ある試行が結果的に既存の状況のどこかに不可逆的な破綻をもたらしたならば、新しいものを生むつもりだった試行が新しいものを生んだということにはなる。
試行錯誤の意味は、何かを一つ一つ完全に終わらせていくことであり、その結果できた新しい状況が新しいものを生む。
ただ、ある試行が結果的に既存の状況のどこかに不可逆的な破綻をもたらしたならば、新しいものを生むつもりだった試行が新しいものを生んだということにはなる。
試行錯誤の意味は、何かを一つ一つ完全に終わらせていくことであり、その結果できた新しい状況が新しいものを生む。
それに対してまず出てくる反応がなぜこの世界に生まれてこなければいけないのか、という自他全否定の厭世感だが、圧に対しての自動的で欺瞞的な合理化でしかない。
自己完結で、罪責を緩和し一時的にいいことをした気分、あるいは使ってしまえとやぶれかぶれの解放を得るための寄付が現状の自分の実態だが、本質と自意識が一致しているという仮定がなければ、自分がどう欺瞞的であれ、金銭は金銭として自律的に機能する。悪いと感じてなくても人の足を踏めば謝るのが筋だ。
よって問題は自分をよく飾れない苦しみであり、苦しんでおけばよい。
それに対してまず出てくる反応がなぜこの世界に生まれてこなければいけないのか、という自他全否定の厭世感だが、圧に対しての自動的で欺瞞的な合理化でしかない。
自己完結で、罪責を緩和し一時的にいいことをした気分、あるいは使ってしまえとやぶれかぶれの解放を得るための寄付が現状の自分の実態だが、本質と自意識が一致しているという仮定がなければ、自分がどう欺瞞的であれ、金銭は金銭として自律的に機能する。悪いと感じてなくても人の足を踏めば謝るのが筋だ。
よって問題は自分をよく飾れない苦しみであり、苦しんでおけばよい。