上記の歌の選者・佐藤文香氏(俳人・詩人)の文章を抜粋。
「夜に見た星。夜に見たことと、星を見たこと。夜という世界は星を内包し、星もまた夜という舞台で輝いているから、その両者を別々に認識することは難しい。そう言われてみればそうとしか言いようがないのだけれど、それぞれを感じることのわかちがたさを見つけ、切なく思うのが詩人だ。うっとりしてしまう。」
最後の
「多賀盛剛の短歌を読むと、この世の不思議を声で指差しながら歩く、詩の「遅さ」をともにすることができる。」
という部分、とても良いなと思う。
「遅さ」を欲している。今。スピーディーに流れてゆく情報ではなくて。
膨大な時間、緩慢な時間軸の中で、判断を留保しながら、深まってゆく思考の中で「でも」を繰り返し、また遠くの風景を見る。
こういう「遅さ」を欲している。私は今。
そしてその共鳴を、(会いたくても会えない存在としての) ヘヴンにとっての「母」・「ほんとうの(実の)」のいう言葉を押し込めて生きるトキの「家族」という風に、私は考えていたのだけれど、
その「寂しさ」に繋がり得る事実が、
おトキには二人もママさんがいる!という帰結をすることの、その幸福について、思う。
世界の観方を変える、ヘヴンとの結婚、なのだなぁと改めて思ったりする。
#ばけばけ
ヘヴンの過去の語りを聴いて、そうか、彼は「母親」というものをよく知らないのだ、ということを再確認した。
「父親」が空洞化してしまっているトキ
(繰り返される清光院での「ランデヴー」、その始まりに、実の父・雨清水傳がいることの意味についてここで再発見する)と、それはおそらく重なるのではないかな。
もちろん司之介はトキの父親なのだけれど、父としてというより「家族」としての存在感の大きさがあるであろう。(あのキャラクターの説得力)
両者とも、それを失われてしまったもの、として本質的に希求しているところが似ているのだと思う。「寂しさ」に呼応するところが、とても似ているのだと思う。
そして、怪談に呼応する「寂しさ」は、帰る/還る場所の無さ、として表出するのだなぁと思ったのだった。
成仏できない松風の霊と、そこに「寂しさ」を指摘するトキの語りは、
ヘヴン先生の、心許なさ(この地における外部者)に、ふしぎに呼応する。
そしてその共鳴を、(会いたくても会えない存在としての) ヘヴンにとっての「母」・「ほんとうの(実の)」のいう言葉を押し込めて生きるトキの「家族」という風に、私は考えていたのだけれど、
その「寂しさ」に繋がり得る事実が、
おトキには二人もママさんがいる!という帰結をすることの、その幸福について、思う。
世界の観方を変える、ヘヴンとの結婚、なのだなぁと改めて思ったりする。
#ばけばけ
トキは、「知ってた」子なのだなぁと改めて思わされた。
彼女の中の地獄は、私の想定よりもはるかに深かった。
受け止めて、押し黙る。
「私は。」という言葉を持たずに、生きてきたのだなと。
取り乱し方、というのは、他者への甘え方であり、押し込んだ感情の解放なのだろう。
言葉を持たない、例えば怪談の松風のことも思い出す。
印象的だったのは、小一郎に象徴される銭。
これは「交換」の象徴なのだろうな、と。
現代と違って全ての価値が貨幣に無い時代において。
農村においては、その時に食べられる農作物の方が重要だ、という描写を挟みながら。(種籾がいくらあるか、それがどれだけ実るのか、そしてどれだけ収穫できるのか。すべてが別軸で動いている)
-
これに反して、兄藤吉郎は「交換」の法則を超えてくる。
坂井の家から「盗んだ」もの。女がこちらに持ってきた(「贈与」した)仏画。
人の「命を取る」というあまりの重さに、そこに「交換」されるべきもの(「報酬」的なもの)も無いことを受け入れている。→
印象的だったのは、小一郎に象徴される銭。
これは「交換」の象徴なのだろうな、と。
現代と違って全ての価値が貨幣に無い時代において。
農村においては、その時に食べられる農作物の方が重要だ、という描写を挟みながら。(種籾がいくらあるか、それがどれだけ実るのか、そしてどれだけ収穫できるのか。すべてが別軸で動いている)
-
これに反して、兄藤吉郎は「交換」の法則を超えてくる。
坂井の家から「盗んだ」もの。女がこちらに持ってきた(「贈与」した)仏画。
人の「命を取る」というあまりの重さに、そこに「交換」されるべきもの(「報酬」的なもの)も無いことを受け入れている。→
ずっとぼんやりと思ってるだけなのだけど。錦織→ヘヴン という視点には、「こころ」の先生とKのような複雑性を感じる。二作品のそれぞれのキャラクターの関係性に、明確な共通点があるというわけではないので、ぼんやりと、なのだけど。
ずっとぼんやりと思ってるだけなのだけど。錦織→ヘヴン という視点には、「こころ」の先生とKのような複雑性を感じる。二作品のそれぞれのキャラクターの関係性に、明確な共通点があるというわけではないので、ぼんやりと、なのだけど。
激務の年始を終えて、やっと冬休み。計画していたお伊勢参りへ!
