https://gigazine.net/news/20251219-swearing-improves-strength/
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憎悪はそれと違って、主体が変化を拒むために内側に沈殿するものである。私達の社会でいま道徳の顔をしているものの根底には憎悪が膨れており、気晴らしで日替わりの標的をみつけてはガスぬきしている状態なのです。
憎悪はそれと違って、主体が変化を拒むために内側に沈殿するものである。私達の社会でいま道徳の顔をしているものの根底には憎悪が膨れており、気晴らしで日替わりの標的をみつけてはガスぬきしている状態なのです。
明治政府が何万社の古代からの社を潰したのか知らないのかよ。国民統御のためにキリスト教のエピゴーネンを作ろうとして地元の小さい神社を潰しまくって何が千年だ。神道は明治政府の神社合祀令でとっくに切り刻まれてんだよ。
ここでも伝統の破壊者は明治政府じゃん。保守はやたら明治政府が好きなくせに千年千年いうよな。
明治政府が何万社の古代からの社を潰したのか知らないのかよ。国民統御のためにキリスト教のエピゴーネンを作ろうとして地元の小さい神社を潰しまくって何が千年だ。神道は明治政府の神社合祀令でとっくに切り刻まれてんだよ。
ここでも伝統の破壊者は明治政府じゃん。保守はやたら明治政府が好きなくせに千年千年いうよな。
https://rna.hatenadiary.jp/entry/20070501/p2
https://rna.hatenadiary.jp/entry/20070501/p2
そうなれば、あ、ここに税金使っても無駄だから諦めてねといわれるはめになるわけだが。
人間稼業を営む上で、それぐらいの想像力は必要不可欠なんじゃないだろうか。
という精神で行きたい。
という精神で行きたい。
問題は、給料が増える・増えないではなく、給料が増えても使い道がない、というところだったのです。
問題は、給料が増える・増えないではなく、給料が増えても使い道がない、というところだったのです。
ジャニーズの件では、既に自殺した者が出てしまっている。『自殺』というが、社会と空気(を形成する、自覚の有無を問わない加害者達)によって『他殺』されたと言っていい
ジャニーズの件では、既に自殺した者が出てしまっている。『自殺』というが、社会と空気(を形成する、自覚の有無を問わない加害者達)によって『他殺』されたと言っていい
「宮崎駿を高畑勲と絡めずに、何故か庵野秀明や富野由悠季と絡めたがる」
高畑勲のやってることが難しくて理解できないから(実は映画史や社会主義的に見ると極めてわかりやすい)庵野秀明や富野由悠季など「自分の理解できる文脈まで引き下げる」んだよね。
x.com/C4Dbeginner/...
「神話ってなろうだよね」とか「聖書ってラノベだよね」とか、そういうのもそう。
勉強しようともせず、調べようともしない。自分のレベルまで下げようとする。
だから20年検索エンジンが働いても同じレベルのままでている。
「宮崎駿を高畑勲と絡めずに、何故か庵野秀明や富野由悠季と絡めたがる」
高畑勲のやってることが難しくて理解できないから(実は映画史や社会主義的に見ると極めてわかりやすい)庵野秀明や富野由悠季など「自分の理解できる文脈まで引き下げる」んだよね。
x.com/C4Dbeginner/...
「神話ってなろうだよね」とか「聖書ってラノベだよね」とか、そういうのもそう。
勉強しようともせず、調べようともしない。自分のレベルまで下げようとする。
だから20年検索エンジンが働いても同じレベルのままでている。
例えば短文SNSが「誰かが自分の言いたかったことをすべて代弁してくれている」という勘違いを生み続けることで、頭の中のモヤモヤをモヤモヤのまま置いておく苦痛に耐えられなくなった人たちは、次の真理の箱を求めたのは当然のことだし、対話型AIがそうなるのもそれこそ人工知能という概念がSFだった頃からちゃんと予測されていたわけで……
例えば短文SNSが「誰かが自分の言いたかったことをすべて代弁してくれている」という勘違いを生み続けることで、頭の中のモヤモヤをモヤモヤのまま置いておく苦痛に耐えられなくなった人たちは、次の真理の箱を求めたのは当然のことだし、対話型AIがそうなるのもそれこそ人工知能という概念がSFだった頃からちゃんと予測されていたわけで……
それらの諸作品が「○○族」の文化的固有性を体現する集合的な資産として扱われることで、個々の表現者の作家性や個人的営為の価値が抹消されてしまいがちで、その問題についていつぞやの民博展示で反省的に回顧されていた記憶がある。
それらの諸作品が「○○族」の文化的固有性を体現する集合的な資産として扱われることで、個々の表現者の作家性や個人的営為の価値が抹消されてしまいがちで、その問題についていつぞやの民博展示で反省的に回顧されていた記憶がある。