エピローグ
stopgenocide99.bsky.social
エピローグ
@stopgenocide99.bsky.social
本降りになって出ていく雨宿り。数人で自家菜園。自分たちの分と炊き出しに提供する分の野菜を育てる。ときどき読書会。

「どうして知らずにおられるのかしら? 光があれば影がある。幸せの影には不幸があるし、喜ぶ人のうしろに涙を流す人がいるわ。自分たちの光の影には、悲しみの世界があることに、もっと早く気づくべきだったのよ。」『きらめきのサフィール』
がっこう しごと いくおみせ
としょかん しやくしょ すいぞくかん
こうしゅうといれ に
ばす たくしー
つりさげむしよけ しょうしゅうすぷれー
しょっきあらい に せいはつりょう
となりのいえ よこのひと
そんなの わたしのせいでない 
それでも
おなじくうきの なかにいるhttps://www.youtube.com/shorts/4NVIGzrVV_A
October 16, 2025 at 1:06 PM
徳島の高齢者の自殺希少地域では、自分たちが直接に取り組むことに対してケチらずお金を払うが、赤十字のような、自分たちに関係のないところで使われる募金のようなものには使わない人の割合がアンケートで多かったという。

このことは、アタマやコトバで説得され提示される理念やイデオロギー、アタマのいい人、えらい人(つまり権威)の言うことに受動的・優等生的に従うことよりも実感と経験、身体性にもとづき生成的に自分たちで暮らしを作りだす営み自体が、多様性へ向き合い、寛容な空間を作りだすことを示唆していよう。

マクロないいシステムをつくりお任せ、がそもそも間違った前提で、経験する身体性が見出される必要がある。
October 5, 2025 at 5:28 AM
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【よければ広めてください】

LGBTの子ども若者支援をしている団体を運営している者です。

トランスジェンダーの子どもに関するひどい質疑で注目を集めようとしている議員が話題ですが、言い返すのもエサに食いつくみたいなのでこちらの方を拡散希望です。

今週末に盛岡で開催予定のイベント「安心 ・安全な場を作るために周りのおとなができること 多様な性/LGBTQを学ぼう」はアーカイブ配信もあります。
24zzz-lgbt.com/event/202509...

また You Tubeで学べる無料動画も作成しています(要申込)
24zzz-lgbt.com/blog/materia...

続きます
にじーず|LGBT(かもしれない人を含む)の10代から23歳までの人たちの居場所
LGBT(かもしれない人を含む)の10代から23歳までの人たちの居場所です。中学生、高校生も安心して遊びに来てね。東京、埼玉、札幌、京都、岡山で活動中。友達作ったり遊んだり悩みを話したりできます。
24zzz-lgbt.com
September 12, 2025 at 10:00 AM
既存の秩序として大きな顔をしていたもの、正しさを自分たちに押しつけていたものがもう古いものであり、機能しなくなっていることは直覚されている。

今の支配的秩序は、一人一人が世界に素手で触れ直接にやりとりして関係性を変えていく主体であることを徹底的に疎外して成り立っているのはその通りだ。

疎外され、間違ったものを押しつけられ続けてきたことに対する復讐、意趣返しが前面に出る。

実感されない良いことや正しさではなく、まずはわたし自身が実際に実感する変化をおこすものが求められ、実感しないことを受け入れる優等生のアタマではなく、疎外され受動化され続けた結果の身体性の反動が優勢になっている。
July 28, 2025 at 1:06 AM
ヴァージニア・ウルフ「戦争を阻止するためのわたしたちの最善の手助けとは、あなたがたの言葉を繰り返し、あなたがたの方法に従うのではなく新しい言葉を見つけ、新しい方法を創造することです」
July 27, 2025 at 2:01 PM
キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする』では著者が自虐的に謙遜しようとして自身を大勢の前で「決定障害」と呼んだ。