という今日は、なんと首相の参拝と重なり、道路の渋滞や厳戒態勢も大変なことになっていたらしいのですが、私たちが到着した時間と参拝した時間がちょうど絶妙にズレていたらしく、全ての混乱に出くわさず渋滞にも巻き込まれず、ほんとうにラッキー。
伊勢市駅二時到着(東京駅10時頃出発)、というのは、夜型生活の私たちにはかなり早い時間なのだけど、一般的には遅いのだな。ということも発見しました笑
しかし、こんなにうまい具合にズレたことは初めてなのでびっくり。
激務の年始を終えて、やっと冬休み。計画していたお伊勢参りへ!
という今日は、なんと首相の参拝と重なり、道路の渋滞や厳戒態勢も大変なことになっていたらしいのですが、私たちが到着した時間と参拝した時間がちょうど絶妙にズレていたらしく、全ての混乱に出くわさず渋滞にも巻き込まれず、ほんとうにラッキー。
伊勢市駅二時到着(東京駅10時頃出発)、というのは、夜型生活の私たちにはかなり早い時間なのだけど、一般的には遅いのだな。ということも発見しました笑
しかし、こんなにうまい具合にズレたことは初めてなのでびっくり。
(おそらく持病の悪化。風邪とか人にうつす系じゃないです。)
身体がしんどいと精神も不安定で、なんというか心細くて拠り所の無い新年でした。
働きながら無理矢理身体を元に戻し、人と話しながら無理矢理こころを社会に戻し。「無理矢理」をやっていた3日間、すべての余裕がなくなりblueskyも開けず。お酒も試飲以外は呑まず。食欲も落ちたので消化によいものしか食べず。
身体最優先に生きると、表面的な欲が後退するな。という発見。
(おそらく持病の悪化。風邪とか人にうつす系じゃないです。)
身体がしんどいと精神も不安定で、なんというか心細くて拠り所の無い新年でした。
働きながら無理矢理身体を元に戻し、人と話しながら無理矢理こころを社会に戻し。「無理矢理」をやっていた3日間、すべての余裕がなくなりblueskyも開けず。お酒も試飲以外は呑まず。食欲も落ちたので消化によいものしか食べず。
身体最優先に生きると、表面的な欲が後退するな。という発見。
美しさと、美しさには回収されない部分、の両方(後者の方が、「生きている」上ではとても多く直面する)を知っている人が、それを圧倒的な「強さ」として見せつけてくれたような感じがありました。ちゃんみなステージ。
美しさと、美しさには回収されない部分、の両方(後者の方が、「生きている」上ではとても多く直面する)を知っている人が、それを圧倒的な「強さ」として見せつけてくれたような感じがありました。ちゃんみなステージ。
と感慨深く思うも束の間、仕込みしながら呑み始めていた夫が寝落ちした…(まぁ予想通りだけど)急にひとり大晦日になってしまったので、ここに入り浸るかもしれませぬ笑
と感慨深く思うも束の間、仕込みしながら呑み始めていた夫が寝落ちした…(まぁ予想通りだけど)急にひとり大晦日になってしまったので、ここに入り浸るかもしれませぬ笑
時間に余裕ができたので、この時期に初めて、お年賀を買いに吉祥寺東急へ。
想像以上の人でギュウギュウ。心のヘヴン先生(ばけばけ)が「ジゴク!」と叫ぶけれど、きっとここにいる人みんな同じ気持ちでしょう…。
年末の街の雑然とした慌ただしさに、銀座ウエストの白い紙袋の清廉さが映えるなぁ。
昔、頂いたときにとても嬉しかったので(普段甘いものは全く食べないのに、この贈り物はとても好もしかった)、銀座ウエストは特別です。とても清らかなのが、とても好き。
