物語を紡ぐことがもう一度楽しくなる――「マンガ家のためのプロット講座」
note.com/tatsuinoradi...
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まあ無理のないペースというのが人間ありますから……
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うつの晴れ間はまたできることが全然違うので、辛抱します。
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有料記事がプレゼントされました! 9月25日 19:19まで全文お読みいただけます。
山内マリコ×金原ひとみ 小説で向き合う文芸界の性加害と「正しさ」:朝日新聞
digital.asahi.com/articles/AST...
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山内マリコ×金原ひとみ 小説で向き合う文芸界の性加害と「正しさ」:朝日新聞
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「自分は1日10枚が限度だし毎日は無理」「1日3枚書ければ大丈夫」などととおっしゃってくれて、3日で100枚書いたぜーみたいな速筆の作家のTwitterを見ては落ち込む私の心が助かります。まぁ円城先生の前衛的で美しい小説と私の小説を同列には語れないが……
note.com/note_engine/...
「自分は1日10枚が限度だし毎日は無理」「1日3枚書ければ大丈夫」などととおっしゃってくれて、3日で100枚書いたぜーみたいな速筆の作家のTwitterを見ては落ち込む私の心が助かります。まぁ円城先生の前衛的で美しい小説と私の小説を同列には語れないが……
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今バージョンでは視点を置く位置ががらりと変わっていて、表裏一体になっているその裏面を見たような感覚さえあるのですが。前バージョンよりも鮮烈なところもあって、逆に根底に流れるまなざしに変わらないところもあって、ああやっぱり好きだなあと思いました。
今バージョンでは視点を置く位置ががらりと変わっていて、表裏一体になっているその裏面を見たような感覚さえあるのですが。前バージョンよりも鮮烈なところもあって、逆に根底に流れるまなざしに変わらないところもあって、ああやっぱり好きだなあと思いました。
初めて読んだときからだいぶ月日が経って。藤田も彼らの歳に近づいたのですが。こうしてリメイク版を読みながら。多分当時のわたしとは全然違う読み方をしていると思うのだけれど、逆にそのせいか懐かしかったです。
魔術的で運命的だと思いました。凄まじい引力が登場人物のなかで絡まり合っている。それは前バージョンもそうなのですが、よりいっそう強まっているように感じられました。奇跡の積み重ね。
世界の底にある何か大切なものに触れるような質感の小説が好きです。何となればその嗜好の根っこに
初めて読んだときからだいぶ月日が経って。藤田も彼らの歳に近づいたのですが。こうしてリメイク版を読みながら。多分当時のわたしとは全然違う読み方をしていると思うのだけれど、逆にそのせいか懐かしかったです。
魔術的で運命的だと思いました。凄まじい引力が登場人物のなかで絡まり合っている。それは前バージョンもそうなのですが、よりいっそう強まっているように感じられました。奇跡の積み重ね。
世界の底にある何か大切なものに触れるような質感の小説が好きです。何となればその嗜好の根っこに
Google NotebookLMに自分の小説を読ませた結果に呆然とした話|辰井圭斗
note.com/tatsuinoradi...
Google NotebookLMに自分の小説を読ませた結果に呆然とした話|辰井圭斗
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“けっきょくなぜオワコンになったと言われるのかといえばGoogleの検索が変わりPVが落ちて、それに伴って広告収益が減った、つまり「たくさんの人にみてももらえないし、金も儲からなくなった」から「オワコンになった」という論調だと思うのだが、たくさんの人にみてもらったり、金を儲けることを目指さなければ、何も終わってなどいない。”
冬木糸一「PVとは別のブログの価値を目指す」
note.com/huyukiitoich...
“けっきょくなぜオワコンになったと言われるのかといえばGoogleの検索が変わりPVが落ちて、それに伴って広告収益が減った、つまり「たくさんの人にみてももらえないし、金も儲からなくなった」から「オワコンになった」という論調だと思うのだが、たくさんの人にみてもらったり、金を儲けることを目指さなければ、何も終わってなどいない。”
冬木糸一「PVとは別のブログの価値を目指す」
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kakuyomu.jp/works/168187...
kakuyomu.jp/works/168187...
では、主体はあるのか。ある。責任を取ろうと望む範囲において存在する。言い換えれば、「私」が「私」として責任を取る、その範囲において主体が立ち上がる。だから、「自己責任」というものは本当は問えないのだけれども、他からの要求ではなく、自分自身の内部での要求である限り、自身に問うて、「私」というものを立ち上げることができる。
だから、加害したものを否認して責任から逃れることは、加害に向き合っていないだけでなく、「私」というものを削ぎ落とす行為だ。それなのに、「私」だの「日本人」だのを立ち上げようとしてもそれは成り立たない。
では、主体はあるのか。ある。責任を取ろうと望む範囲において存在する。言い換えれば、「私」が「私」として責任を取る、その範囲において主体が立ち上がる。だから、「自己責任」というものは本当は問えないのだけれども、他からの要求ではなく、自分自身の内部での要求である限り、自身に問うて、「私」というものを立ち上げることができる。
だから、加害したものを否認して責任から逃れることは、加害に向き合っていないだけでなく、「私」というものを削ぎ落とす行為だ。それなのに、「私」だの「日本人」だのを立ち上げようとしてもそれは成り立たない。
「私」というものが「みんな」の乗り物であり、ほんの短い間に入れ替わっているという感覚。しかし、「私」というものもまた繋がっている、持続しているという感覚。
後者の方は、正直私の実感としては微妙だ。かなり繋がりが分からなくなってしまう。この頃は毎朝迷子になる感覚がある。しかし、「私」は「私」の記憶を持っている。その記憶の連なりが手がかりだ。
そして、「みんな」の乗り物である「私」は、「みんな」と直列や並列でつながりながら、通信をして、アウトプットする。それが、私ではほとんどの場合、テキストのかたちを取る。
そしてまた「みんな」の配列が変わる。そして「私」の構成が変わる。
「私」というものが「みんな」の乗り物であり、ほんの短い間に入れ替わっているという感覚。しかし、「私」というものもまた繋がっている、持続しているという感覚。
後者の方は、正直私の実感としては微妙だ。かなり繋がりが分からなくなってしまう。この頃は毎朝迷子になる感覚がある。しかし、「私」は「私」の記憶を持っている。その記憶の連なりが手がかりだ。
そして、「みんな」の乗り物である「私」は、「みんな」と直列や並列でつながりながら、通信をして、アウトプットする。それが、私ではほとんどの場合、テキストのかたちを取る。
そしてまた「みんな」の配列が変わる。そして「私」の構成が変わる。