指摘されてようやく「障害」ということばをいわゆる健常者側が面白おかしく使っていたのだということに意識がいたるエピソードが紹介される。

この事例に限らず、自虐的謙遜をするときに、自分に対してだから何を言ってもいいだろうと油断するのだけど、自分に対する見方でもたとえば能力主義前提で「自分はこんなだった」「こんなです、ははは」ということは、他の人に対しても能力主義の視点で見ているよという表明だし、政治性として能力主義風潮を焚きつけてこそいても、全く消火はしていないだろう。
May 10, 2025 at 3:15 AM
印籠をみせて締めていた時代劇の安心感は結局体制内におさまるというところなのだと再認識するのは、アクロバッティックな素敵対応やストイックな自己責任サムライを賞賛するおすすめつぶやきをアルゴリズムにみせられるとき。

その人が素晴らしいというところより、そういうあり方が増えれば構造を批判しなくてよくなるところに反応がある。それは批判したり八つ当たりをぶつけても自分の属する体制にさしさわりのない外国人にヘイト向かう心性と同じ。
April 27, 2025 at 9:18 AM
人間はミノムシのようなものとよく思うが、そこらへんにあるもので自分の外殻を作っていく。

ことばを使い、ことばのうえでの信念を自分の信念とするのが時代の前提だが、ことばや考えもまた、ミノムシがそのへんにあるもので作ったミノと同じく、外殻であり、その外殻が自動化したものがことばで考える理性的主体・意思的主体としてのわたしだろう。

外殻自体に神経はなく、外殻はその意味でも外からの影響を遮断するためにある防壁である。このわたしとして認識される人間の外殻もまたその基本的性質は外のものからの影響を遮断する防壁としてあると考えれば、なぜ言っていることが伝わらないのか、頑なに変わらないのかが納得できる。
April 17, 2025 at 4:42 AM
落語家のような語り口で政治や社会の風刺をする欧米のコメディアンのよう。一般に専門家でもなんでもない人がいうことは、世間からは「声」としてとらえられる。声というのは、意味や内容ではなく、身体的・動物的な五感のあらわれ。一方、専門家のいうことは声ではなく、理性的思考であり、信じるに足る現実として受け取られる。当事者や一般人の声は、専門家などの権威がそれを解釈して位置づけ、言い直してから、はじめて一般社会がまともに受けとるに値する意味内容になる。
April 10, 2025 at 4:55 PM
人間が自然を逸脱した存在であるという言い方をよく聞くが、異常な状況になると選挙などしても自分もろとも滅ぼす人を選んでまるごと更新されようとする感じなど、とても自然ぽいような気がする。
March 18, 2025 at 9:08 AM
緒方正人さんの本で「チッソはわたしであった」が有名だが、こちらは各所の講演録をあわせたもの。一方、「常世の舟を漕ぎて」はライフヒストリーに加えて緒方さんの思想が語られていて、どちらかというと「常世〜」のほうが一貫性があり、密度も高い。

検索をすると「チッソは〜」のほうはたくさん出てくるが、「常世〜」への言及は少ないのが不思議だ。一時期絶版していたこともあるのかもしれないが、ある種「水俣のことを読んだ」という動機で有名な本を読んで何がしかのカタルシスを得るのが目的であって、内容を受けとってさらに考えたいわけではないのだろうか。
March 12, 2025 at 4:25 AM
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同志社コリア研究センター | 同志社コリア研究叢書6『飯山由貴《In-Mates》の上映禁止が問いかけるもの:検閲/コロニアリズム/ジェンダー』
do-cks.net/works/public...
電子版一括ダウンロード可能。
同志社コリア研究センター
同志社コリア研究センターのwebサイトです。
do-cks.net
March 1, 2025 at 8:44 AM
このように考えてみる。人間にとって記憶とは、ハードディスクに個々のデータが雑多に収納されているようなものではなく、一つ一つが種のようなものであると。それぞれの種は、次の状態へと移り変ろうとする動機をもっている。移り変わりに必要なものは、それぞれの種が固有に求める経験の質だ。質こそが身体にとっての現実の経験となる。物語を読む人は、種である記憶が求める経験の質を得ようとしている。
March 7, 2025 at 4:32 PM
自分を何と規定しているか、自覚している規定と無自覚の規定があるだろう。いろいろな不都合をおこすのは無自覚な規定のほうであり、これは変えにくい。