変なこと書きますが、私の普段の投稿を読んでくださってる方々には、ウエストの美しいリーフパイを送りたいくらいです。ほんとに変なことだな…
時間に余裕ができたので、この時期に初めて、お年賀を買いに吉祥寺東急へ。
想像以上の人でギュウギュウ。心のヘヴン先生(ばけばけ)が「ジゴク!」と叫ぶけれど、きっとここにいる人みんな同じ気持ちでしょう…。
年末の街の雑然とした慌ただしさに、銀座ウエストの白い紙袋の清廉さが映えるなぁ。
昔、頂いたときにとても嬉しかったので(普段甘いものは全く食べないのに、この贈り物はとても好もしかった)、銀座ウエストは特別です。とても清らかなのが、とても好き。
変なこと書きますが、私の普段の投稿を読んでくださってる方々には、ウエストの美しいリーフパイを送りたいくらいです。ほんとに変なことだな…
繰り返し読んだり、podcastで話すために再読したり。インプットというよりも、定着させたり思考の根っこを作ったりするための読書だったなという感じがあります。もうちょっと新しい本とかいろんな分野を気軽にジャカジャカ読みたい気もあるけど…まぁこれはこれで。
繰り返し読んだり、podcastで話すために再読したり。インプットというよりも、定着させたり思考の根っこを作ったりするための読書だったなという感じがあります。もうちょっと新しい本とかいろんな分野を気軽にジャカジャカ読みたい気もあるけど…まぁこれはこれで。
まだお正月営業に向けた準備があるので仕事納めは先(大晦日の紅白には間に合いたい)なのだけど、とりあえず追われる感じの脳のモードからはスイッチ切り替え。
急にスイッチ切り替えてぼーっとした頭で、M1アナザーストーリーと、べらぼうありがた山トークショーを観て、才能と努力、やり切った人達の重厚なる煌めきを観ている。泣いちゃうよう。
まだお正月営業に向けた準備があるので仕事納めは先(大晦日の紅白には間に合いたい)なのだけど、とりあえず追われる感じの脳のモードからはスイッチ切り替え。
急にスイッチ切り替えてぼーっとした頭で、M1アナザーストーリーと、べらぼうありがた山トークショーを観て、才能と努力、やり切った人達の重厚なる煌めきを観ている。泣いちゃうよう。
確固たる「個」の上で、銀二郎もイライザも他者を愛するからこそ、その人の幸せを自分の幸せと混合することをしない。
-
そして、そんなふたりが/そんなふたりだからこそ、日本家屋という「建前」(「個」の曖昧な場)の中で、「同じ」気持ちを溶け合わせるのだな。
#ばけばけ
隣同士の襖ひとつで仕切られた部屋。襖ひとつという日本社会の「建前」なんて、「同じ気持ち」の前で機能しないのだなぁ、とも思った。
四人それぞれの感情が、溢れ出してそれぞれの器におさまりきらない。それを、直接的な言葉以外で、表現し尽くしたような回であったな、と改めて思う。
#ばけばけ
#ばけばけ
確固たる「個」の上で、銀二郎もイライザも他者を愛するからこそ、その人の幸せを自分の幸せと混合することをしない。
-
そして、そんなふたりが/そんなふたりだからこそ、日本家屋という「建前」(「個」の曖昧な場)の中で、「同じ」気持ちを溶け合わせるのだな。
#ばけばけ
個人的には、東京で会社を興しスーツで帰って来た銀二郎が、「私はおトキちゃんが好きです。愛しています」と言語化したことに、大きな意味があるとも思った。
封建的な「家」に「個」を搾取された(トキを想う気持ちは家の借金返済に回収され、さらに家格の話で人格を否定された)銀二郎が、「個」の言葉を、松野の「家」族たちの前で高らかに宣言したこと。
「愛する」という、新しい言葉を使って!