公的には差別に反対する人が親族の婚姻などにおいては差別感情を抑えられなかったりすることは、自覚的な思考と身体化した記憶との乖離といえるのではないか。

そのため理屈でのアプローチだけではなく、身体性を介在させる。具体的な状況に身を置いて、現在の規定を決定づけた過去の経験をよびおこしつつ、動きだした経験に「続き」を提供することで規定の意味は遷移する。

あらためて、経験とは自律的な変化や移り変わりのプロセスのことであり、それが人にとっての時間である。
March 7, 2025 at 3:12 PM
かんせつかするとは
けっきょくたにんごとに
することであり
あたまのもんだいに
すること

かんせつかされた
だいきぼなしくみを
いくらせんれんさせても

せかいのせんさいな
かさなりあいを
じっかんすることから
きりはなされた

それぞれのひとが
むせきにんかして
やがていっきに
くずれるのを
まのあたりにしている

じぶんごとにするとは
かんせつかされた
あたまのもんだいを

じっかんする
からだのもんだいへと
ひとつひとつ
ほんやく
しなおしていくこと
March 4, 2025 at 5:26 AM
たにんがどうこうではなく
じぶんにちょくせつかかわり
もはやこのままでは
じぶんのいきていくことが
なりたたないすいじゅんまで
もんだいがやってきたとき
ようやくひとがかわる

それまでたにんのことを
ほおっておいたひとたちが
じぶんにあついひのこが
ふりかかってきたときに

しゃかいせいぎの
すろーがんをかかげて
みんなのもんだいにして
ほかのひとを
うごかそうとすることに
うんざりしているむきも
あるかもしれないが
じぶんもひとも
そのようにしか
かわれないから
March 4, 2025 at 4:12 AM
・・・たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。

さかなクン「広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。」・・・

社会自体が監禁空間としての半面を持つということ。学校など一箇所に閉じ込められること自体がいじめや強い独裁的リーダーを作りだすことを認めることは既存の社会や世間には難しいだろうか。

www.asahi.com/articles/ASH...
March 2, 2025 at 3:49 AM
傷は自分を追い詰めていき、また周りを不快に揺り動かす。やがて高まった圧は暴発し、周囲をまきこみ今まであったものや関わりを壊す。

と同時に、傷は関わるものたちに自分たちの現状のいびつさに向き合わせて、人を窒息させていくガスが充満する環境にもはや糊塗できない風穴をあけ、状況を不可逆的に更新してしまう。

傷は人間と人間の合意の外にあり、だからこそ人間同士では乗り越えられない欺瞞に人間を対峙させる。

傷とは個人のものではない。
傷は共同的なものであり、社会的なものである。
だからそれは社会に返されなければならない。
February 28, 2025 at 4:43 PM
金子ふみ子
「たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私たちの関した(かかわりのある)ことではない。私たちはただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私たち自身の真の生活である。」
「私はそれをしたい。それをすることによって、私たちの生活が今ただちに私たちと一緒にある。遠いかなたに理想の目標をおくようなものではない。」p222

www.instagram.com/p/DGm6WUzygP...
February 28, 2025 at 3:43 PM
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日本女性学会2024年大会 分科会H(森田成也・中里見博ら、ポルノ・買春問題研究会が主体となったパネル報告『フェミニズムと表現・出版・学問の自由』) で、トランス差別的な主張や分科会運営がなされたことに対する、学会調査ワーキンググループの調査報告書。

(半年以上かけて、出てきたのがこれか…)という気持ちで読んだ。

joseigakkai-jp.org/wp/wp-conten...
joseigakkai-jp.org
February 25, 2025 at 9:25 AM
いかにも本当のもののようにみせるが胡散臭いことばとして「承認欲求」がある。本当に「承認」なのか。よしよしと言われてようやく満足するみたいなイメージだが、権威や上下関係を前提としている。

欧米由来のことばだったらこれは「伝統」的な父と子の関係の下敷きにしていないか。

あることばを受け入れることはその前提にあるイデオロギーを受け入れることになる。誰に認めてもらいたいのか? 具体的な対象に認めてもらわないと本当に次にうつれないのか?