ヘヴンとトキの文脈と真逆の世界としての、大きなひとつの意味であると思う。
#ばけばけ
すごい週だったなぁ…
トキとヘヴンの築いてきた、言語頼りでないコミュニケーション・濃密な関係性が、怪談の語りや家に残される絵からありありと伝わってくる。「ふたり」のあの空間、むせ返るくらいの濃さ。
「あたたかい場所」という言葉(概念)も太刀打ちできない。
ふたりが一緒になるのは必然だ、というのがよくよくわかる。ふたりが一緒になることに、何らかの言葉(好きです、も、愛してる、も)が必要がないことも。
個人的には、東京で会社を興しスーツで帰って来た銀二郎が、「私はおトキちゃんが好きです。愛しています」と言語化したことに、大きな意味があるとも思った。
封建的な「家」に「個」を搾取された(トキを想う気持ちは家の借金返済に回収され、さらに家格の話で人格を否定された)銀二郎が、「個」の言葉を、松野の「家」族たちの前で高らかに宣言したこと。
「愛する」という、新しい言葉を使って!
ヘヴンとトキの文脈と真逆の世界としての、大きなひとつの意味であると思う。
#ばけばけ
すごい週だったなぁ…
トキとヘヴンの築いてきた、言語頼りでないコミュニケーション・濃密な関係性が、怪談の語りや家に残される絵からありありと伝わってくる。「ふたり」のあの空間、むせ返るくらいの濃さ。
「あたたかい場所」という言葉(概念)も太刀打ちできない。
ふたりが一緒になるのは必然だ、というのがよくよくわかる。ふたりが一緒になることに、何らかの言葉(好きです、も、愛してる、も)が必要がないことも。
すごい週だったなぁ…
トキとヘヴンの築いてきた、言語頼りでないコミュニケーション・濃密な関係性が、怪談の語りや家に残される絵からありありと伝わってくる。「ふたり」のあの空間、むせ返るくらいの濃さ。
「あたたかい場所」という言葉(概念)も太刀打ちできない。
ふたりが一緒になるのは必然だ、というのがよくよくわかる。ふたりが一緒になることに、何らかの言葉(好きです、も、愛してる、も)が必要がないことも。
夕方なんだよ…陽は西に沈んでいくんだ。美しい時間、でもか細くなる光を止めようがなく
ばけばけ
夕方なんだよ…陽は西に沈んでいくんだ。美しい時間、でもか細くなる光を止めようがなく
ばけばけ
夕方なんだよ…陽は西に沈んでいくんだ。美しい時間、でもか細くなる光を止めようがなく
ばけばけ
人の心の部分を無視して常に金策問題へ回収する父の、この何も見えていなさが一方で可笑しさとして表出しているわけだけれど、司之介にとっては、家の長としての、自分自身の責任問題として根本的な部分に常にあるわけだな。
他にも見るべきところはたくさんある回なのに、何故か今日やっとそれに気づいたので、記しておく。
#ばけばけ
人の心の部分を無視して常に金策問題へ回収する父の、この何も見えていなさが一方で可笑しさとして表出しているわけだけれど、司之介にとっては、家の長としての、自分自身の責任問題として根本的な部分に常にあるわけだな。
他にも見るべきところはたくさんある回なのに、何故か今日やっとそれに気づいたので、記しておく。
#ばけばけ
社会の要請による大きすぎる呪縛(ゲイとして生きるさまざまな困難、氷河期世代の女性、男性性の内面化…)を抱えた大人たち。
その呪縛を解放しようとしたときに被害を受けるのは、他でもない愛する我が子なのだ、という残酷さを突きつけた第6話の、物語としてのひとつの解答としてあるような回であった。
-
「一人で長野に行ってギターを作りたい」という蛍の欲望。
このような若き欲求を、「大人」たちによって折られてきたのが、三者面談に参列した、「勝手な大人」たちなのだろう。
どんなに逸脱した道でも「やりたい!」を蛍が言えること、それはひとつの救いとしてあるだろう。
社会の要請による大きすぎる呪縛(ゲイとして生きるさまざまな困難、氷河期世代の女性、男性性の内面化…)を抱えた大人たち。
その呪縛を解放しようとしたときに被害を受けるのは、他でもない愛する我が子なのだ、という残酷さを突きつけた第6話の、物語としてのひとつの解答としてあるような回であった。
-
「一人で長野に行ってギターを作りたい」という蛍の欲望。
このような若き欲求を、「大人」たちによって折られてきたのが、三者面談に参列した、「勝手な大人」たちなのだろう。
どんなに逸脱した道でも「やりたい!」を蛍が言えること、それはひとつの救いとしてあるだろう。
ヘブン先生の場合、
「本心」を伝えるのに母国語のスピードは速すぎるのかもしれないな
イライザ嬢との軽妙な会話を観ながら、おトキちゃんとのコミュニケーションを思い出す
ヘブン先生の場合、
「本心」を伝えるのに母国語のスピードは速すぎるのかもしれないな
イライザ嬢との軽妙な会話を観ながら、おトキちゃんとのコミュニケーションを思い出す
特定の謡を吟ずると障りがある地、という関連で出てきたのでした。
「小豆あらいみたいな旦那さんがいい」と言っていたおトキを思い出し…
ヘヴン先生とふたりでキャッキャしてる昨日の姿の、可愛らしさたるやね。
#ばけばけ
-
このリンク先の記事での発見は、こういった「特定の謡を吟ずると障りのある伝承の地」の他の例として、普門院前の「小豆磨ぎ橋」で「牡若」をうたうと不幸になる、というのがあげられていたこと。(小泉八雲の作品にある、と)
昨日の小豆あらいの話、ここに繋がるのかー。と。
特定の謡を吟ずると障りがある地、という関連で出てきたのでした。
「小豆あらいみたいな旦那さんがいい」と言っていたおトキを思い出し…
ヘヴン先生とふたりでキャッキャしてる昨日の姿の、可愛らしさたるやね。
#ばけばけ
蛇と蛙の「ね〜〜」がとても好きなのですが、これも実は「語り過ぎない」「含ませる」というこの作品の哲学の下あるんだなぁと再確認。
(今日の回、特に「ね〜〜」が多かったので。現状の条件を視聴者と共に確認する、という役割を果たしていた)
-
「ね〜〜」には、噂話や覗き見のようなものが持つ下世話さもあって、それがこの、ナレーションらしくないナレーションを自然にしている。
更に、阿佐ヶ谷姉妹が語ることで井戸端会議っぽさが出るのだけど、阿佐ヶ谷姉妹自身は全然下世話な人たちではないので(生活感はあるけれど)、実は微妙にズレていて、阿佐ヶ谷姉妹でなくて、蛇と蛙なのだよな。すごいなぁと思う。
人間の感情も、どんなに細かく分類して名前をつけても、整理できるものばかりじゃないから。
ばけばけの物語に生きる人々の感情は、自然の音や光や日常の物に仮託されて、複雑な感情もそのまま、その質量のまま、画面に提示されているような気がするなぁ。
蛇と蛙の「ね〜〜」がとても好きなのですが、これも実は「語り過ぎない」「含ませる」というこの作品の哲学の下あるんだなぁと再確認。
(今日の回、特に「ね〜〜」が多かったので。現状の条件を視聴者と共に確認する、という役割を果たしていた)
-
「ね〜〜」には、噂話や覗き見のようなものが持つ下世話さもあって、それがこの、ナレーションらしくないナレーションを自然にしている。
更に、阿佐ヶ谷姉妹が語ることで井戸端会議っぽさが出るのだけど、阿佐ヶ谷姉妹自身は全然下世話な人たちではないので(生活感はあるけれど)、実は微妙にズレていて、阿佐ヶ谷姉妹でなくて、蛇と蛙なのだよな。すごいなぁと思う。