自身にとって重要に思われる価値や感覚の共有とすると、権威や上下抜きにそこにある実態を受けとれる。
February 15, 2025 at 3:07 PM
長田まち歩きをナドゥリ・ミュージアムの方にナビゲートしてもらった次の日の「港に灯りがともる」。一緒に行った友人がダメージを受けた。引き続いている社会構造や歴史的問題を生きていれば苦労があるよね、と都合よく帳消しにして、帰化を拒む人には「あかんもんはあかんのや」と言わせてその問題性を言語化させないままええ話にする。矛盾や亀裂をいちいちきれいに隠し、日本人に都合のいい一体性に導く周到な作りがえぐい。
February 10, 2025 at 3:07 PM
アサダさんはある「共同体」と癒着し一体化している世間が今後与えてくるであろう「罰」を覚悟して、また「共同体」の罪を個としての自分が引き受けてアクションをおこされています。

まだ性暴力に向き合わないこの社会環境のありようを、ましてや福祉ということばを掲げる人たちの「善人の沈黙」を受ければ、性暴力を受けて傷つき不本意なまま生を終えた存在たちは死んでも報われないでしょう。

性暴力を経てなお必死に生き続けている被害者たちがいる場所もこの世の地獄です。放っておけばいつでも地獄になりうるこの修羅の世界に対峙する反逆が文化の本質ではと自分は考えます。
note.com/wataruasada/...
これとそれとは別じゃない。性暴力の謝罪・説明なく福祉の祭典が開かれることについて。|アサダワタル(文化活動家)
滋賀で今年も障害福祉の大きな祭典「アメニティー・フォーラム28」が開催される。怒りを感じる。何もなかったかのように開催されることがです。アメニティフォーラムの関係団体である社会福祉法人グロー元代表理事の北岡賢剛氏の性暴力・ハラスメント裁判の過程はリンク先を、またそのことやそれを取り巻く構造的な暴力についてアサダが意見してきたことは最下部にまとめてます。 以前にも書いたことを繰り返しますが、アメニ...
note.com
February 8, 2025 at 9:57 AM
既存のものが不可逆的に破綻をおこしたときに新しいものが生まれるのであって、新しいものを生もうとしたから新しいものが生まれるのではない。

ただ、ある試行が結果的に既存の状況のどこかに不可逆的な破綻をもたらしたならば、新しいものを生むつもりだった試行が新しいものを生んだということにはなる。

試行錯誤の意味は、何かを一つ一つ完全に終わらせていくことであり、その結果できた新しい状況が新しいものを生む。
January 27, 2025 at 10:42 AM
惨状に子どもがいる写真をみて、のうのうと暮らし大した支援もしない自分に圧がかかる。

それに対してまず出てくる反応がなぜこの世界に生まれてこなければいけないのか、という自他全否定の厭世感だが、圧に対しての自動的で欺瞞的な合理化でしかない。

自己完結で、罪責を緩和し一時的にいいことをした気分、あるいは使ってしまえとやぶれかぶれの解放を得るための寄付が現状の自分の実態だが、本質と自意識が一致しているという仮定がなければ、自分がどう欺瞞的であれ、金銭は金銭として自律的に機能する。悪いと感じてなくても人の足を踏めば謝るのが筋だ。

よって問題は自分をよく飾れない苦しみであり、苦しんでおけばよい。
January 27, 2025 at 10:10 AM